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歴史観と歴史理論の再構築をめざして
「現実社会主義」の崩壊から何を学ぶか
中野徹三
(注)、これは、『唯物論研究年誌』第6号(唯物論研究協会編、青木書店、2001年)に掲載された中野徹三論文の全文です。このHPに転載することについては、中野氏の了解を頂いています。原文中の傍点は、太字にしました。また、文中( )内、および(注)におけるドイツ語文字の一部は、英語アルファベットにしてあります。
〔目次〕
はじめに
1、総体としての人間の把握を求めて
(1)、出発点の問題意識から
(2)、「生活過程」概念との出会い
(3)、「過程」と「構造」の間をめぐつて
2、「現実社会主義」の崩壊とマルクス主義歴史観の新課題
(1)、マルクスの共産主義社会像をどう評価すべきか
(2)、歴史理論の再構成のために
(中野徹三論文の掲載ファイル) 健一MENUに戻る
はじめに
いまからちょうど一〇〇年前の一九〇一年二月一七日にイルクーツクで出された『東部評論』三六号に、シベリア流刑中の二一歳の青年トロツキーは、「悲観論、楽観論、二〇世紀、その他多くのことについて」という一文を寄せて、次のように記した。
「(世界史は宇宙的進化の一瞬にすぎぬ、汝夢想家よ、無限と永遠の前に降伏せよ、と説く「一九世紀自然科学の免状を授与された司祭」との仮空の論争のなかで)
……私は息ある限り希望を抱く! と未来の楽観論者は叫ぶ。もし私が天空の星でもあれば、無限の宇宙のなかに見捨てられたこのみすぼらしい塵のかたまりに対して、まったく冷淡に接することだろう。……しかし私は人間である! 落ち着きはらった科学の司祭である君たち、永遠の時間の簿記係である君たちには時間の配分のなかの無力な一瞬のように見える《世界史》が、私にとってはすべてなのだ! 生きている限り、私は未来のために闘う、たくましく美しい人間が自己の歴史の盲目の流れを支配するようになり、その流れを美と歓喜と幸福の無限の地平線へと導いてゆくようになる、その輝かしく明るい未来のために……
一九世紀は多くの点で未来の楽観論者の期待を満たしたが、さらに多くの点で裏切りもした。このため彼は、自分の大部分の希望を二〇世紀にもちこむしかなかった。そしてその二〇世紀がやってきた! それは自分の入口の前で何と出会ったか?
フランスでは――人種的憎悪の有毒な泡、オーストリアには――ブルジョア的ショーヴィニストたちの民族主義的ないがみ合い、南アフリカでは――強大な帝国によって殲滅されつつある少数民族の断末魔の苦しみ、《自由な》島では――主戦論者、株式仲買人どもの勝ち誇った強欲を記念して捧げられる頌歌、東洋では劇的な《紛糾》、イタリア、ブルガリア、ルーマニアでは――飢えた人民大衆の反乱運動、憎悪と殺戮、飢餓と流血……
ユートピアに死を! 信念に死を! 愛に死を! 希望に死を!銃砲の一斉射撃と大砲の長く断続的な轟音によって、二〇世紀は怒鳴りたてる。
降伏せよ、汝あわれな夢想家よ! 汝の待ちこがれし二〇世紀、汝の《未来》たるわれは来たりしぞ!
否、と不撓不屈の楽観論者は答える。そういうお前は現在であるにすぎないではないか!」(1)
この一文は、若いトロツキーが二〇世紀の初頭ですでにこの世紀が持つ空前の破壊的性格をレーニンなどよりもはるかに深く見抜いており、その暗い予感を超えてのオプチミストであったことを、よく示している。彼自身である未来の楽観論者は、彼によれば同時に現在の悲観論者であり、「未来の楽観論は、その根が現在の悲観論を栄養源としてはじめて、高く理想主義的な社会的積極性をめざす指令の役割を果す」(2)のである。
いま思えば、この不屈の革命家ほど、二〇世紀の光輝と暗黒の両極を一身に体験した人物はいないであろう。この文を書いて一六年後、彼は「史上最初の社会主義革命」をレーニンとともに演出し、軍事人民委員としてその勝利の礎を固め、革命後一二年目には国外に追放され、「裏切られた革命」の復権と再生のためスターリン主義との闘争を続けつつ、一九四〇年、スターリンの放った暗殺者ラモン・メルカデルにピッケルで頭蓋を破られてメキシコで客死する。
死に先立つ半年前に書いた遺書には、「人類の共産主義的未来にたいする私の信念は、私の青年時代におとらず熱烈であり、事実、今日それ以上に確固としている」と述べたあと、「……人生は美しい。未来の世代をして、人生からいっさいの悪と、抑圧と、暴力を一掃させ、人生を心ゆくまで楽しませよ」と結んだ(3)(イタリア映画『ライフ イズ ビューティフル』の標題が、このトロツキーの遺言から出ていることは、ご存知の通りである)。
トロツキーが追放期間中(三三〜三六年)に執筆し、八六年に公刊された彼の『哲学ノート』では、弁証法の問題が論究されているが、レーニンの『哲学ノート』では弁証法の根本法則は「対立物の統一の法則」とされるのに対し、トロツキーは「弁証法の根本法則は、量から質への移行であることが認められねばならない」とし、いわゆる「正−反−合」のトリアーデとして表現される「否定の否定の法則」は、この量から質への転化のメカニズムである、と主張する。
レーニンの場合、力点は同一の過程に内在する対立物間の矛盾と闘争に置かれるが、トロツキーの場合には「自己自身の対立物への移行」、すなわちある過程を主導する要因の量的増大が、その特定の発展度において古い過程の質を変革させてそれを否定する新しい質の過程に移行すること、この「過程の形成諸段階」を時間的に媒介する論理に主要関心が向けられる。
そしてこうした「弁証法のトロツキー的構造」(4)は、常に未来を展望し志向するこの理想主義的革命家に、いかにもふさわしい。哲学理論の根底にあるのも、常にその論者の歴史像と歴史意識である。
そしてこの革命家が反面どれほどすばらしい歴史家たりえたかは、本年、藤井一行氏によるそのロシア語原書からの全訳が完成した主著『ロシア革命史』(岩波文庫(1)〜(5))をぜひご講読のうえ、お確かめいただきたい。
だが、トロツキーの死の半世紀後、彼の遺志であったソ連社会の「反官僚補足」革命を上から進めたゴルバチョフのペレストロイカは、ソ連社会と戦後世界の構造を大幅に変革しつつ、ついにヨーロッパでの「ソ連型社会主義」体制の全面的解体に、たどりついた。
体制の革命は、体制に対する革命に転化した。だがこれは、皮相な史眼が見るようなペレストロイカの不徹底ないし失敗のため、ではなく、ペレストロイカの論理の徹底によって、だった。この体制はもともと、民主化の徹底とは両立不可能だったのだ。
ここで注意すべきは、偉大なる「オプチミスト」トロツキーは彼の死の前年=第二次大戦勃発の年に書いた論文「戦争におけるソ連邦」のなかで、自分がそれまでの全生涯を賭けて確信してきたマルクス主義の真理性と十月革命の世界史的意義とをともに崩壊させる可能性について、次のような戦慄を覚えるほど深い悲劇的な洞察を示している点である。
この戦争が先進資本主義諸国にプロレタリア革命を引き起こすに至るならば、それは不可避的にソ連邦におけるスターリニスト官僚の転覆を導くが、しかしもし戦争が革命でなくプロレタリアートの敗北をもたらすならば、先進諸国とロシアを含めて、新しい搾取階級となった世界官僚制が支配するところとなり、そしてこれは
「あらゆる証拠に照らして、文明の衰亡を告げる破滅の体制となろう。……その時われわれは、官僚的逆行の原因は国の後進性にあるのではなく、帝国主義による包囲にあるのでもなくて、プロレタリートが先天的に、支配階級になることができないことにあるのだということを、否応なく認めることになろう。
その時、現在のソ連邦は根本的性格において新たな国際的規模の搾取体制の先駆であったことを、振り返って証明する必要が出てくるであろう。
……もし世界プロレタリアートには発展の道程によって自らに課せられた使命を完遂する能力がないことが判明するならば、資本主義社会の内的矛盾に基礎をおいた社会主義綱領はユートピアに終わることを認める以外にはあるまい」(5)。
立論の理論的立場から生ずる問題は別として、ここに私たちが見るものは、このユダヤ系出身の天才革命家の晩年の脳裡に去来した、ソ連型「過渡期社会」のみならず、「科学的社会主義」の綱領そのものの敗北と挫折の可能性についての、ある黙示録的予感である(すぐに彼は、この可能性を打ち消そうとしたが)。
このトロツキーの発言は、東欧革命の正確に半世紀前(一九三九年)に行われたものである。すぐれた史的洞察が、通常の経験知の次元を超越した、独自のあるメタフィジカルな歴史意識に支えられていることを教える一事例である。
世紀さらにはミレンニウムの転換に前後して、いま多くの論者が過ぎ去った二〇世紀を総括しながら、未来への種々の展望を試みている。
『ニューズウィーク』誌の本年冒頭の未来予測特集で、F・ザカヴィアは、「実質的な関係からは、二一世紀はソヴェト共産主義の没落、二極体制の崩壊、そしてわれわれの時代の競争相手なきグローバルな資本主義の生起である一九九一年に始まった」(6)と述べる。
この特集で二一世紀を特徴づけるとされる主要な動向は、グローバリゼーション、宇宙旅行、遺伝子工学と超微粒子工学、ロボット工学の発達による人間の加工=「改善」とロボットの人間化、バイオテクノロジーによる世界の食糧供給の改革、等々である。ここにはいかにもアメリカらしく、新技術にもとづく二一世紀版『ニュー・アトランチス』(フランシス・ベーコン)的オプチミズムはあるが、地球温暖化等の暗いシナリオは、あまり語られない。
これに対して、イギリスの代表的なマルクス主義歴史家だった――今もそうであるかは私には不明である――ホブズボームが、彼の大著『近代の世界史』の最終巻で示した二〇世紀世界像とその未来予測は、まことに重く、ぺシミスティックである。
九四年に初版が出たこの巻の標題『極端(複数)の時代』は、著者の二〇世紀観を端的に物語っている(本書もソ連邦の解体をもって二〇世紀の幕を引いている)が、この世紀の鳥瞰図にあたる序章では、「過去の破壊、むしろひとの現在の経験を以前の世代の経験と結び合わせる社会的メカニズムの破壊こそが、二〇世紀後期のもっとも特徴的で、かつ不気味な現象のひとつである」(7)と述べ、この世紀が前例のないほどの深部まで人間と人間社会の歴史的連続性を破壊した時代であったことを、強調する。さらに最終章「新千年紀に向かって」のなかで著者は、「この世紀は、その性質が不明瞭で、それを終わらせるか、またはそれをコントロールし続ける明確なメカニズムもないグローバルな無秩序のうちに終った」とし、「その無能力の理由は、単に世界の危機のまぎれもない探さや複雑さばかりにではなく、古いと新しいとを問わず、人類の諸問題を統御し改善するためのすべてのプログラムの明らかな失敗、のうちにある」と述べたのち、終末論の響きを帯びた次の厳しい言葉で、本書を閉じている。
「自分たちがどこに行くのか、私たちは知らない。……しかし、ひとつだけははっきりしている。もし人類が自身にふさわしいと認めうる未来を持ちうるとすれば、それは、過去や現在を延長することによって、ではありえない。もし私たちが、そうした土台の上に三千年紀を築こうと努めるならば、失敗するだろう。その失敗の代償、すなわち改革された社会以外のただひとつの選択肢は、暗黒である」(8)。
グローバリゼーション(人類の一体化)を通じてのグローバルな無秩序と破壊の極大化――その前途には、「グローバルな資本主義」の勝利としての「歴史の終わり」などではなく、このグローブ総体の生態学的破壊=青年トロツキーのみならず私たちもそのために闘っている人類の未来そのものの終末の危機という、かつてないオルタナティヴも含まれる。
そして、マルクス主義にもとづく世界変革のこれまでのプログラムも失敗に終わったということは同時に、マルクスとマルクス主義者たちの世界の解釈=社会・歴史理論とその哲学的基礎自体のうちに、重大な諸欠陥が含まれていたこと意味するのであり、私たちはいま改めて、マルクスの理論の徹底かつ全面的な批判的再検討を行い、今後の改革に生きうるためのその一貫した再構成の仕事を果たさねばならない。
ところで、これまでのマルクス主義の社会・歴史理論の本源的基礎を批判的に再構成するという仕事は、その追求を課題とした人間にとってはまさに自己の人間的実存の全体を賭けた生涯的過程であり、もともと対象の巨大さと奥深さの故に、永遠に完成することのない未完のトルソの積み重ねでしかない。そして本稿は、この半世紀にわたって、私に生成してきた疑問と、それから出発しての私なりのアプローチを通じてしだいに明るみに出てきた問題の構造ならびにその解決への思想的プロセスの概要についての一報告である。紙面の制約上、詳細は文中に引いた拙著のご参照をお願いしたい。
1、総体としての人間の把握を求めて
(1)、出発点の問題意識から
一九四八年の春、私は北海道大学(旧制予科)に、そしてほとんど同時に日本共産党北大細胞に「入学」した。「哲学世代」の私たちは、ソ連の哲学教科書やエンゲルスの『反デューリング論』などと取り組んだが、とりわけ後者の整然と統一された科学的世界観は、鮮烈な感動を私に与えてくれた。壮大な宇宙の自然史のうちに地球上に生命体が生まれ、その進化の最高の成果として人間が誕生し、この人間は生産力の発展により自然と自分自身を変革して遂に「自由の国」に到達する――この道程は必然であり、この自由の国は、人類史の最高段階である共産主義社会である。当時の世界は、一方には日本帝国主義とナチス・ドイツの敗戦と惨害、戦後の混乱と生活危機があり、他方には勝利して威信と支配圏を拡げた「ソ同盟」、さらに眼前でめざましく展開しつつある中国革命があった。次のスローガンが、当時の私たちの心をとらえていた――「私たちは、すべての道が共産主義に通ずる時代に生きている」。
だが、そのうちに当時の史的唯物論の理論には、どうにも納得できない疑問と不満が浮かんできた。人間解放の理論といいながら、そこには生産力と生産関係、土台と上部構造、階級闘争と社会革命などの範疇が登場するばかりで、生きている現実の人間の姿は、どこにも見あたらなかった。
しかし、その後はじめて接した青年マルクスの『経済学・哲学草稿』では、ソ連や日本の史的唯物論の教科書とはまったく対照的に、世界の中に生き、活動する人間が、芸術的感動をすら与える表現で、みごとに彫塑されていた。当時、武谷三男氏を理論的支柱として結集していた田中吉六氏や三浦つとむ氏等(いわゆる『季刊理論』派)の論者たちは、この『草稿』の主体的実践論理を武器に、マルクス主義哲学の新しい地平を開こうと苦闘していたが、唯物論者の主流からは、「唯物論の実存主義的修正」という攻撃を受けた。また一時期盛んだった「主体性論」は、革命運動を担う人間の主体的ありかたと責任を問うものであり、私たちも熱心にそれをフォローしたが、反マルクス主義的「近代主義」というレッテルを貼られて論争は強圧的に打ち切られた(『唯物論と主体性論』などという著作も出された――なおこの二つの論争は、いま改めての再検討に価する)。
朝鮮戦争勃発後、日本共産党は半非合法化と分裂の事態に追いやられたが、スターリンの指示を受けた「五一年綱領」とそれにもとづいて採用された極左冒険主義戦術は、すさまじい被害を関係党員とその周辺に及ぼした。このなかで札幌でおこった白鳥警部殺害事件(五二年一月)と、それに続く官憲側の追及は、北大と札幌の党組織に、とりわけ悲惨な結果を招いた。五十数名が逮捕され、うち少なくとも三名(ひとりは高校生)が自殺または変死を遂げ、ひとりは精神異常を来して入院、私の北大の友人四名を含む一〇名が中国に亡命した(友人四名中三名は日中国交回復後帰国したが、一名はいまなお中国に残留している)。私が文学部史学科を卒業した五三年は、スターリンが死亡した年であり、大学院修士課程を修了した五六年は、フルシチョフのスターリン批判と、ハンガリー動乱の年だった。「秘密報告」を読んだ衝撃の大きさは、当時の体験者でなければわからないであろう。こうして私がスターリン主義の根底的克服を自身の生涯をかけての課題として意識した時、極左冒険主義に現われた実践面でのスターリン主義の非人間性と、人間不在のソヴェト型「マルクス・レーニン主義哲学」との間には、恐らくはある深い対応=共軛関係があるに違いない、と考えるにいたった。ここから、本源的なマルクスに遡及しつつ、マルクス主義哲学の原理論面に現われたスターリン主義の徹底した批判を遂行し、あらたな時代にふさわしい原理の再構築をすすめることが、自分の次の仕事になった。
(2) 「生活過程」概念との出会い
院生時代に私がはじめた伝統的なマルクス主義哲学批判の仕事は、当時ソ連の哲学者からもその立ちおくれと理論的弱さを嘆かれていた「マルクス主義美学」の批判的検討を通じて進められた。もっとも弱く、不毛なところにこそ、それを支える原理的地盤の欠陥が露呈しているに違いない。この作業には、それまでのいっさいの通説的「常識」から自由に、あくまでも自分の眼と頭で芸術とマルクスの著作を見、考えることが必要だった。そしてスターリン批判以後のソ連・東欧の哲学と美学の新しい動向は、自分を励ます力となった。この検討を通じて、私には次のことが明らかとなった。
ソヴェト美学、いな当時のマルクス・レーニン主義哲学一般は、すべての意識を対象の反映とすることにより、美意識、道徳意識等の成立に際して主体たる人間と彼の現実的諸条件が意識に及ぼす規定を原理的に捨象してしまう。私はこれを「価値的意識の対象的意識化」(9)(当時、マルクス主義哲学には「価値意識」という概念がなかったので、この語を用いるのには、いくぶんかの勇気を必要とした)と名づけたが、こうした傾向は、史的唯物論の本来の領域であるはずの社会的意識論ないしイデオロギー論を、哲学的認識論の「存在−意識」一般の「認識論的関係」に引きもどし、史的唯物論、特にその意識と文化の領域の研究を貧困化させる原理的基盤となる。
それで私は、同じ論文でソヴェト哲学の深部に作用しているこうした傾向をより一般化して「イデオロギー論の認識論化」と規定したが、史的唯物論について七〇年代に書いた論文では、これを「認識論主義的還元」と呼んだ。なお、「プラハの春」の頃ソヴェトの美学的反映論を批判してドイツに亡命したチェコの美学者カルブスイッキーも、彼の著書のなかでソヴェト美学の「認識論主義」について語っている。
ここから同時に、「社会的意識は社会的存在の反映である」としたレーニンの『唯物論と経験批判論』の命題(七〇年代でもわが国の唯物論界の通説だったことは、注10の論文を参照)が、意識主体の社会的諸条件がその主体の意識のありかたを規定することを述べたマルクスの『経済学批判』序言のテーゼ「人間の意識がかれらの存在を規定するのではなく、逆にかれらの社会的存在が、かれらの意識を規定するのである」を、認識論主義的に誤読した結果であることも判明した(マルクスのテーゼの「かれらの」の捨象)。
さらに、『経済学・哲学草稿』が示すように、自己意識でありうる人間の意識活動がはじめて外的対象を合目的的に変更する「実践」の概念を定立せしめるが、「存在−意識」のかの認識論主義的対置の図式に拘束されたソヴェト型史的唯物論の体系には、原理としての「実践」を組み入れる余地はない。ソヴェト美学は、したがってもっぱら芸術をひとつの認識形式とする。しかし、芸術的創造の過程は、芸術家が彼の創造的主観に導かれて行う精神的富の生産=「精神的生産」の一形態としての芸術的生産の過程であり、「認識形式」などではおよそない。他方マルクスは、初期の著作から後期の著作、例えば『剰余価値学説史』などを通じて、「芸術的生産」や「精神的生産」の概念を、物質的生産等と対比しつつ、縦横に用いている。そして当時、「実践的唯物論」の立場からマルクスにおける「精神的労働」や「精神的生産」の概念に先駆的に注目され、それらを活用して現代社会の人間労働の諸問題を解明しようと努められたのは、最近惜しくも物故された芝田進午氏(11)であった。
人間のさまざまな生活活動は、本来の実践的活動ばかりではなく、実践的活動とともに、もっぱら、または主として意識の活動としてある精神的活動の両面を含み、さらにその根底には、身体の一連の生理学的過程が、これらの活動を支える生命活動として働いている。個人としても集団としても、人間はこうした彼らに独特の多様な諸活動・諸過程全体の主体であり、そして主体としての人間「存在」は、彼らの活動の外に、どこかに存在しているわけでもない。人間は、世界のなかで、世界と多面的にかかわりながら不断に活動している存在であり、この多様な全活動とその歩みを離れて、その存在もない。こうした人間をもっとも包括的に把握し、表現できるマルクス主義的カテゴリーは何か、という問いが私を悩ませたが、やがて『ドイツ・イデオロギー』の次の命題が、私の注意を強く惹きつけた。
「意識とは、意識している存在以外のなにものでもありえず、そして人間の存在とは、かれらの現実的な生活過程(「Lebensprozess」のことである)。
『ドイツ・イデオロギー』は、マルクスとエンゲルスの未完の共同労作であるが、この「生活過程」の概念と思想がマルクス出自であることは、三年前に書いた「グラムシの哲学とマルクスの哲学」(12)での廣松渉版の検証で、ほぼ確証しえた、と思う。要約すれば、この文章を含めて「フォイエルバッハ」章で「生活過程」の語が登場するのは、エンゲルスが書いた初稿にマルクスが加えた書き込みにもとづいて、さらに恐らくはマルクス自身の作成した草稿に即してエンゲルスが書き直したと推定される異稿(13)の六カ所と、それ以外ではマルクス自身の筆跡による一文だけである(また内容上も、異稿には、『経哲草稿』と共通する思想(「ただ一つの科学」としての歴史の科学、等々)が表明されている)。
さて、この文章でマルクスは、「人間の存在」を「かれらの現実的生活過程」と等置した。したがって私たちは、ここにマルクスの人間学と「歴史の科学」の原点がある、と結論してよいであろう。「生活過程」のカテゴリーは、先に見た人間の生活諸活動のすべてを包括しうるだけでなく、労働過程の対象的諸契機(労働手段+労働対象)のように、その活動の内的・外的諸条件の総体との動的統一のもとで、人間の存在を規定し、把握するのであって、実践や行為などのカテゴリーよりも概念の外延がはるかに広い人間についての真の「全体性カテゴリー」といってよい(「人間=行為するもの」というゲーレンの定義(14)などと比較)。
また、先のマルクスの命題前半は、意識を「意識する(している)存在」と規定している。この「意識する存在」(das bewusste Sein)は当時(その後もずっと七四年の廣松版もしかり)「意識された存在」と訳されるのが通例だったが、これが意識一般を存在の反映とみなす「マルクス・レーニン主義」的通説の「反映」にすぎなかったことは、「イデオロギーの認識論化」傾向の批判的解明を通じて私に明らかになった。ここでは、意識は意識する存在=人間の意識、かれらが生産する意識であり、したがって意識はそれを生産する人間主体の現実的諸条件からする規定を帯びていること、まさに意識のこのイデオロギー的性格を、マルクスがこの著作『ドイツ・イデオロギー』で強調しているにもかかわらず。
なおマルクスは初期から晩年まで、「過程」という語を愛用し、主著『資本論』各部の標題にも登場させたが、フランス語版資本論は第一部第七章の注のなかで、「過程」という語を次のように説明している。
「その現実的諸条件の総体において考察されたひとつの発展を表わす《proces》という語は、ずっと前から、全ヨーロッパの科学的用語になっている。」(15)「現実的諸条件の総体において考察された」発展、というこの定義に留意したい。のちにグラムシは、その著作(『史的唯物論について』のフランス語版)でオデッサの獄中のトロツキーを決定的にマルクス主義者に変えたアントニオ・ラブリオラの「実践の哲学」を介して、トロツキーと同じく二〇世紀のもっとも創造的なマルクス主義者に成長してゆくが、かの『獄中ノート』は、人間を次のように定義した――『ドイツ・イデオロギー』を読むこともなしに。
「……私たちは、人間とはひとつの過程である、正確には、かれのおこなう諸行為の過程(il processo dei suoi atti)である、という」(16)。
(3) 「過程」と「構造」の間をめぐつて
しかし、人間=生活過程という原点の確認は、けっして土台(=生産諸関係の総体)と上部構造、生産様式等これまでの史的唯物論の主要概念が無用になったとか、有害であったとか主張するものでは、けっしてない。問題は、これらの諸概念が、人間と人間との活動の総体を包括するものではありえない、というその当然の限界の確認である。ほかならぬマルクス自身が、『経哲草稿』と『ドイツ・イデオロギー』での先の原点から出発して、その根本視点は以後の著作活動にも貫きつつ、『経済学批判』序言で周知の定式化を行ったのであり、真の弁証法家だった彼は、土台(=生産諸関係の総体)や上部構造のような「構造」や「実体」が、諸個人の生活過程の社会的総体のなかで形成され、形成されることによって各人の生活諸過程のある基本的特質、その社会的諸類型を形成する生活諸過程の主要な諸契機であるととらえたこと――つまり『過程』と『構造』の間のやはり動態的な関係をけっして視野から失うことがなかったことは、次のような言明にも雄弁に表現されている。
「かの諸条件やこの諸関係(生産諸関係――引用者)は、資本制的生産過程の、一方では前提であり、他方では成果であり創造物である。それらは資本制的生産諸過程によって生産され、かつ再生産される」(17)。
「過程(社会的生産過程――引用者)の諸条件と諸対象化とは、それ自体一様に過程の諸契機であって、この過程の諸主体としてはただ諸個人だけが、ただし相互に関連しあう諸個人だけが現われ、そして彼らはこうした諸関連を再生産し、また新に生産する」(18)。
過程のなかでの構造の形成、これをややラジカルに表現すれば「過程の構造化」としてとらえることも条件付きで許されよう。この視点の意義は、人間が入り込む社会の経済的構造とそのなかでの彼の位置は、彼の思考と行動のありかたを基本的に規定する――この規定のしかたも可変的であるが――こと、人間のこうした被規定性を深くリアルに認識することの重要性を私たちに教えるとともに、反面この構造や実体もやはり人間の生活諸過程の所産であり、そのなかで不断に再生産されつつ変容もしていること、したがって既成の「諸構造」を人間(の活動)から疎外して物神化させず、そのある範囲での改革可能性(歴史上でいえば多様な選択肢の存在)の視点を、私たちに与えるところにある。不断の変化のなかにある構造のこの被規定性と改革可能性は、とりわけ危機と変革の時代にあらわとなるが、いわばこの「構造の過程化」は、本来的に変革者の視点である。強力な武装集団をもつ国家という「実体」も、その諸条件の変化によってはいかにはかない存在たりうるかを私たちの眼前で如実に示したのは、一二年前の東独の消滅であり、一〇年前の超大国ソ連邦の解体であった。「ポスト構造主義」が語られ始めたのも、この前後からだった。この問題を歴史家としてもっとも早く意識したのは、イギリスのマルクス主義者でマルクス・レーニン主義から五〇年代に訣別したE・P・トムスンであり、彼は五六年に書いた「社会主義ヒューマニズム」のなかで、通説の土台・上部構造モデルを批判し、「……土台・上部構造のメタファーは、(マルクス・エンゲルスの)過程についての概念を拙劣な静態モデルに矮小化してしまった。……それは不適当であるばかりか危険きわまりないモデルである。なぜならスターリンが、社会のなかにあって変化してゆく人間ではなくして、意識的な人間の作用力とは無関係の、半ば自動的に作動する機械的モデルとして、このモデルを用いたからである」(19)と述べている。ハーヴェイ・ケイによればホブズボームの仕事とともに労働史の叙述を一変させた彼の『イギリス労働者階級の形成』は、階級を静態的なカテゴリーと定義する社会学者の方法に抗して、個々の職人や労働者の経験と行動に力点を置いたものである、といわれるが、ここで個人の経験とは「構造と過程との結節点」である、と彼が述べているのは、示唆的である。彼はまた七八年の『理論の貧困』で、アルチュセールがマルクス主義を「過程としての作用力を排除する静態的な構造主義」として理解している点を批判して、「アルチュセール主義は、マルクス理論のパラダイムに還元されたスターリン主義にほかならない」(20)という厳しい宣告を下している。
なお著名なイギリスの社会学者で、労働党ブレア政権の「第三の道」の代表的理論家であるアンソニー・ギデンスは、彼の著『社会理論の中心的諸問題』のなかで先の注(18)に引いたマルクスの『要綱』のなかの文章を紹介して、「自分が仕上げようと望んでいる観点をまったく正確に表現している」(21)と述べている。また彼は大著『社会学』(改定版)のなかで、社会の構造的特性を建物の構造になぞらえることの便利さと危険とを指摘し、「社会システムは人びとの行為と関係から形づくられている。つまり、人びとの行為と関係にその独自の様式を与えるものは、時間と空間の隔たりを超えた、人びとの行為や関係の《繰り返し》である」(22)と記しているが、この言と、丸山眞男氏が「政治権力の諸問題」のなかで、「伝統的マルクス主義において国家論と政治過程論がまだ理論的に総合されていない」とし「いわゆる制度や機構といわれるものも、人格相互関係(interpersonal relationship)の無数の連鎖と反応から成り立っており、それが一つの循環過程として型態化されたものにほかならない」(23)と述べているところを比較するならば、人はそこに驚くほどの一致を見出すに違いない。
スターリン時代に定式化された「マルクス・レーニン主義」的史的唯物論体系においては、「過程の構造化」は過程(とその主体)の抹殺と構造の実体化の域にまで進んだ。
過程の主体としての生きた人間が抹殺され、ケルレたちがいうように、もともとは社会生活の現実的・具体的多様性からの諸抽象にほかならなかった史的唯物論の諸カテゴリーが、そのかわりに歴史の実在的「主体」として現われる唯物史観、これは七〇年代の論文のひとつで私が指摘したように、「精神と自由なきラーゲリの管理者の《社会的存在》をもっともよく反映する体系である」(24)。スターリンの哲学体系では、「人間」はただ、「社会の物質的生活の不可欠の要素」としての「人口」として、または生産力の一要素としての「物質的財貨の生産を実現する人間」としてのみ登場する(25)。こんなものが、世界のマルクス主義者大多数の神聖不可侵な哲学テキストだったのだ。
ここではかの存在(物質)→意識の認識論的図式にしたがって、「社会の物質的生活=社会的存在」だけが客観的実在とされ、「社会の精神生活」は、幻のように実在性のないその「反映」に転化されるのだが、このスターリン的史的唯物論の基本構造が、先に見たレーニンの『唯物論と経験批判論』のマルクス誤読をいっそう卑俗化して全面化したものであることも、もう再説を要すまい。過程とその内部の「構造」を実体化するこの「実体化的思考様式」は必然的に、いくつかの「実体」とその相互関係に視野を狭窄化させてしまうため、「物質的生活」の領域においても消費過程を欠落させ、また当該集団の生産と分配・消費の過程に重要な特質を与える風土的・地理的要因を無視するか過少評価し、環境破壊問題などを対象化する能力を失う(26)。また社会関係においては「生産諸関係」(その内実としては階級諸関係)以外の社会諸集団を位置づける枠組みがもともとこの体系には存在しないため、「民族」や各種のエスニックな集団から家族集団のようなもっとも本源的な社会組織すらも、この史的唯物論から理論的認知を受けていなかった(コンスタンチーノフの『史的唯物論』(一九五四年版)には、「家族」の項目すら欠けていた)。こうした事態を生んだ理論的背景は、人間の「実践」がもっぱら物質的生産実践か、「前衛党」の政治実践として理解され、人間の多様な相互関係行為を対象化する視座そのものが欠除していたところにある。
2、「現実社会主義」の崩壊とマルクス主義歴史観の新課題
一九八九年の東欧連続革命に始まる「現実社会主義」体制の歴史的崩壊は、この体制の徹底した民主的変革の必要と必然を十分把握していたはずの私にとっても、大きな感動と感慨とともに、これまでの自分の社会主義観や社会・歴史観で、マルクスにどこか依存したままで十分に考え抜いてこなかった諸問題を、改めて根底的に問い直すよう迫るものであった。 この仕事は、ロシア革命の見直しを含め九五年に刊行した『社会主義像の転回』(三一書房)にまとめたので、ここでは史的唯物論の理論にかかわる諸問題について、今後さらに掘り下げて共同に検討すべきいくつかの要点を摘記しよう。
(1) マルクスの共産主義社会像をどう評価すべきか
マルクスがスケッチした「共産主義への移行図」によれば、「社会的生産過程の最後の敵対的形態」である近代ブルジョア的生産様式の内部で生産諸力と生産諸関係の矛盾が激化し、生産諸力の桎梏となった古い生産諸関係が変革されるとともに、全上部構造も遅かれ早かれ変革される。そしてプロレタリアートによるこの新しい社会革命をもって、「人類社会の前史は終わる」。
人類社会の正史である「共産主義社会」は、そこから生まれたブルジョア社会の母斑を帯びた低い段階と、生産力が増大し発展した高度の段階に分かれる(「ゴータ綱領批判」)が、その初期の段階でも生産手段の私的所有と、それにもとづく階級支配はなくなり、そして「階級支配が消滅すれば、今日の政治的意味での国家もなくなる」(「バクーニン・ノート」)。さらに私的所有の廃止は、商品の生産と交換を、したがって貨幣を廃止する。共産主義の高い段階への発展にともない、「各人からはその能力に応じて、各人にはその必要に応じて!」の原則が実現する。
このようにマルクスの将来社会像は、私的所有(階級)の廃絶が、商品=貨幣関係と政治的国家をあわせ廃絶するという、いわば人間の疎外の三位一体の同時的廃絶ののちに実現するとされる自由な生産者の協同社会であるが、この点について私は九五年の著書のなかで、つぎのように述べておいた。
「……この強度に階級還元主義的な哲学的共産主義の原理が、マルクスの本格的な経済学研究や歴史研究に先行して一八四三〜四四年に完成され(私的所有と商品=貨幣関係の同時的廃絶については一八四七年の『哲学の貧困』において)、以後一貫して成熟期マルクスの未来社会像と全研究を主導するものとなった事実に、私たちは改めて注目したい」(27)。
諸関係を階級関係に一元的に還元する傾向は、のちに階級を等質的実体にまで固定化させる役割を果たしたが、国家論の領域では一義的な階級国家論に結実し、過渡期国家は「プロレタリアートの独裁」国家として観念され、階級が消滅したコミュニズム社会では、土台に照応して「政治的国家」(28)は消滅する、とされる。この「プロレタリアートの独裁」が、事実上は官僚の独裁として進行しつつあることを指摘したのは、ウエーバーのロシア革命論であったが、革命的階級としてのプロレタリアートの同質性とその持続に確信を抱いていたマルクスには、「プロレタリア独裁」の、プロレタリアの名によるスターリン主義的官僚独裁への「変質」を予期する理論的視座は、用意されていなかった。
政治過程には、「政治的上部構造論」がとらえ切れない普遍的・歴史貫通的な論理があり、その主要契機としての国家は今後、下からは政治的・社会的民主主義のますますの進展によって(NPOなどを通じての市民の政治参加――司法への参加は、わが国でもいまやっと始まるところである――はじめ、一定の公共的機能の社会への移行)、上からは国家機能の一部の国際的機関への付託あるいは移行によって、その相対化は一面では不断に進行するが、反面、国家が担うべき普遍人間的・福祉的諸機能や、環境保全、グローバリゼーションにともなう国際的諸問題(民族的対立と抗争、難民の発生、テロルや犯罪の国際化と大規模化を含む)の解決等々に、その機能はますます総合的で、高次の性質をもつもの、となろう。「とりわけ精神なき文明化ともいうべき現在の諸動向は、新たな人間疎外と荒廃、物質的世界のそれと平行しての精神世界の砂漠化を広汎に推し進めつつある」(29)。
こうして、のちにレーニンがエンゲルスにもとづいて『国家と革命』で極度に単純化された形で提起もした「国家の死滅」のテーゼは、ひとつのユートピアであり、国家論はいまや政治過程論のうちに止揚されねばならない。
さらに、マルクスは一八四七年に書いた『哲学の貧困』で、私的所有が廃止されたならば、現在の生産諸力と社会の欲望の総和の考量にもとづいて支出すべき総労働時間を各労働者に配分する労働者間の協定が結ばれることになり、各人の労働時間にもとづいて生産物(消費手段)は分配されるから、生産物の私的交換は止み、こうして「階級対立がなければ私的交換はありえない」(30)と書いたが、これが、コミュニズム社会における商品生産と交換の、したがってまた貨幣の廃絶を彼が明示的に展開した最初であり、晩年の「ゴータ綱領批判」も、基本論理は同一である。しかし、この社会が自由な諸個人の連合社会であることを前提とするならば、生産力の増大とともに諸個人の欲望はますます多様化(個性化)して発展することも必然であり、したがってこの社会の分配過程は、全面的に展開された市場においての消費者の自由な選択を通じて、事後的に遂行される以外にはない(一定の公共的サービスは別として)。「共同社会」での市場なき分配は、結局は全社会の欲望を「計測」して生産計画を立て、執行し管理する少数の国家官僚による「欲望に対する独裁」(アグネス・ヘラー)とならざるをえない。人間の自由と自由なコミュニケーションを前提とする限り、商品の生産と交換=市場経済はどの社会にとっても原理的に不可欠であり、排除しえないもの、といえよう(その一定の社会的規制は、もちろん不可欠であるが)。フランスのマルクス主義人類学者モーリス・ゴドリエは未開社会においても「社会的交換」の多様な形態が重要な役割を演じていることを詳細に論じている(31)が、これらは私たちに、広義の「交換」は、人間の多様なコミュニケーション行為において普遍的にはたらく「人類学的カテゴリー」として理解すべきである、と教えてくれる。およそ自由な人間の相互関係において、一方が与えるだけで他方は与えられるだけ、という関係は原理的に存在せず、相互の均等性(アリストテレスの正義の概念においての「イソン」)が常に求められるのであって、この点から見るならば、「これまでの商品・貨幣的社会関係は、この広義の交換という普遍的性格とその特殊歴史的形態規定という、二重の規定を担っていると考えられる」(32)。
「市場なき社会」のユートピアは、「現実社会主義」のもとで「現実に存在する逆ユートピア」に転化したが、これも階級還元主義の一帰結である。さらに、生産手段の私有の原理的廃絶の要求も、市民の自由と民主主義の保障と発展を大前提とする社会を構築する限り、市民の経済活動の自由(社会に有用な財貨やサービスを生産し、販売するために自己の資産を活用する自由)は原則的に排除しえない、という理由からも、もはや次代の社会主義の綱領たりえない(他に、情報革命下の「生産手段」の構造変換等々)。民主主義が高度に実現された社会では、資本家・労働者(知的労働者が主)・政府・市民各層が普遍人間的課題に対する各自の役割と責任を認め合いつつ相互に協働する関係を発展させ、この関係のなかで各自の「所有」をその各自性のメリットを生かしつつ実質的に「社会化」させてゆく動向が進展すると予想される――もちろん長い、時には烈しい闘争も通じて――が、二一世紀の社会主義の目標は、普遍的諸課題に対するこの全社全的共働の構築と前進のうちにあろう(そのなかで国有企業、公有企業、各種の協同組合企業や自由な市民団体が重要な役割を果たすべきであることは、当然として)。
将来の自由な社会は、こうして私的所有の廃絶という要求を原則的に排除するから、それは当然ながら「共産主義社会」ではありえないし、共産主義の語を未来社会の「社会構成体」の名称として用いてきたこれまでの伝統は、マルクスの先の展望とともに、今はっきりと清算さるべきである(33)。そして社会主義の語は、この語にふさわしくない「現実社会主義」体制の用語として汚れてしまった過去から解放され、人間の社会的連帯と正義をめざす思想と運動のあたらしいイデーの表現にふさわしく、その内容は徹底的に革新されねばならないであろう。
(2) 歴史理論の再構成のために
マルクスの歴史観である史的唯物論または唯物史観が、一八五〇年代までの歴史研究(主にヨーロッパ史)の知見にもとづき、人間史の主要な原動力である物質的生産の生産諸力の発展と、その生産が営まれる社会的構造、そしてこれに対応する政治形態と意識の諸形態の三者の関係を主軸にして、世界史のグローバルな発展構造を通時的かつ共時的に描き出したことは、歴史観の歴史上、まさに画期的な事件であった、といってよい。
しかし、自然科学と技術の進歩に無限の信頼を寄せたこの一九世紀の革命家の歴史観は、物質的生産を基礎とする人間史の発展をひとつの「自然史的過程」ととらえ、この過程はその内的矛盾の解決を通じて、生産諸力、したがって人間諸能力の全面的な発展を可能とし、条件ともするコミュニズム社会へと人類を導くという、自然史的必然史観という性格を初期からもっていた。
「……いままでの発展の全成果の内部で生まれてきた完全な自己還帰としての共産主義。……それは歴史の解決された謎であり、自分をこの解決として自覚している」(『経済学・哲学草稿』)。
共産主義へと向かう歴史の目的論的進行と、それを支える自然史的必然性に対するマルクスのこの絶対のオプチミズムが、ヘーゲルの弁証法(「否定の否定」)に依拠してもいたことは、この文章からもわかる。苦難と疎外の深化をへた人間は遂に其の解決=解放に至るというヴィジョン(ウェーバーのいう「苦難の神義論」の一形態)は、マルクス主義者に一面では巨大な預言者的確信を与えたのであり、冒頭に引いたトロツキーの文章も、その壮大なエコーのひとつといえる。ポール・ラファルグによれば、マルクスは「私は歴史の裁きをくだすのだ。私は各人にその人にふさわしいものを与えるのだ」と語った(34)、といわれる。だが反面、この目的論的歴史の構成は、すべての歴史をこの図式で裁断し、適合しない部分を無視するか「修正」するという誤りをも生んだ。
問題のひとつは、スターリンが彼自身の介入でマルクスを「修正」し、「生産様式」を階級関係に単純化して再定式化された「生産関係の五つの基本的な型」(35)が世界史の普遍的な発展図式としていたるところに押しつけられたが、この傾向はポスト・スターリン時代に入ってかなり弱められたとはいえ、依然としてまともな批判的検討をへずにマルクス主義的常識として作用し続けている点にある。六〇年代以降のソ連史学会でも、奴隷制や封建制はすぐれてヨーロッパ的現象であって世界史に普遍的とは必ずしもいえない、という主張が現われ、その内部ではしだいに常識化したが、東欧革命の年に『マルクス主義、多元主義とそれを超えて』という注目すべき著書を出したグレゴール・マクレナンは、マルクス主義者には歴史を単線的過程(a unilinear process)としてとらえる傾向が強いことを指摘したうえ、それを超える多元主義的マルクス主義がいま出現しつつあることを、つぎのように述べている。
「もしすべてについて普遍的なマルクス主義的理論があるとすれば、それは単線的ではありえないと思われる。マルクス主義の歴史家たちは広い範囲にわたって、先資本制社会を画する概念の再構築を行っている。これらの概念は、単一の生産様式を大きな規模で一身に統合したものとして構想されているものではない。またそこでは、発展の《行きづまり》といったものを受け入れるのにも、特に明らかな困難はない。さらに、古典的・東洋的・ゲルマン的等各種の共同体は、《原始》共同体から不均等に、またオーバーラップして出現するものと受けとめられている。いいかたを変えれば、これらの構成体は、単線主義では常にそうである《垂直面》にではなく、《水平面》に表現されるのである」(36)。
彼らは以前のように生産様式の「内在的発展」とそれを規定するとされる内的要因にだけでなく、貿易や征服、文化的影響などの「外在的」要因に広く注目し、さまざまの社会が、単一の型ではなく、停滞可能性をも含む多元的発展を示すことを、明らかにしようとする。なおマクレナンが「原始共産制」概念に含まれる政治的ニュアンスに関して、次のように指摘している点にも注意したい。
「例えば《原始共産制》的生産様式は、歴史的進歩のもうひとつの際限すなわち進んだ共産主義と論理的に結びつけられているように思われる。多くの人類学者は多分、このように明白に目的論的な特徴づけは、こうした傾向のもとにある諸社会の複雑さや多様性の無視という結果を招くに違いない、と抗議するだろう」(37)。
東欧革命の年にわが国の不破哲三氏は、共産主義社会がこれまでの人類の歴史の圧倒的な期間を占めていたと強調するために、「…この数百万年の歴史の大部分は、富んでいるものと貧しいものの差別とか、搾取するものと搾取されるものの対立もない共同社会――いわゆる原始共産制の社会で生活していたのですね」(38)と語ったが、四百数十万年前のアウストラロピテクス・ラミダス以降のヒト形成期の全期間を「原始共産制」の「生産様式」に無造作に一括する思考様式がどこから生じているのかは、すでに明らかであろう。
なお階級国家論は国家の成立を階級の出現に直結させたが、イギリスのマルクス主義人類学者モーリス・ブロックは、現代の人類学の成果に即して、明瞭な支配階級のない「無階級的」国家が存在する実例を挙げており(39)、彼は特にエンゲルスの『家族・私有財産・国家の起源』に現われた乱婚・集団婚などのモルガンの仮説の受容や、原始社会=共有・無家族・無階級といった単純化された理解に対して詳細な批判を加えている。採取→狩猟→牧畜→農耕という労働様式の進化論も、一九世紀中期の未開社会研究の図式から出たものであるが、概してエンゲルスの著作には、マルクスよりも単線的発展史観の傾向が強い(経済学においてのマルクスの「論理的方法」対エンゲルスの「歴史的方法」。エンゲルスの哲学と『起源』等の問題点については、私の「エンゲルスの哲学とマルクスの哲学」など、『エンゲルスと現代』(御茶の水書房、九五年)の諸論文を参照されたい)。
ところで私は以前の節で、国家や商品交換の死滅ないし廃絶のテーゼを批判して、そのある種の「歴史普遍的」性格を強調したが、マルクス主義的歴史観の現代的再構成にとってとりわけ重要なのは、人間と人間生活において多様な時間的インターバルをもって作用する諸要因の位置づけの問題、アナール派のフェルナン・ブローデルのいう「時間の多層性」の問題であろう。これは、いいかえれば、人間の生活諸過程の多層性の問題ともいえる。大著『フィリップ二世の時代の地中海と地中海世界』の序言で彼は、時間の流れが異なった三層の歴史(本書の一〜三部はそのそれぞれを取りあつかう)について次のように説明している。
「(この著作の)第一部は、いわば動かない歴史、人間の、彼をとりかこむ環境との関連にある歴史、そこでは事物が辛抱強く回帰し、循環がくり返し新たに始まるところの、ただゆっくりした変化だけを知る歴史をあつかう。……この不動の歴史の上方は、ゆっくりしたリズムの歴史であるが、それは、……もろもろのグループと集合体の歴史、社会史といってよいであろう。……そこでは順次にさまざまな経済、国家、社会、文明が研究される。……最後の第三部は、そういってよければ伝統的な歴史、つまり人間たちという尺度でなく、個人という尺度の歴史である……」(40)。
ここから彼は、自然環境が人間の生に、人間の身体、生活構造=様式、習慣、心性に及ぼす恒常的な影響を歴史学が対象化することの必要を、したがって歴史とさまざまな人間諸科学との対話の必要を強調する。「すべての人間についての諸科学は、例外なしに、相互に順繰りに補肋科学として役立たねばならず、またどの科学も、他の社会科学を自分の目的のために動員する権利をもっている」(41)。
ブローデルの独語訳論文集を編集したドイツのトーマス・ベルトラムは、一九二九年にスタートしたアナール派のプログラムの主要な三点として、「第一に従来の、とりわけ政治的事件史のかわりに問題志向的な分析的歴史、第二に過去の人間の行為のすべての側面の叙述、第三に心理学、地理学、社会学、経済学、民族学、人類学、言語学などの科学との共働」を挙げている(42)が、こうして民主化とグローバル化が始まった二〇世紀には、ヨーロッパ中心史観の反省のみならず、人間史の特定領域にだけ特権的な地位を与える伝統的な史学と史観への批判、自己閉鎖的な史学の方法を去ってすべての人間諸科学との開かれた対話と協働を実施する必要が意識され始めたことに、改めて注意したい。地理的位置や自然環境=風土等の要因は、世界の諸民族の過去と現在を理解するために不可欠の要因であるが、生産諸関係(所有=階級諸関係に単純化された)=土台に諸関係を還元してしまった史的唯物論体系は、とりわけスターリン時代にはこれらの要因が及ぼす作用を極度に無視し、排除することによって、マルクスの「アジア的生産様式」という概念をも追放し、人間生活の理解をいちじるしく貧困化した。小アジアの地理的位置とその風土なしに、この地で栄えた文化も、いまのトルコの社会と文化もまったくありえないことは、私たちがこの地を訪問してはじめて深く実感できることである。日本列島の地理的位置の特性を離れて、今年のNHK大河ドラマ「北条時宗」が描く元寇時の日本の運命も、鎖国とその後の日本近代の歴史の特質も理解できないのは当然であるが、これらはただ、長期間にわたる諸民族史の比較研究なしには、けっして全面的には解明されないであろう。
なお、ブローデルのいう「時間の多層性」構造をけっして固定的でなく、一部は自然の、一部は人間の活動により変動している。長く「動かない歴史」と見えた風土的自然環境の諸要因が、人為的諸力により、いまや全地球的規模で、数十年単位で変化し、人類の生存そのものに重大な影響笈ぼそうとしているが、これは人類の生活過程の各契機の時間的変化の関係構造そのものの変動である。
最後に、これらの問題をいっそうつきつめて考えるならば、私たちは歴史観のさらに根底にあるところの人間観、歴史を貫いての人間の本性とその認識という、ほとんどメタフィジカルに近い問題に逢着する。この点をめぐって私たちは、すぐれた歴史像を創造した多くの歴史家たちや思想家たちの思想との対話、また私たち自身の歴史への沈潜を通じて、その解答に迫ってみるべきである。
ドイツの哲学史家カール・レーヴィットは、「マルクス主義と歴史」と題する五八年の論文で、マルクスは「歴史的に変化する人間本質の地平で思考」しており、「彼は来るもの、将来のものを正確に知っていると信じ、現存するもののラジカルな批判と革命的な行動によって、まったく新しい社会の新しい人間を社会的に創造しうる、と信じている」(43)と述べているが、ブローデルも賞賛する一九世紀ドイツのすぐれた文化史家ブルクハルトは、現代の危機の根源としてのフランス革命の「偏向」について、それは「人間の本性は善と悪との混淆であるのに、新しい時代が人間の本性の普遍的善を前提としたこと」(44)にある、と記した。そして人間を理性的存在者としたカントが、晩年の小論『人類の歴史の憶測的起源』のなかで、理性が働らきはじめることによって種々の悪徳が生じたと述べ、「自然の歴史は善から始まる、この歴史は神の業だからである。また自由の歴史は悪から始まる、この歴史は人間の業だからである」(45)と語っているのは、印象的である。
私たちはいま、人間とは、人間性とはなにかと日々考えさせられる日常に生きている。「人間本性」が、土台とともに変革される「上部構造」でありえないとすれば、それは人間と人間存在のどこに根づいており、どのように生きているのか。
二一世紀に生きるマルクス主義は、人間諸科学との開かれた対話を可能とする歴史理論のあらたな総体性概念とフレームワークを創出しつつ、同時に人間存在=生とその歴史の「意味」をも深く洞察し把握する根源的な哲学的人間学をもあわせ展開せねばならない、と思われる。そして、それのみが現在、マルクスの仕事の意義を次代に真に生かす唯一の道である。私たちにはいま、その用意はあるのだろうか。
〔注〕
(1) Л.Троцкий: Сочинения ТОМ ХХ,стр.78〜79 基本的に中島章利氏による訳文(未刊)に依拠させていただいた。次のドイッチャーの著書の対応する訳文(英文から)とは、若干の相異がある。T・ドイッチャー『武装せる預言者』新潮社、一九六四年、六八〜六九頁。
(2) Там же,стр.76
(3) ドイッチャー『追放された預言者』五二二〜五二四頁。
(4) この問題については、私の次の論文をご参照いただきたい。「トロツキーの哲学」(一・二)、『季刊トロツキー研究』(トロツキー研究所)、第六・第八号、一九九三年。
(5) 『トロツキー選集』9、現代思潮社、一五二〜一五三頁。
(6) Newsweek,Special Edition Issues 2001,Dec.2000−Feb.2001,p.14
(7) Eric Hobsbawm: Age of Extrems,History of the World 1914−1991,A Division of Random House,1995,p.3
(8) ibid.,pp.562−585
(9) 「マルクス主義美学の根本問題」、『思想』一九五九年第一二号。『マルクス主義の現代的探求』(以下『探求』と略)青木書店、一九七九年、一二〜一四頁。
(10) 「史的唯物論の再構成とその課題」、『現代と思想』第三号、一九七五年。『探究』、一六六頁。
(11) 芝田進午『現代の精神的労働』三一書房。
(12) 「グラムシの哲学とマルクスの哲学」(上・中)、『ネアンデルタール21』誌第4〜5号、ネアンデルタール21社、一九九八年。『ドイツ・イデオロギー』の生活過程概念の出自問題については、(上)、四六〜四九頁。
(13) 廣松版の原文テキスト篇5a−5d(二七〜三三頁)。日本語訳篇二七〜三三頁。
(14) アルノルト・ゲーレン『人間、その本性および世界における位置』法政大学出版、一九八五年、二〇頁。もちろんこの書には、活用し発展させるべき多くの内容がある。
(15) K. Marx : Le Capital, Libre I, Garnier-Flammarion, Paris, 1969, p. 606.
(16) Quaderni Del Carcere, Edizone critica dell Istituto Gramsci, Ginlio Einardi editore, 1977 (以下 Gramsci と略)2,p.1344. 『グラムシ選集』1、合同出版、二七二頁。ラブリオラの史的唯物論については、注(12)の私の論文の(中)を参照されたい。
(17) K. Marx: Das Kapital, Bd. Ill, S. 827.『資本論』青木文庫版(13)、一一五四頁。
(18) K.Marx : Grundrisse der Kritik der Politischen Oekonomie, Europa Verlag, Wien, S. 600.『経済学批判要綱』3,大月書店、六六一〜六六二頁。
(19) E.P.Thompson: 'Socialist Humanism', The New Reasoner Summer, 1957, p. l13.ハーヴェイ・ケイ『イギリスのマルクス主義歴史家たち』白桃書房、一九八八年、一九三頁。本稿の論点全体との関連で、本書は多くの興味深いデータを提供している。
(20) E.P.Thompson: The Poverty of Theory. Merlin Press, London, 1978.同右書、二四一頁。
(21) Anthony Giddens : Central Problems of Social Theory, Univ.of California Press, l978, p.53.
(22) アンソニー・ギデンス『社会学』而立書房、一九九二年、二三頁。
(23) 丸山真男『現代政治の思想と行動』未来社、増補版一九六四年、四三〇頁。
(24) 「上部構造論の再構成」、『講座・史的唯物論と現代』第二巻、青木書店、一九七七年。『探求』、二二四頁。
(25) スターリン『弁証法的唯物論と史的唯物論について』国民文庫、三〇〜三二頁。
(26) この問題については、最近出版された、石弘之・安田喜憲・湯浅赳男『環境と文明の世界史』洋泉社、二〇〇一年が、参考されるべきである。
(27) 『社会主義像の転回』(以下転回と略)三一書房、一九九五年、二一一頁。詳細には、マルクスと歴史観と社会観をあつかった同書第一部第一章。
(28) エンゲルスとちがって、マルクスが単純に「国家の死滅」といわず、「政治的国家」または「今日の政治的意味の国家」の消滅と述べている点は、「ゴータ綱領批判」のなかでの「共産主義社会の将来の国家制度」という言葉あるいは政治的国家にもある公共的機能の指摘(『フランスにおける内乱』)とともに、注意すべきである。この点については私の『生活過程論の射程』第二部の「Vマルクス国家論の再構成」と生活過程論を参照されたい。
(29) 『転回』、五三頁。
(30) 『マルクス・エンゲルス全集』4、一〇四〜一〇五頁。
(31) Maurice Godelier : Perspectives in Marxist Anthropology, Cambridge Univ. Press,London, 1977, pp. 127-128.
(32) 『転回』、二四八頁。
(33) 日本共産党は昨年の第二二回大会でこれまでの規約前文から「共産主義社会の実現」の文言を消し、「真に平等で自由な人間関係から成る共同社会の実現」(傍点引用者)に変更したが、不思議なことにその理由はどこにも説明されていない。しかも党名は不変、という。
(34) 『マルクス回想』国民文庫、二二頁。
(35) スターリン『弁証法的唯物論と史的唯物論』国民文庫、三八頁。
(36) Gregor Mclennan: Marxism, Pluralism and Beyond, Polity Press, Oxford, 1989, p. 81.
(37) Ibid.,p.80
(38) 不破哲三「現代の世界をどう見るか」下、『赤旗』一九八九年一〇月七日号。
(39) Maurice Bloch : Marxism and Anthropology, Oxford, 1983, pp.83-841
(40) Fernand Braudel : Schriften zur Geschichte 1, Klett-Cotta, 1969, S.21f.
(41) Ibid.,S.183
(42) Ibid.,S.10
(43) カール・レーヴィット『反時代的考察』法政大学出版、一九九二年、二四四頁。
(44) カール・レーヴィット『ブルクハルト』TSブリタニカ、一九七七年、三〇一頁。
(45) カント『啓蒙とは何か 他三篇』岩波文庫、六三頁。
(なかの てつぞう 社会思想史・人間学)
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『社会主義像の転回』 憲法制定議会解散論理
『現代史への一証言「流されて蜀の国へ」を紹介する』
(添付)川口孝夫著書「流されて蜀の国へ」・終章「私と白鳥事件」
『「二〇世紀社会主義」の総括のために』
『「共産主義黒書」を読む』
『理論的破産はもう蔽いえない』
日本共産党のジレンマとその責任
『遠くから来て、さらに遠くへ』 《追悼論文》
石堂清倫氏の九七歳の歩みを考える