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(回答先: マルティン・ルター【ウィキペディア】 投稿者 ワヤクチャ 日時 2007 年 12 月 27 日 22:23:28)
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トマス・ミュンツァートマス・ミュンツァー(Thomas Müntzer, 1489年12月21日 - 1525年5月27日)
ドイツの宗教改革者。ハルツ山地のシュトールベルヒ村 Stolberg に生まれる。1506年にライプツィヒとフランクフルトで神学を研究し、1519年にルターと知り合い信奉者となる。ルターの推薦でツヴィッカウの説教者となり、そこで再洗礼派の労働者と接触し、その後行動をともにするようになる。ヨハネス・タウラーやエレミヤ書に関するフィオーレのヨアキムの注釈などの神秘主義思想家の著作を研究し、聖職者と金持ちを攻撃し天国の到来を説き、財産の共有を基礎にした社会秩序の改革を訴えたために、ツヴィカウを追放されプラハとノルドハウゼンをへてアルシュテットに落ち着き、共産主義生活の集落をつくり、説教活動の中心地とした。彼の説教は農業や林業で暮らす労働者に強い反響を呼び、ミュンツァーは次第に下層階級の要求を弾圧し、諸侯に妥協しているルターの姿勢を批判するようになる。ルターの側もミュンツァーを〈アルシュテットの悪魔〉と呼び、ザクセンの諸侯を煽動したが、諸侯はミュンツァーの影響力をはばかり、あえて暴力的方策がとれなかったという。
1524年、西南ドイツに波及した農民一揆に呼応して、ミュンツァーは支持者たちに民衆を圧迫する暴力を倒壊しつつある、世界の変化が近づいていると告げた。チューリンゲン地方のミュールハウゼン市に行き、その地の民主主義者ハインリッヒ・プファイツァーと結んで秘密結社をつくり、新政府の樹立をはかったが、ルターの書簡が市におくられて彼ら二人は説教を禁じられた。ルターにたいする公開討論を望んでニュルンベルクへ赴き、その後ドイツとスイスの国境でドイツ農民戦争の最初の兆しを目撃した。南ドイツに滞在して旧約聖書に基づいた農業改革について説教し、反乱はもはや猶予されるべきでないとの信念を固めた。チューリンゲンとマンスフェルドで革命を組織するためにミュールハウゼンに戻り、ザクセン・ブラウンシュヴァイク・ヘッセン諸侯の連合軍に敗れ、捕らわれて斬首された(エンゲルス『ドイツ農民戦争』では、戦死したと書かれている)。
ミュンツァーは宗教改革の最左翼、ルターの穏健派に対し過激派を代表した神学者である。聖書研究にとどまらず、聖書の言葉を階級闘争に翻訳し、農民大衆を理想社会建設へ導こうとした。彼は体躯矮小にして、顔は浅黒く、髪は黒く、眼は炎のごとく、弁舌は粗野で民衆的かつ熱烈、内的衝動にしたがって行動し、組織の人というよりは独立不羈・傍若無人の人柄といわれる。
"http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%88%E3%83%9E%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%83%9F%E3%83%A5%E3%83%B3%E3%83%84%E3%82%A1%E3%83%BC" より作成
カテゴリ: 神聖ローマ帝国 | ドイツ史の人物 | 社会主義 | 共産主義者 | キリスト教非主流派 | キリスト教神秘思想家 | 1489年生 | 1525年没
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最終更新 2007年12月6日 (木) 07:01。 All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License. (詳細は 著作権 を参照)
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