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米騒動
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この項目では1918年の「米騒動」について記述しています。1993年の米不足については1993年米騒動をご覧ください。
米騒動(こめそうどう)とは、近世から近代にかけての日本における米価格急騰にともなう暴動事件。
目次 [非表示]
1 概要
2 背景
2.1 米価の暴騰
2.2 国の対応
2.3 社会不安
2.4 シベリア出兵
3 米騒動の発生
4 騒動の広がり
4.1 炭坑への飛び火
4.2 影響範囲
4.3 被差別部落との関わり
4.4 政府対応
4.5 騒動の起こった都市
5 言論弾圧
6 平民宰相の誕生
7 脚注
8 参考文献
9 関連項目
[編集] 概要
米騒動の発生契機としては凶作による米不足や米価格の暴騰が直接的な要因になる事が多い。一般に「米騒動」とのみ呼称した場合は、大正時代の1918年に発生したものを指す。しかし、単純な「米価格の暴騰に伴う民衆暴動」という定義の騒動は江戸時代の享保の大飢饉の頃から幾度となく発生しており、明治維新以降で全国規模にまで発展した米騒動は1890年、1897年、1918年の3度を数える。
1890年の米騒動
1890年1月18日、富山県富山市において市民による市役所・資産家に対する救助要請運動が始まったのをきっかけとして、同年4月から9月にかけて鳥取県、新潟県、福島県、山口県、京都府、石川県、福井県、滋賀県、愛媛県、宮城県、奈良県など19箇所において騒動が発生した。特に新潟県佐渡市相川町では6月28日から7月5日にかけて鉱夫を中心として2000名以上が蜂起し、軍隊の出動をもって鎮圧する事態にまで発展している。[要出典]
1897年の米騒動
1897年5月下旬の富山県魚津町での騒動をきっかけとして始まった騒動で、同年8月から10月にかけて、石川県、長野県、山形県、新潟県、福井県など10箇所において発生した。最も大騒動となったのは長野県飯田町の騒動で、9月1日から9月3日の3日間で約2000名の民衆が暴徒と化し、米問屋や警察署などを襲撃する事態に至った。[要出典]
1918年の米騒動
1918年7月下旬から9月にかけて、富山県魚津町を中心にして参加者100万人を超える全国規模の民衆暴動へ発展した事件。本項次節以降で詳述する。
[編集] 背景
[編集] 米価の暴騰
堂島米会所における当時の米相場第一次世界大戦の直後に暴落した米価は、周りの物価が少しずつ上昇していく中で、約3年半の間ほぼ変わらない値段で推移していたが、1918年の中ごろから急激に上昇しはじめた。大阪堂島の米市場の記録によれば、1918年の1月に1石15円だった米価は、6月には20円を超え、翌月7月17日には30円を超えるという異常事態になっていた(当時の一般社会人の月収が18円-25円)。7月末から8月初めにかけては各地の取引所で立会い中止が相次ぎ、地方からの米の出回りが減じ、8月7日には白米小売相場は1升50銭に暴騰した。
この背景には資本主義の急速な発展が指摘されている。第一次世界大戦の影響による好景気(大戦景気)は都市部の人口増加、工業労働者の増加をもたらしたほか、養蚕などによる収入の増加があった農家は、これまでのムギやヒエといった食生活から米を食べる生活に変化していった。このように、農業界からの人材流出と米の消費量の増加が続いた事に加え、大戦の影響によって米の輸入量が減少した事も重なり[1]、米価暴騰の原因となった。
[編集] 国の対応
米価格が高騰することにより、地主や商人は米を米殻投機へまわすようになり、次第に売り惜しみや買い占めが発生しはじめた。事態を重く見た仲小路廉農商務大臣は1917年9月1日に「暴利取締令」を出し、米、鉄、石炭、綿、紙、染料、薬品の買い占め、売り惜しみを禁止したが、効果はなかった。
1918年4月には「外米管理令」が公布され、三井物産、鈴木商店など指定七社による外国米の大量輸入が実施されたが、米価引下げには至らなかった。
[編集] 社会不安
米価の暴騰は一般市民の生活を苦しめ、新聞が連日米の価格高騰を知らせ煽った事もあり、社会不安を増大させた。寺内正毅内閣総理大臣は1918年5月の地方長官会議にて国民生活難に関して言及したが、その年の予算編成において救済事業奨励費はわずか35,000円のみであり、寺内の憂慮を反映した予算編成になっているとは言えなかった。
この為、警察力の増加をもって社会情勢の不安を抑え込む方針が取られ、それまで5,300人であった巡査を3,000人増員するという措置が取られた。[要出典]
労働者の団結権すらなかったこの時代、厳しい抑圧と、苦しい生活に喘ぐ一般庶民の怒りの矛先は、次第に高所得者、とくに米問屋や商人に向けられるようになっていった。
[編集] シベリア出兵
米価が徐々に上昇していく中、寺内内閣は1918年8月2日、対外政策としてシベリア出兵を宣言した。この宣言は流通業者や商人などが戦争特需における物資高騰を狙い、売り惜しみをさらに加速させていくという状況を発生させた。事実、神戸米会所における相場では7月2日に1升34銭3厘だった相場が8月1日には40銭5厘、8月9日は60銭8厘と急騰している[2]。また、時を前後して富山県での騒動が発生していることなどから、シベリア出兵と米騒動の直接的な因果関係を指摘するものもある[3]。
[編集] 米騒動の発生
1918年7月22日の夜間、富山県下新川郡魚津町の魚津港に、北海道への米の輸送を行うため、「伊吹丸」が寄航。伊吹丸への荷積みを行っていた十二銀行の倉庫前へ魚津町の主婦ら十数人が集まり、米の船積みを中止し、住民に販売するよう求める嘆願がなされた[4]。
この時は巡回中の警官によって解散させられたが、住民らは集会をはじめるなど、米の販売を要望する人数はさらに増加していき、翌月8月3日には中新川郡西水橋町で200名弱の町民が集結し、米問屋や資産家に対し米の移出を停止し、販売するよう嘆願した。
8月6日にはこの運動はさらに激しさを増し、東水橋町、滑川町の住民も巻き込み、1,000名を超える事態となった。住民らは米の移出を実力行使で阻止し、当時1升40銭から50銭の相場だった米を35銭で販売させた。
この件は地方新聞を通じ、全国の新聞に「越中女一揆」として報道された。米騒動の始まりであった。
[編集] 騒動の広がり
8月11日に神戸で起きた騒動によって焼き払われた鈴木商店本社米価の暴騰はとどまりを見せず、1918年8月1日には1石35円を超え、同5日には40円を超え、9日には50円を超えた。8月10日には京都市と名古屋市を皮切りに全国の主要都市で米騒動が発生する形となった。米騒動は移出の取りやめ、安売りの哀願から始まり、要求は次第に寄付の強要、打ちこわしに発展した。10日夜に名古屋鶴舞公園において米価問題に関する市民大会が開かれるとの噂が広まり、約20,000人の群集が集結した。同じく京都では柳原において騒動が始まり、米問屋を打ちこわすなどして1升30銭での販売を強要した。
こうした「値下げを強要すれば安く米が手に入る」という実績は瞬く間に市から市へと広がり、8月17日頃からは都市部から町や農村へ、そして8月20日までにほぼ全国へ波及した。騒動は次第に米問屋から炭坑へと場所を移し、9月12日の三池炭坑の騒動終了まで、50日間を数えた。
[編集] 炭坑への飛び火
8月17日以降には米騒動は山口県や北九州の炭坑騒動へ飛び火する。山口県沖の山炭坑、福岡県峰地炭坑などにおいて炭坑夫の賃上げ要求が暴動に転化した。沖の山炭坑の騒動は付近住民を加えた数千人規模の騒動に発展し、米問屋、屋敷の打ちこわしや遊郭への放火などが起こった。出動した軍隊に対してもダイナマイトで対抗するなど、死者13名を数える惨事となった。
[編集] 影響範囲
「米騒動」や「米騒擾」などと呼ばれた約50日間に渡る一連の騒動は最終的に、1道3府37県の計369ヶ所にのぼり、参加者の規模は数百万人を数え、出動した軍隊は3府23県にわたり10万人以上が投入された[5]。検挙された人員は25,000人を超え、8253名が検事処分を受けた。また7786名が起訴[6]され、第一審での無期懲役が12名、10年以上の有期刑が59名を数えた。米騒動には統一的な指導者は存在しなかったが、一部民衆を扇動したとして和歌山県で2名が死刑の判決を受けている。
[編集] 被差別部落との関わり
米騒動での検事処分者は8185人におよび、被差別部落からはそのうちの1割を超える処分者が出た。1割は人口比率に対して格別に多かった。これは被差別部落民が米商の投機買いによる最大の被害者層であったからである。処分は死刑をも含む重いものであった。1920年、事態を重く見た原敬内閣は部落改善費5万円を計上し、部落改善のための最初の国庫支出を行った。同年、内務省は省内に社会局を設置し、府県などの地方庁にも社会課を設けた。
[編集] 政府対応
政府は8月13日に1000万円の国費を米価対策資金として支出する事を発表し、各都道府県に向けて米の安売りを実施させたが、騒動の結果、米価が下落したとの印象があるとの理由から8月28日にはこの指令を撤回し、安売りを打ち切った。結果として発表時の4割程度の支出に留まり、米価格の下落には至らず、1918年末には米騒動当時の価格まで上昇したが、国民の実質収入増加によって騒動が再発することはなかった。
[編集] 騒動の起こった都市
『米騒動の研究』- 井上清、渡部徹編より、発生した都市を日付順に並べた。
8月11日
大阪市、神戸市
8月13日
東京市、福島市、豊橋市、岐阜市、大津市、富山市、高岡市、金沢市、福井市、和歌山市、堺市、尼崎市、姫路市、岡山市、尾道市、呉市、広島市、鳥取市、高松市、丸亀市、高知市
8月14日
浜松市、岡崎市、奈良市、福山市
8月15日
仙台市、若松市、横浜市、横須賀市、甲府市、津市、松山市、門司市
8月16日
下関市、小倉市
8月17日
新潟市、長岡市、長野市
8月20日
佐世保市、熊本市、松江市、大垣市
[編集] 言論弾圧
米騒動の報道に際し、各種新聞は民衆の行動を好意的に報じると共に、根本的な原因は民衆の要求を無視し続けた政府にあるとした。一方政府は事件が広がったのは新聞が誇大に報道したためであるとし、8月7日に『高岡新報』を発禁処分にしたのをはじめ、8月14日には米騒動に関する一切の報道を禁じる記事差止命令を報道各社へ通達した。
東京春秋会(新聞社複数社で結成された連合)はこのような政府の処分に対し取り消しを要求し、水野錬太郎内務大臣は「内務省発表の公報情報のみ掲載を認める」と柔化させた。しかし、政府発表情報があまりに事実と反していた事から春秋会はさらに抗議を続け、報道禁止令を撤廃させる事に成功している。
一連の寺内内閣の言論弾圧に対し新聞社は激しく抗議し、言論報道の自由に関する運動に発展していった。
[編集] 平民宰相の誕生
米騒動の影響を受け、世論は寺内内閣の退陣を求めた。寺内は8月31日に山縣有朋に辞意を告げ、9月21日に正式に辞表を提出した。山県は西園寺公望に組閣を命じたが西園寺はこれを固辞し、原敬を推薦した。そして9月27日に原に組閣が命じられ、日本で最初の政党内閣である原内閣が誕生した。爵位を持たない衆議院議員が初の内閣となったということで、民衆からは「平民宰相」と呼ばれ、歓迎された。
[編集] 脚注
^ 1914年に約200万石あった輸入額が、1915年に45万石、1916年には31万石に減じている。(米殻統計より)
^ 読売新聞神戸支局編『神戸開港百年』
^ 『大正時代』- (永沢道雄、2005年、光人社)など
^ 「魚津市の自然と文化財を守る市民の会」によりこの場所には米騒動発祥の地の記念碑が建立されている。
^ 『日本の歴史〈23〉大正デモクラシー』- 今井清一の調査より。書籍によって本値には若干のばらつきがある。例えば小学館の『日本大百科全書』では1道3府38県の計368ヶ所としている。
^ うち700余名が騒乱罪によるもので起訴されている。
[編集] 参考文献
『米騒動の研究』- 井上清、渡部徹(1962年,ASIN B000JAL1R2)
『日本の歴史〈23〉大正デモクラシー』- 今井清一(2006年,ISBN 9784122047174)
『大正デモクラシーと米騒動』- 仲村哲郎(2002年,ISBN 9784897576466)
『米がつくった明治国家』- 山内景樹(2004年,ISBN 9784900277571)
[編集] 関連項目
大正デモクラシー
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