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なぜ古代ローマ帝国は滅亡したのか
http://www.teamrenzan.com/archives/writer/nagai/roman_empire.html
永井俊哉
古代ローマ帝国は、いわゆる五賢帝時代に最盛期を迎えた後、徐々に衰え、大移動を開始したゲルマン民族に蹂躙され、滅んだ。なぜ古代ローマ帝国は持続不可能になったのか。諸説を検討しながら、考えよう。
1. 古代ローマ帝国はいつ滅びたのか
古代ローマ帝国がなぜ滅んだのかを考える前に、そもそも古代ローマ帝国の滅亡とは何かから考えなければいけない。ローマ帝国自体は、東ローマ帝国(ビザンツ帝国)として、オスマン帝国のメフメト2世がコンスタンティノポリスを陥落させた1453年まで続くわけだが、 定説では、古代ローマ帝国は、西ローマ帝国が滅亡した、すなわち幼帝ロムルス・アウグストゥルスが、ゲルマン人オドアケルの圧力で退位した476年をもって終焉を迎え、そこから中世が始まったということになっている。だから、その後の東ローマ帝国は「中世ローマ帝国」と呼ばれることがある。
もっとも、476年というのは、ローマ帝国の歴史にとって特別に画期的な年ではなかった。そもそも、ロムルス・アウグストゥルス帝は、正統な西ローマ皇帝であるネポス帝をクーデターで追放したゲルマン人オレステスが擁立した、傀儡皇帝(実の息子)で、東ローマ帝国皇帝をはじめ、周囲は正当な皇帝とは認めていなかった。だから、最後の正統な西ローマ帝国皇帝であるネプス帝が殺害された480年を西ローマ帝国が滅んだ年とみなす学者もいる。
しかし、それ以降も西ローマ帝国は存続したとする見解もある。800年に、フランク王国のカール大帝が、ローマ教皇より西ローマ帝国皇帝の称号を得たことで、西ローマ帝国が復活し、それは神聖ローマ帝国として引き継がれたという事実がその根拠である。1453年に東ローマ帝国が滅びた後も、オスマン帝国やロシア帝国がローマ皇帝の継承を主張した。もちろん、それは形式的な継承に過ぎないが、こうした事情もあって、ローマ帝国がいつ滅びたかに関しては、明快に答えることができない。
一つ確実に言えるのは、ローマ帝国はトラヤヌス帝(在位:98年-117年)の時に版図が最大となったが、その後、辺境の蛮族の攻撃を受け、変質し、段階的に衰退していったということである。ここでは、古代ローマ帝国の滅亡の年を特定することなく、5世紀ごろに事実上消滅したとみなしつつ、その段階的衰退の原因を探りたい。
2. 様々な説の検討
古代ローマ帝国滅亡の原因としては、様々なものが挙げられている、中には、結果と原因を混同しているものもあるのだが、ここでは、代表的なものを挙げて、論評しよう。
2.1. 蛮族侵入説
最もポピュラーな説は、古代ローマ帝国は、周辺の蛮族、特にゲルマン民族に滅ぼされたという説である。確かに、4世紀から5世紀にかけて「ゲルマン民族の大移動」と日本で呼ばれている現象が、主として西ローマ帝国の領土内で起きており、これが直接の原因であったことは、私も否定しない。問題は、なぜ、ゲルマン民族の大移動が惹き起こされ、なぜ西ローマ帝国は、東ローマ帝国とは異なり、それを撃退し続けることができなかったかである。
なお、この説を補強するものとして、3世紀にゲルマニアで蹄鉄が発明され、ゲルマン民族の騎馬勢力が強力となり、歩兵中心のローマ軍を圧倒したという説があるが、当時のゲルマン民族には歩兵も多かったし、またこれと戦っていたローマ軍の中にも、大量のゲルマン人の傭兵がいたから、あまり説得力はない。
2.2. 士気低下説
『ローマ帝国衰亡史』の著者として有名なエドワード・ギボンは、ローマ市民の道徳の低下が、根本的な原因だと見ていた。ローマ市民は、国防をゲルマン傭兵に頼るようになり、それが命取りになったというわけである。またキリスト教が普及するに連れて、人々の関心がこの世からあの世に行き、こうした精神的な変質も原因の一つとして挙げられている。
これもあまり説得力のない説明である。ローマ帝国が、領土を拡張するにつれて、被征服民を軍団に参入していくことは不可避的である。ゲルマン民族と一口に言っても、ローマ帝国の国境近くにいる文明化された近蛮族とその背後にいる遠蛮族がいて、近蛮族がローマ帝国内に侵入してくる原因の一つは、遠蛮族による圧迫があったわけだから、近蛮族を使って遠蛮族を攻撃するという戦略は決して悪くはなかった。また、キリスト教が原因で西ローマ帝国が滅んだとするならば、同じ原因で、キリスト教徒がもっと多かった東ローマ帝国も早々と滅んだはずだが、そうではなかったから、これも原因とは考えられない。
2.3. 貨幣改悪説
経済的側面から、ローマ帝国の滅亡を説明しようとする人もいる。例えば、3世紀以降、貨幣の銀含有率が大幅に低下し、これがインフレをもたらしたという事実がよく指摘される。しかし、もし国家財政が豊かなら、発行している通貨に金や銀が一分子も含まれなくても、インフレを惹き起こさないはずである。金や銀が不足したから、商品経済が衰退したわけではなかった。
問題は、蛮族侵入の頻発化で、歳出は増える一方なのに、農作物が不作で、歳入が落ち込んでいたことである。古代ローマ時代も末期になると、ローマの軍隊は、 かつての三十万から六十万に倍増し、借地料は、10%から50%以上に跳ね上がっていた。このため、耕作を放棄する農民が続出し、農地が荒れ果て、収入の不足を補うために、さらに借地料が上げられるという悪循環が続いた。
古代ローマ時代末期のインフレは、経済成長をもたらすインフレではなくて、スタグフレーションの様相を呈していた。
なぜなら、三世紀後半になって、金利の低下現象が起こっているのだ。「パクス・ロマーナ」が完璧に機能していた時代の金利は年率十二パーセントが普通であったのが、この時代四パーセントにまで下がっているのである。これも、投資意欲の減少傾向の反映ではなかったか。
[塩野 七生:ローマ人の物語 (12) -迷走する帝国, p.254]
スタグフレーションは、物不足が深刻になった、敗戦や石油危機のときの日本に起きたような、景気後退をもたらすインフレで、実質金利は低くなる。では、なぜスタグフレーションの原因となる物不足が起きたのか、この点が問われなければならない。
2.4. 疫病流行説
古代ローマ帝国では、2世紀から7世紀にかけて人口が減少した。これは、疫病の流行が原因だと言う人がいる。144-6年、171-4年にエジプトの人口が2/3になり、165-180年には、マケドニアから始まって、ローマ帝国のほぼ全土に「アントニヌスの疫病」が、251-266年には、一日に5千人が死ぬ、より悪質な「キプリアヌスの疫病」が流行した。こうした疫病が人口を減少させ、それが税収の不足をもたらしたという説が唱えられることがある。
しかし、古代ローマ帝国の衰退が決定的になる3-5世紀には、大きな疫病の流行はなかった。もしも農作物が十分実っていたのなら、疫病で一時的に人口が減っても、すぐに回復することができたはずである。問題は、なぜ、人口を回復させるだけの食料が生産できなくなったかである。
3. ローマ帝国衰退の気候的原因
ローマ帝国が、衰退した原因は、二つある。一つは、ゲルマン民族の侵入の頻繁化とそれに伴う軍事支出の増大であり、もう一つは、作物の不作による税収入の減少である。歳入が減り続け、歳出が増え続ければ、当然のことながら、国家財政は破綻する。この二つの現象は、一つの原因で説明できる。気候の寒冷化である。気温が下がると、凶作となる。また、北方の騎馬民族は、南の暖かい気候を求めて、南下してくる。
振り返ってみると、ローマ帝国は、温暖化により膨張し、寒冷化により収縮したと言えそうである。紀元前800-400年の精神革命寒冷期において花開いたギリシャ文明は、ローマ帝国に受け継がれ、その後の温暖化とともに、ローマ帝国の版図は拡大し、トラヤヌス帝の時に最大になった。しかし、トラヤヌス帝が死去したあたりから、気温は再び下がり始めた。
以下の図は、古代ギリシャの黎明期から中世初期にいたるまでのヨーロッパの気候の変遷を説明した図である。
[Brian M. Fagan:The Long Summer: How Climate Changed Civilization, p.192]
左上は、精神革命寒冷期の頃のヨーロッパの気候である。地中海性気候の北限を示すライン(Mediterranean)が、現代よりも南にあることがわかる。右上の図は、ローマが繁栄していた頃のヨーロッパの気候である。地中海性気候のラインが、現代よりも北にあることがわかる。ローマ人たちは、地中海性気候の北上に合わせるかのように、ケルト人を駆逐して、北方へと膨張して行った。そして左下の図は、ゲルマン民族が南下して、建国した頃のヨーロッパの気候である。地中海性気候のラインは再び南下している。あたかもこのラインの南下に合わせて、ゲルマン民族は南下したかのようである。
もしも、寒冷化が西ローマ帝国を滅ぼしたのだとするならば、なぜ東ローマ帝国は、同じ原因で滅びなかったのかと読者は訝しく思うかもしれない。東ローマ帝国は、西ローマ帝国とは異なって、高度な文明国であるペルシアと国境を接していた。このため、税源を農作物のみに頼る必要はなく、交易による富にも依存することができた。このため、凶作による税収入の落ち込みが、西ローマ帝国ほどひどくはなかったと考えられる。
4. ローマ帝国と漢の運命
ローマ帝国の衰退期に当たる西暦100−700年の寒冷期を日本では、「古墳寒冷期」と呼んでいる[阪口豊:日本の先史・歴史時代の気候,科学雑誌,1984年5月号,p.18-36]。日本国内で古墳が造成された時代と重なるから、こう呼ばれているのだが、世界的な寒冷化を呼ぶ名称としては、「民族大移動寒冷期」の方がふさわしいのではないだろうか。なぜなら、この時代、北方騎馬民族が南下するという現象がユーラシア大陸全土で見られたからである。
江上波夫氏の有名な騎馬民族征服王朝説も、この世界史的出来事を背景に、4世紀の日本における大和朝廷の成立を説明したものである。彼は、古墳時代後期の副葬品に、前期とは異なって、馬具類が見られることなどから、ユーラシア大陸の騎馬民族が、朝鮮半島を南下して、北九州に上陸し、さらに畿内に遠征して、大和政権を樹立したのではないかという仮説を立てた。私はこの仮説を支持しないが、いわゆる神武東征は、気候悪化を原因とする一種の民族大移動であったと解釈している。
他方で、中国では、地中海世界とパラレルな現象が起きた。精神革命寒冷期において、ギリシャのポリスが争いながらも高度の哲学や学問が栄えていた頃、中国では、春秋戦国時代で、諸子百家が様々な思想を唱えていた。アレキサンダー大王、続いて、ローマがギリシャ文明を継承して、広大な帝国を築いていた温暖期には、秦の始皇帝、続いて漢が高度な中国文明を継承して広大な帝国を築いた。
しかし、民族大移動寒冷期になると、ローマ帝国にゲルマン民族が移住を開始したように、中国の華北地方に北方遊牧民族が移住を開始した。そして、旧西ローマ帝国の領土が、ゲルマン民族の群雄割拠状態となっていた頃、華北は、五胡十六国時代と呼ばれる、北方遊牧民族による群雄割拠状態となっていた。700年以降の温暖期にフランク王国による統一王国ができた頃、中国には唐という統一王朝ができた。
最後に、もう一つ類似性を示そう。凶作と治安の悪化という絶望的な時代に、ヨーロッパでキリスト教が普及した頃、中国では仏教が普及しだした。キリスト教の原型である古代ユダヤ教と仏教の原型である原始仏教が精神革命寒冷期において誕生し、民族大移動寒冷期において、ヨーロッパと中国という新天地で信者を獲得したことは、偶然とはいえない。キリスト教と仏教は、ともに去勢宗教である。母なる自然が冷たくなった時、去勢が行われるのだ。
投稿者: 日時: 2006年12月13日 21:30 | パーマリンク
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