★阿修羅♪ > 歴史01 > 109.html
 ★阿修羅♪
【ウィキペディア・下山事件】
http://www.asyura2.com/08/reki01/msg/109.html
投稿者 小沢内閣待望論 日時 2007 年 12 月 26 日 22:03:28: 4sIKljvd9SgGs
 

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8B%E5%B1%B1%E4%BA%8B%E4%BB%B6

下山事件
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: ナビゲーション, 検索
下山事件(しもやまじけん)とは、1949年(昭和24年)7月5日朝、国鉄初代総裁・下山定則(しもやま さだのり)が出勤途中に失踪、翌日未明に死体となって発見された事件。

事件直後からマスコミ等で自殺説・他殺説の両方が流れる中、警察は捜査結果を公式に発表することなく捜査を打ち切った。真相が不明のまま多くの憶測を呼ぶこととなって、「戦後史最大の謎」と呼ばれている。また、同事件から1ヵ月あまりの間に立て続けに発生した三鷹事件、松川事件と合わせて、国鉄の戦後三大ミステリーとも呼ばれる。

目次 [非表示]
1 事件のあらまし
1.1 失踪後の足取り
1.2 法医学論争 -生体轢断か死後轢断か-
1.3 朝日新聞記者・矢田喜美雄の活躍
1.4 迷宮入り
2 事件の時代背景と推理
2.1 時代背景
2.2 他殺説
2.3 自殺説
3 その他
4 関連作品
4.1 書籍
4.2 映像メディア
5 関連項目
6 外部リンク


[編集] 事件のあらまし
第二次世界大戦敗戦後の連合軍による占領が続いていた1949年、6月1日に発足した国鉄の初代総裁に就任したばかりの下山定則は、7月5日朝、午前8時20分頃に大田区内の自宅を公用車で出た。出勤途中、運転手に東京駅前にあった国鉄本庁舎を通り過ぎて日本橋の三越に行くよう指示した。車は三越に到着したものの開店前だったため、いったん東京駅前に戻って千代田銀行に立ち寄るなど、複雑なルートをたどった後で再度三越に戻った。そして午前9時37分頃、公用車から降りた下山は、「五分くらいだから待ってくれ」と運転手に告げ、急ぎ足で三越に入りそのまま消息を絶った。

なお、公用車の運転手はそのまま午後5時まで三越前で下山を待っており、ラジオをつけたところ5時のニュースで下山失踪と報道されているのを聞いて驚いて本庁に連絡した、と証言している。
下山は普段は午前9時前には国鉄本庁に出勤しており、秘書が毎朝玄関で下山を出迎えていた。特に、当日は後述のような緊張した状況の中で9時から重要な局長会議が予定されていた。その中で時間になっても総裁が出勤せず、なおかつ自宅に確認したところ「普段通り公用車で出た」との回答があったために国鉄庁内は大騒ぎとなり、警察に連絡。失踪事件として捜査が開始された。

結局、下山は翌7月6日午前0時30分過ぎに常磐線・北千住駅-綾瀬駅間で轢断された死体として発見された。


[編集] 失踪後の足取り
失踪後、下山総裁らしき人物は、まず三越店内で、次に浅草行の地下鉄銀座線内で目撃された。三越店内での目撃証言の中には、数名の男たちと一緒だったというものもある。

午後1時40分過ぎには、轢断地点に近い東武伊勢崎線五反野駅改札で改札係と話を交わした。その後、午後2時から5時過ぎまで、同駅に程近い「末広旅館」に滞在。午後6時頃から8時すぎまでの間、五反野駅から南の轢断地点に至る伊勢崎線沿線で、服装背格好が総裁によく似た人物の目撃証言が多数得られた。特に、末広旅館での目撃証言を得た事により、警視庁捜査一課は、ストレス等による発作的自殺説に傾いていった。

五反野駅周辺から末広旅館にかけて目撃された人物について、下山の周囲の人間しか知り得ない、彼特有の癖を見せたとの証言がある一方、強度の近視でヘビー・スモーカーの下山にも関わらず、旅館滞在中メガネを外し続け、タバコを一本も吸わなかったとの証言もある。東武鉄道の優待乗車証を所持しているにも関わらず五反野駅の改札では駅員に切符を渡しているなど不自然な点が多数指摘され、下山本人とみるか替え玉と見るかについて意見が錯綜した。

[編集] 法医学論争 -生体轢断か死後轢断か-
下山総裁は、東武伊勢崎線ガード下の常磐線下り方面線路上で、付近を零時20分頃に通過した常磐線下り869貨物列車により轢断されたことが判明。遺体の司法解剖の指揮を執った東京大学法医学教室主任の古畑種基教授は、回収された下山総裁の遺体に認められた傷に「生活反応」が認められない事から、死後轢断と判定した(解剖の執刀は同教室の桑島直樹講師)。

また、遺体は損傷が激しく確実な死因の特定には至らなかったものの、遺体及び轢断現場では血液がほとんど確認されず、「失血死」の可能性が指摘された。加えて遺体の局部等の特定部位にのみ、内出血などの「生活反応」を有す傷が認められ、該当部分に生前かなりの力が加えられた事が予想され、局部蹴り上げなどの暴行が加えられた可能性も指摘された。

死後轢断の所見が正しければ、下山の遺体は第三者の手によって線路上に運ばれた事になり、他殺説の有力な根拠の1つとなった。

これに対し、現場検証で遺体を検分した東京都監察医務院の八十島信之助監察医は、それまでの轢死体の検視経験(彼はそれまでの3年間に100体を検死していたベテランであった)から、既に現場検証の段階で自殺と判断していた。また、遺体の局部などの特定部位にのみみられた内出血などの「生活反応」を有す傷については、轢死体では頻繁に生じる事象であり、血液反応が僅かなことも、遺体発見時の現場周辺で降った雨に流され確認できなかったもので、他殺の根拠にはなり得ないと主張した。

更に慶應義塾大学の中館久平教授が古畑鑑定に疑問を呈し生体轢断を主張(ただし中館教授は下山総裁の遺体を実見していない)。自殺説の根拠となる「生体轢断」と見るか、他殺説の根拠となる「死後轢断」とするかで見解は対立。1949年(昭和24年)8月30日には関係者が衆議院法務委員会に参考人招致されるに至り、国会、法医学界を巻き込んだ大論争となった。


[編集] 朝日新聞記者・矢田喜美雄の活躍
一方、朝日新聞記者矢田喜美雄と東大法医学教室による遺体および遺留品の分析では、下山総裁のワイシャツや下着、靴下に大量に油(通称「下山油」)が付着していたが、一方で上着や皮靴内部には付着の痕跡が認められず、油の成分も機関車整備には使用しない植物性のヌカ油であった(当時は物資不足で、機関車の油に植物油を混入することは通常行われていたという反論もある)ことや、衣類に4種類の塩基性染料が付着していたこと、足先が完存しているにも拘らず革靴が列車により轢断されているなど、遺留品や遺体の損傷・汚染状況等に極めて不自然な事実のあることが次々と浮かび上がっていた。特にヌカ油と染料は、下山総裁の監禁・殺害場所を特定する重要な手掛かりになる可能性もあるとして注目された。

加えて、進駐連合国軍憲兵司令部・犯罪捜査研究室(CIL)でアメリカ軍所属のフォスター軍曹より、轢断地点付近に僅かな血痕を認めたとの情報を入手。そこで微細血痕を暗闇で発光させ、目視確認を可能とするルミノール薬を用いた検証を実施。その結果、轢断地点から上り方面(上野方面)の複数の枕木上に、僅かな血痕を発見した。さらにその土手下にあった「ロープ小屋」と呼ばれた廃屋の扉・床にも血痕が確認され、下山総裁の遺体を運搬した経路を示しているのではないかと注目された。

その後、警視庁鑑識課を加えたルミノール検証が行なわれ、轢断地点から上り方面の荒川鉄橋までの、数百メートルの間に断続的に続く血痕を確認した。血痕は、最後に上り方向の線路へ移り途切れたが、さらにその土手下にあった「ロープ小屋」と呼ばれた廃屋の扉・床にも血痕が確認され、下山総裁の遺体を運搬した経路を示しているのではないかと注目された。

下山事件の捜査におけるルミノール薬の使用が、日本の科学捜査における初の事例となった。現在でも、時間が経過した犯罪現場などで、古いあるいは微量の血痕検出にルミノール反応は用いられている。

[編集] 迷宮入り
しかし、他殺とも自殺とも結論を出せないまま、1949年(昭和24年)12月31日には「下山事件特別捜査本部」は解散となる。捜査一課は自殺との結論を出し発表しようとしていたが、発表されることはなかった。そしてヌカ油の出所の追跡などを執拗に続け、他殺の線で捜査を続けていた警視庁捜査二課も、1950年(昭和25年)には、捜査員が突然転任されるなどして大幅に規模を縮小、事実上捜査はうやむやな形で打ち切られた。

また2月には「文藝春秋」と「改造」に、自殺と結論付ける内容の捜査報告書(いわゆる「下山白書」)が突如全文掲載されて国会でも問題となった。マスメディアにおいては、警察の捜査をスクープした毎日新聞が自殺説を主張し、読売新聞・朝日新聞が古畑鑑定を支持して他殺説を主張して対立した。


[編集] 事件の時代背景と推理

[編集] 時代背景
下山事件が発生した1949年(昭和24年)当時、中国大陸では国共内戦における中国共産党軍の勝利が決定的となり、朝鮮半島でも38度線を境に共産政権と親米政権が一触即発の緊張下で対峙していた。このような国際情勢の中、アメリカ軍を中心とした連合国占領軍は、対日政策をそれまでの民主化から反共の防波堤として位置づける方向へ転換した。まずは高インフレにあえぐ経済の立て直しを急ぎ、いわゆるドッジ・ラインに基づく緊縮財政策を実施する。同年6月1日には行政機関職員定員法を施行し、全公務員で約28万人、同日発足した日本国有鉄道(国鉄)に対しては約10万人近い空前絶後の人員整理を迫った。

一方、同年1月23日に実施された戦後3回目の第24回衆院総選挙では、吉田茂の民主自由党が単独過半数264議席を獲得するも、日本共産党も4議席から35議席へと躍進した。共産党系の産別会議(全日本産業別労働組合会議)や国鉄労働組合もその余勢を駆って人員整理に対し頑強な抵抗を示唆、吉田内閣の打倒と人民政府樹立を公然と叫ぶような騒然とした世相であった。

このような世相の中で、下山総裁は人員整理の当事者として労組との交渉の矢面に立ち続けた。事件前日の7月4日には、3万人の従業員に対して第一次整理通告(=解雇通告)が行われている。当時の増田甲子七官房長官が解剖の結果も出ないうちから他殺を示唆するコメントを発表するなど、当時下山事件の一報を聞いた人の多くが共産党系労働組合がらみと直感するのも無理からぬ状況となっていた。

共産党およびその影響下にあった労働運動は、下山、三鷹、松川事件に関与したと報道されたことによって世論の強い批判を受け、活動の自粛を余儀なくされることとなった。結果的に、国鉄を含めた各業界における人員整理は、当初予想された混乱もなく占領軍及び日本政府の思惑通りにスムーズに進行した。


[編集] 他殺説
このような事情から、下山事件には日本を占領する連合国軍の主流であったアメリカ軍、あるいはその強い影響下にあった日本政府が関わっていたのではないかと囁かれる事となる。作家松本清張は『日本の黒い霧』の中で、アメリカ軍のCIC(Counter Intelligence Corps―防諜部隊)が下山暗殺に関わり、下山の遺体は進駐軍専用列車で運搬されたのではないかという説を提唱した。松本の説自体は当時の鉄道運行表の検討からほぼ否定されたが、松本が中心となって発足した「下山事件研究会」では引き続き進駐軍与説を中心に事件の研究が進められた。

「下山事件研究会」の中心人物の一人でもあった上記の朝日新聞記者・矢田喜美雄は、執拗に事件の追跡を続けた成果を1973年(昭和48年)に著作『謀殺下山事件』にまとめた。同書の中で、矢田は取材の過程でアメリカ軍内の防諜機関に命じられて死体を運んだとする男に行き着いたとして、その人物とのやりとりを記述している。

1999年、『週刊朝日』誌上で「下山事件-50年後の真相」の記事が連載された。この内容を元に諸永裕司著『葬られた夏』、森達也著『下山事件(シモヤマ・ケース)』、柴田哲孝著『下山事件-最後の証言-』が2000年代前半に相次いで出版された。これらの書籍では、事件は元陸軍軍属・矢板玄が設立した組織・矢板機関と亜細亜産業の関係者が関わった他殺事件と結論付けている。


[編集] 自殺説
上記の通り、朝日新聞の矢田が他殺説を展開したのに対して、毎日新聞は自殺説を支持し、同紙記者平正一は取材記録をまとめた『生体れき断』を1964年出版した。

自殺説においては、動機として、国鉄の技術畑からのたたき上げだった下山が、心情的には従業員や労組に同情的であったにもかかわらず人員整理を断行せねばならない立場に置かれて、精神的に追い詰められていた可能性を指摘している。その傍証として、国鉄庁舎内で躁鬱によると思われる異様な行動を見せる下山総裁の姿を複数の国鉄幹部ならびに給仕が目撃している事実や、下山総裁が通っていた医師に度々睡眠薬を要求していたことなどが挙げられている。

1976年には、佐藤一が自殺説の集大成と言える『下山事件全研究』を出版した。佐藤は松川事件の被告として逮捕・起訴され、14年間の法廷闘争の末に無罪判決を勝ち取った人物であり、下山事件もGHQあるいは日本政府による陰謀=他殺と当初は考え、松本清張らが「下山事件研究会」を結成した際には事務局を引き受けた。しかし独自の調査を進める過程で次第に他殺説に疑問を持ち、毎日新聞社が主張した初老期鬱憂(うつゆう)症による発作的自殺説に転向した。『下山事件全研究』は、矢田喜美雄、松本清張の著作で他殺説の物理的・状況的証拠としてあげられた事柄(死後轢断、「下山油」、靴に付着した色素、線路上の血痕とその血液型、占領軍列車のダイヤ等)に詳細な検証と反論を加えている。

2000年代前半に出版された他殺説をとる3冊の書籍では、主として動機や「実行犯」の分析にページが割かれ、物理的証拠については従来の成果を継承しているため、佐藤が指摘した疑問・反論に対し充分な回答は出ていない。なお、先述の平は自作の中で、当時他殺説を唱えて発表された松本ら(矢田は後年のため含まない)の著作を読んだところ、彼らのほとんどが現場の下山の遺体の状況について間違った情報を載せていることを指摘している。


[編集] その他
「下山国鉄総裁追憶碑」
事件後、下山総裁の轢断地点に近い東武線ガード下、常磐線下り方向の土手の脇に建立された。その後、常磐線改良工事や千代田線敷設に伴う工事により場所を移動。現在は轢断地点より約150メートル東、西綾瀬1丁目付近の常磐線ガード下の道路西側脇にある。筆跡は第二代国鉄総裁となった加賀山之雄のもの。現在碑の置かれている場所は、五反野方面から南流する水路とそれに並行する小道が、東京拘置所(旧小菅刑務所)方向へ向かう途中で常磐線を横切る地点で、かつての弥五郎新田踏切(通称五反野踏切)に当たる。下山総裁の轢死体片は、東武線ガード下とこの踏切までの間に散乱していた。現在、水路は「五反野親水緑道」として整備されている。

[編集] 関連作品

[編集] 書籍
『日本の黒い霧』松本清張著、文春文庫
『謀殺 下山事件』矢田喜美雄著、講談社、1973年。
『謀殺 下山事件』矢田喜美雄著、新風舎文庫、2004年。
『下山事件全研究』佐藤一著、時事通信社、1976年。
『刑事一代-平塚八兵衛の昭和事件史』(新潮文庫)警視庁捜査一課に所属していた平塚八兵衛が取り扱った事件についてのインタビューを書籍化。
『下山事件(シモヤマ・ケース)』森達也著、新潮文庫、2006年。
『下山事件 最後の証言(完全版)』柴田哲孝著、祥伝社文庫、2007年、ISBN 4396333668。

[編集] 映像メディア
以下は、矢田喜美雄原作のルポルタージュ『謀殺 下山事件』講談社刊をモチーフにした映像作品。
『日本の熱い日々 謀殺・下山事件』(1981年 松竹)、監督:熊井啓、主演:仲代達矢。
『空白の900分-国鉄総裁怪死事件-(前・後編)』土曜ドラマ戦後史実録シリーズ(1980年 NHK)、脚本:岩間芳樹、主演:小林桂樹。

[編集] 関連項目
綾瀬
下山国鉄総裁の轢断の事件現場地域。
奇子
下山事件をモチーフにした手塚治虫の漫画作品。
プロ野球再編問題 (1949年)
「3 読売と毎日」の項を参照。
東京ヤクルトスワローズ
「11.1 下山事件とプロ野球参入 」の項を参照。

[編集] 外部リンク
下山事件資料館
失踪直前の下山総裁の足取りの詳細な図上再現や、写真による関連場所の当時と現在の比較などをしている。
下山事件を歩く
関連場所の現在の様子を写真で提示しつつ、様々な推理を交えていく。
無限回廊 - 下山事件
この「下山事件」は鉄道に関連した書きかけの項目です。この記事を加筆・訂正などして下さる協力者を求めています(ポータル 鉄道/ウィキプロジェクト 鉄道)。

この「下山事件」は、日本の歴史に関連した書きかけ項目です。この記事を加筆・訂正などして下さる協力者を求めています。(P:歴史/P:歴史学/PJ日本史)

"http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8B%E5%B1%B1%E4%BA%8B%E4%BB%B6" より作成
カテゴリ: 鉄道関連のスタブ項目 | 日本の歴史関連のスタブ項目 | 鉄道の歴史 | 戦後の事件 | 未解決事件 | 陰謀論 | 日本国有鉄道

  拍手はせず、拍手一覧を見る

 次へ  前へ

▲このページのTOPへ      HOME > 歴史01掲示板

フォローアップ:

このページに返信するときは、このボタンを押してください。投稿フォームが開きます。

 

  拍手はせず、拍手一覧を見る


★登録無しでコメント可能。今すぐ反映 通常 |動画・ツイッター等 |htmltag可(熟練者向)
タグCheck |タグに'だけを使っている場合のcheck |checkしない)(各説明

←ペンネーム新規登録ならチェック)
↓ペンネーム(2023/11/26から必須)

↓パスワード(ペンネームに必須)

(ペンネームとパスワードは初回使用で記録、次回以降にチェック。パスワードはメモすべし。)
↓画像認証
( 上画像文字を入力)
ルール確認&失敗対策
画像の URL (任意):
投稿コメント全ログ  コメント即時配信  スレ建て依頼  削除コメント確認方法
★阿修羅♪ http://www.asyura2.com/  since 1995
 題名には必ず「阿修羅さんへ」と記述してください。
掲示板,MLを含むこのサイトすべての
一切の引用、転載、リンクを許可いたします。確認メールは不要です。
引用元リンクを表示してください。