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奇兵隊
http://www10.plala.or.jp/yageki/db/KIHEITAI.htm
文久三年に結成された民兵組織。長州藩が起こした馬関戦争において、戦闘のプロであるはずの武士団が諸外国のわずかな軍艦の前に大敗北してしまい、下関や前田村が諸外国軍の砲火に晒されてしまった。この結果として、農民町人たちは「武士はあてにならない。自分たちの故郷や村は自分たちで守らなければならない」と自覚する。一方、諸外国軍の強さを知ってしまった長州藩では、高杉晋作の献策を採用し、身分の低い者でも入隊可能である奇兵隊の結成に踏み切る。その当初は、兵力増強の為の臨時義勇軍として発足する。だが、その戦闘力の高さから、後に大村益二郎によって藩正規軍へと編入される事になる。
奇兵隊は、この後会津鶴ヶ城攻城戦にも参加した。
戊辰戦争終了後は、大村益二郎の奇兵隊をモデルケースとする徴兵制度が行われると、すでに士分格となっていた奇兵隊は不要な存在となる。士分を得た事で態度が武士化していた面があり、彼らは武士に取り立てられて身分制度の上位になれたと思っていたのだ。この為に、新たに徴兵した農民町人達との間に差が出来ていたのである。また、奇兵隊は元々諸外国軍に対する郷土防衛団体として発足しており、その根底には「攘夷思想」があった。しかし、明治新政府の方針は開国であり、四民平等であった。結局、奇兵隊は解散へと追い込まれて行くが、これが奇兵隊隊士達の反発を買い、不満が爆発する格好で、奇兵隊の反乱事件へと発展してしまう。明治新政府は、反乱した奇兵隊隊士達に対して、武力鎮圧に撃って出て、これを撃破してしまう。
奇兵隊は、時代の必要性から生まれ、新たな世の象徴となった。その反面、で明治維新の矛盾から滅び去った悲劇の部隊でもある。
明治は遠くなりにけり。