米国で人気のテレビドラマ『30 Rock』は深夜バラエティー番組の舞台裏を描いたコメディーだが,ある放送回にこんな話があった。番組司会者のトレーシー・ジョーダンがポルノビデオゲームを作ろうと提案するが,脚本家のフランク・ロッシターノがそのゲームは「不気味の谷」のせいで間違いなく大コケするだろうと忠告する。そしてグラフまで描いて,失敗は絶対に避けられないと説く……。 東工大の森教授が提唱
「不気味の谷」はロボット工学者の間で35年以上も議論されてきた問題で,最近はコンピューターグラフィックス関係者の間でも,せっかく作り出したCGキャラクターが人々に気味悪がられておしまいなのだろうか,と問題になっている。日本のロボット工学者である森政弘(もり・まさひろ,東京工業大学名誉教授)が1970年に提唱したこの考え方は,マンガっぽく象徴的に描かれた人間の姿には親しみを覚えるが,本物の人間に似た(だが完全に同じではない)ロボットやアニメには不安を感じるというものだ。 人間に似たロボットやアニメでも,腕や目の動きがぎこちないと(あるいはジョーダンのポルノゲームなら,キスのしぐさがたどたどしいと),不気味な感じがする。人工のキャラクターに対して感じる親しみやすさをグラフに表すと,シャープなくぼみが現れる(左の図)。これが「不気味の谷」だ。この谷を上って完全に脱するには,ロボットを人間とまったく見分けがつかないようにするしかない,と森は考えた。 そこで森は,むしろ人間そっくりではないロボットにすることで,この谷を回避すべきだと提言した。ロボット工学者の間で事実上の原則とされてきた考え方だ。ところが,最近のロボット設計者はこの警告を無視し始めた。いまや,ちょっと見た限りでは人間と見まがうリアルな皮膚を持ったロボットを作ることができる(「『アンドロイド科学』を拓く」日経サイエンス2006年8月号TREND参照)。実際,本物の皮膚のようなシリコーン樹脂を利用した6500ドルもするセックス人形が作られている。 始まった再検討
ロボットが人間に近づくにつれ,「不気味の谷」が本当に存在するのか再検討が始まった。森のグラフは実験データに基づいたものではなかったし,人間型ロボットに対する反応をまとめた最近の研究では,森説と矛盾する結果が出ている。 ハンソンロボティクス社(テキサス州)のハンソン(David Hanson)は,人間に似せたロボットやアニメに対する人々の反応がリアルさには左右されていないことを突き止めた。むしろ,ロボットの外観が本来的に不気味かどうかによる。フランケンシュタインのモンスターは単に醜いから怖いのであって,人間そっくりだからではない。森がいうようにロボットに取り入れる人間の姿を意図的に調整しても,効果はない。「ディズニーの悪役キャラクターなども象徴的に描かれていて実物の人間とは遠いが,それでも不安感を引き起こす」とハンソンはいう。 人間による奇怪さの認識について「不気味の谷」は正確なところを言い当てていないかもしれないが,森の直観の根拠を示す研究もいくつかある。「不気味の谷」を探す実験を行うなかで,ロボットやアニメがリアルになるほど,目や頭などの大きさを変えられる許容範囲が狭まることがわかった。 「外観が人間に近づくほど,許容される形の範囲が狭くなる」と,インディアナ大学教授のマクドーマン(Karl MacDorman)はいう。こうした反応が生じるのは,不健康や生殖不能を示すような形質を人間が本来的に忌避するようにできているためだろうとみる。 美意識の科学
人間が自らの姿を変えられるようになるにつれ,この“美意識の科学”はさらにややこしくなりつつある。「相手の行動や身体に問題があるのではなく,行動や身体が強化されているせいで何か変だなと感じた場合,私たちはどう反応するのだろうか」と,未来研究所の顧問キャシオ(Jamais Cascio)は問いかける。人工装具や遺伝子工学が人間の外観を変えるかもしれない。現在すでに,美容整形手術の末に「不気味の谷」を思わせる結果となる場合がある。 とあるブログでは,マドンナの写真(フェイスリフトとボトックス注射の後の写真に修正を加えたもの)を森のグラフの「不気味の谷」の底に近い位置に貼り付けた。ロボットも人間も,ひょっとしたらミッキーマウスだって,森が示した深い穴に落ち込んでいくように思われる。
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