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(回答先: [AML 21878] 村岡到:追悼 上田耕一郎 対話したかった社会主義者 投稿者 gataro 日時 2008 年 10 月 31 日 14:15:02)
http://saeaki.blog.ocn.ne.jp/arita/2008/10/post_b4f9.html
2008/10/31
巨星逝くーー上田耕一郎の想い出
10月30日(木) 人生には忘れることのできない1日というものがある。誰にも限りある一生。思いある人の逝去は重い。定例役員会を終え、信濃町で知人と打ち合わせをして駅のホームに立っているときのこと。上田耕一郎さんが亡くなったという知らせが届いた。衝撃だった。昨年からの病状は聞いていた。「そんなに早くということはないよ」とご自宅で会った知人からそう知らされていた。とはいえ気になったのでお手紙を書いたのは、まさに勝手な不肖の弟子だったという自覚があったから。想い出を書けば切りがない。
ヘッドオフィスに戻り、「わが師・上田耕一郎さんご逝去の報に接し、衝撃を受けています」にはじまる弔電を書き、携帯電話でご自宅に送る。そもそも17歳の高校生時代から上田さんの人格、理論に魅かれてきた。上京して個人的な交流が深まった。関係が切断される道は小田実さんとの対談を担当したあとからのこと。査問されたとき「君はくよくよするタイプか」と聞かれたので「そうです。どうすればいいんですか」と聞くと「そういうときはほかのことを考えるんだよ」とアドバイスされたこともある。
昨年の参議院選挙が終わったとき、わが共産党経験を新書で書こうと思ったことがある。私が20代から30代にときどき書いていた日記には上田さんとの会話内容が詳しく記録されている。私的精神史を掘り起こそうと考えたのだった。体調が悪化している上田さんの存命中に読んで欲しいと思った。しかし新党日本の副代表としての肩書きがあるいまはやめるべきと判断したのは昨秋のこと。いつかきっと書く。
神保町で上田さんの最後の著作『人生の同行者』(新日本出版社)を入手。対談相手は小柴昌俊さん、鶴見俊輔さん、小田実さん。「萱」で焼酎を飲み、バーで赤ワイン、さらに「北京亭」でビールを飲み、上田さんを独りで偲ぶ。「アリタさん、このバーボンが美味しいんだな」と「ワイルドターキー」を教えてくれたのは、私が職場を追われたあとで誘われた国立のご自宅でのこと。二階の書斎の机上には「朝日ジャーナル」の巻頭に書いた私の記事が置いてあった。
あるとき共産党幹部から「このままでは上田さんがミヤケン(宮本顕治氏のこと)に切られてしまう」と私の編集者時代の仕事をたしなめられたこともあった。小田実さんとの対談が問題とされたあとのこと。赤城宗徳元防衛庁長官との対談を企画したときの想い出である。ネットから削除していた「上田耕一郎という〈私の大学〉」(http://www.web-arita.com/kyousan9)をここに再録する。実は党を除籍されてからの後日談がある。いまは書かない。