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http://blogs.dion.ne.jp/spiraldragon/archives/7216011.html より全文転載。
「らくちんランプ」の管理人スパイラルドラゴンです。今日は、2008年5月31日です。
中部大学の武田邦彦教授が、御自身のHPにアップされた、「温暖化の学問 (2) 全体主義の科学」というタイトルの日記は、武田邦彦教授が一個人の学者という立場から、近年の気温上昇の94%が人為的な温暖化ガスの影響としているIPCCの主張に疑問を呈している重要な内容ですので、以下その全文を転載します。
(以下転載)
温暖化の学問 (2) 全体主義の科学
先回に続いて、「欲望と恐怖」によって「幻想と錯覚」にとらわれる人間の頭で「事実」を見るための学問的な方法を、温暖化問題を例にとって示してみる。
先回は「原理的に考える」ということだったが、今回は「直接的な事実を整理する」ことを説明したい。
100年ほど前から世界各地で気温を観測していると、徐々に温暖化していることが指摘されていた。しかし、1940年から1980年にかけて逆に気温が低下し始めたので、寒冷化が進むとも心配されたが、また上昇を初め、現在の温暖化問題へと発展してきた。
気温の変化について事実を整理するときに、やっかいな問題が二つある。
一つはIPCC(温暖化に関する政府間パネル)が第二次報告書の後、「これまでの世界の平均気温の推移」というグラフを変更したことだ。IPCCは第二次報告までは一般的に知られた平均気温の推移のグラフを使っていたが、第三次報告から「ホッケースティック」と言われる余り見たことがないグラフを使い始めたのだ。
上記で「一般的に知られていた」というのは、最近、3000年の歴史で1℃から2℃程度、上下してきたグラフであり、縄文時代と平安時代が気温が高く、ゲルマン民族の大移動の時期と400年前が寒かったという記録である。
このような歴史的な気温の変化は同位体などで測定するのが普通だが、それに加えて3000年ほどなら氷河の後退の痕跡や植物の成長の跡などを追跡することによって観測する方法があり、その他にも人間が記録した文献も得られる。
これまで気温が変化しているのがわかっているのだから、IPCCが示しているような「2000年間はほとんど気温の変化がなく、この100年だけ急激に変化している」という見解はなかなかそのままでは納得されないだろう。もし根拠があったら、十分に示すべきだし、もしIPCCが示さないなら、日本政府はスポンサーとして質問が必要であるし、また国立環境研究所もデータの発表を行うべきである。
IPCCは科学的組織であると共に、政治的な圧力も受ける。でも、かつてのナチスが優生学を発達させたり、ソ連の科学が共産主義の影響を受けて遺伝学の結果を捏造したりしたことでわかるように、科学と政治を分離することは結局、国益にそうことが多い。
その意味では、IPCCの結果に拘わらず、日本では科学的な検討を国立環境研究所を中心として初めて欲しいものである。私はやや「アジア重視」という考えがあるためか、IPCCのように白人主導のことに少し疑いの目を持っている。彼らは原子爆弾を作り日本に落とした科学者であるから余り信用できないというのが私の(飛躍した)気持ちでもある。
ところで、このホッケースティック・グラフの持つ意味は大きい。
もし、一般的に受け入れられているように、現在に比べて400年前に1℃低く、そこから気温が回復しているとすると、100年で0.25℃ちかくは自然の影響になる。またIPCCの測定点を見るとかなり都市や近代国家のところが多いので、都市化がまったく含まれていない事もあり得ない。それをたとえば0.2℃と仮定してみよう。
IPCCは100年で世界の平均気温が1℃上がったとしているが、そのうち半分ぐらいは、自然の影響と都市化であるということになる。それに対してIPCCは気温上昇の94%が人為的な温暖化ガスの影響としているが、少し温暖化を勉強したら、そんなことで納得するはずもない。
では、なんで異論が日本政府(環境省)や国立環境研究所、気象庁などからでてこないのだろうか? なぜ、研究者からの発信が奇妙にその研究者の所属する機関と関係しているのだろうか?
当り前のことだが、科学は「事実を追う」ものであって「上司の顔色をうかがう」ものではない。つまり研究者はそれぞれが独立しているのだから、所属する機関と見解は一致しないはずだ。
科学は「事実が先」だから、IPCCがどのように報告しようと、環境省が二酸化炭素の削減を提唱していようと、国立環境研究所の研究者のある割合は「IPCCのグラフは疑問がある」と考えるはずであり、またそれを保証しないと何のために国が研究所を持っているのか理由がない。
国の研究機関は国の方針に従って科学的に間違ったことを研究するのではなく、国が温暖化の研究が必要ならその研究をするために存在するのであり、結論まで国の方針に従うと国は損害を受ける。
これは私の推察だが、「政治の方が科学より上にある。科学は政治の力で事実から離れて良い」という圧力が強く、個々の研究者が自らの学問的良心に従って行動する幅が狭くなっているようなきがする。
このような社会的風潮は全体主義に見られる。つまり、また日本は第二次世界大戦前のドイツのナチスや、スターリン時代の恐怖政治のソ連に似てきたことを示している。
もともと、IPCCの結論はあまりに学問的ではないのだから、それに対して本来、科学を取り扱う専門家集団のうち、一人も異論を持たないというのも奇妙な話である。
学会には学会誌があり、論文が提出されると「査読」というチェックが行われる。専門家が記載内容をチェックする制度であり、筆者も長く査読委員をしてきたが、IPCCの報告書は査読を通らない。データの取捨選択に任意性があるからだ。
それほど不完全な報告だから、IPCCのグループにノーベル賞が必要だったのだろう。学問的には現在の温暖化が人類にとって問題かどうかはまったく未知である。その段階での受賞だから政治的であることは間違いない。むしろ「学問的にいい加減だから、権威付けの為にノーベル賞が与えられた」と受け取る方が素直だ。
温暖化を研究対象としている研究員の方、同じく科学を職とするものとして、疑念や批判のある科学に回帰して貰いたい。ある事実に基づいて国民を説得するのは政治の役割であり、我々、科学者はまず、疑問を提示し、議論を重ね、事実を解明していかなければならない。
(私はこれまでIPCCの報告書と日本の報道が違うことを、主として北極の氷などの点で指摘してきた。まず、第一段階がIPCCを理解することであり、その段階はほぼ目的をたっしたので、徐々に、第二段階でIPCCの学問的な批判に進むつもりである。)
(平成20年5月28日 執筆)
(転載終わり)
スパイラルドラゴン拝
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