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<麻生首相>偉大な祖父にあやかりたい 政権発足2カ月
11月25日12時27分配信 毎日新聞
政権発足から2カ月を迎えた麻生太郎首相(9月24日就任)。事あるごとに祖父、吉田茂元首相を引き合いに出し、その思いは募るばかりのようだ。時には激務をぬっての墓もうで−−。衆院解散を引き延ばしながらも、その一方で乾坤一擲(けんこんいってき)の解散に打って出て、政権基盤を固めた祖父の故事にあやかりたいという思いも見え隠れする。
首相が「吉田・麻生」の血をかきたてる場所は、元首相が眠る東京・南青山の青山霊園の一角だ。祖父の誕生日(9月22日)に自民党総裁に選ばれたことをアピールした首相は、祖父の命日である10月20日に詣でた。
近くには小村寿太郎(じゅたろう)、浜口雄幸(おさち)、犬養毅ら歴史上の著名人の墓も多い。吉田の墓に向かって右に一つ、左に二つの十字架が立っているのが目を引く。右側は吉田の妻であり、首相の祖母である雪子の墓。左側の一つ目は首相の両親の墓だ。「ペトロ 麻生太賀吉 マリアドロテア 麻生和子之墓」と刻まれている。二つ目は太賀吉・和子夫妻の二男(首相の弟)で22歳で亡くなった次郎の墓だ。
首相にとって仲の良い弟だった次郎については秘話がある。1964年、86歳の吉田が自民党総裁選を巡り、愛弟子の池田勇人首相(当時)と佐藤栄作(後の首相)の二人の対立を回避させようとした時のことだ。
その矢先の同年3月20日、神奈川県・油壺に向かっていた学習院大の5人乗りヨットが消息を断ち、乗員の1人だった次郎は22日、遺体で発見された。孫の突然の死に、吉田は大きな衝撃を受け、調整どころではなくなり、同年7月総裁選は池田・佐藤の激烈な戦いに突入。それ以降、吉田は気力、体力ともに衰え、3年後に89歳で死去した。
麻生首相は墓参後、記者団にこう話した。
「10月20日もおふくろの命日もそういった時は行っている。毎年行っていると思いますけれどね。(みなさんも)墓参りはちゃんと行った方がいいよ」
首相の祖父への傾倒ぶりは筋金入りだ。今から8年前の00年、「祖父吉田茂の流儀」という著書を出版。はしがきに<吉田茂を孫として、後輩政治家として書きつづってみた。明治生まれの男の気概のようなものを読み取っていただければ幸いだ>と記したほどだ。
首相は今月14日(日本時間15日)、ワシントンで同行記者団から「衆院解散の時期は09年度予算案が成立した後がふさわしいか」と問われると、同予算案成立後の来春以降の衆院解散を示唆しつつも次のように語った。
「昭和20年代っていうのは12月、(予算の)政府原案、はい解散というものだったんじゃないかな。24年、27年、28年(の解散は)みんなそうだったんじゃないかな」
首相の発言には事実誤認と受け取られかねない部分もある。吉田が12月解散(1月選挙)を断行したのは23年(1948年)の1回のみだ。この時は吉田率いる少数与党の民主自由党(当時)が苦戦の下馬評を裏切って大躍進した。吉田による解散はすべて年末年始と思い込んでいるあたりに、「できることなら年末にやって祖父にあやかりたい」という「本音」が潜んでいるのではないだろうか。(故人は敬称略)