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http://seiji.yahoo.co.jp/column/article/detail/20081104-01-1301.html
「政局よりも政策」という政局
2008年11月4日 The Commons
麻生総理は「政局よりも政策」と言って解散を先送りした。「政局」と「政策」を対立させる言い方である。しかし私の理解では、「政策」を実現するためには権力を握る事が必要で、そのための権力闘争や国会で法案を成立させる駆け引きを「政局」と言う。従って「政局」と「政策」は一体で、むしろ「政局」がなければどのような「政策」も実現はしない。逆に言うとおかしな権力者の「政策」を阻むためには「政局」が必要となる。
ところがこの国ではそのように捉えられていない。「眉間にしわ寄せ」キャスターなどは「政策は国民の為になるが、政局は国民の為にならない」と発言した。あたかも「政策」は正しい政治で、「政局」は正しくない政治という捉え方である。そんな考えが大手を振って歩いているようでは、この国の国民にはまともな民主主義教育が施されていない気がして心配になる。
国家の現状を分析し、そこから国家が選択すべき「政策」を企画立案するのは学者、シンクタンク、官僚などの仕事である。しかし彼らがいくら声高に「これが正しい政策だ」と叫んでも「政策」は実現しない。「政策」を実現するには政治家が必要である。万人が賛成する「政策」ならば政治家の出番もないが、世の中に万人が賛成する「政策」などあるはずがない。現状を少しでも変えようとすれば必ず誰かが反対する。世の中は複雑だから賛成反対も複雑に絡み合う。それを調整するのが政治家で、そのために賛成と反対を代表する政治家が様々な駆け引きを繰り広げる。
民主主義と対極の独裁国家には「政策」はあっても「政局」はない。独裁者が実現したい「政策」は必ず実現される。反対者が阻止しようとしても政治の駆け引きを行う場はなく、独裁者を暗殺するか、クーデターでも起こさない限り阻止する事は出来ない。しかし民主主義国家はそうではない。「政策」を巡って与野党が駆け引きを繰り広げる場があり、最終的に国民の納得を得られないと「政策」は実現されない。「政策」が簡単には実現されず、「政局」を必要とするところに民主主義の民主主義たる由縁がある。
「政策」と「政局」との関係をアメリカの例で説明する。私がアメリカ議会を見始めたのは湾岸戦争の直前からだが、90%近い史上最高の支持率を誇ったブッシュ(父)大統領を破って登場したクリントンは、権力を得た事で自らが理想とするリベラルな「政策」を実現しようとした。社会保障制度の充実を内政の重点課題とし、ファーストレディとなったヒラリーが先頭に立って日本と同様の国民皆保険制度の導入を図ろうとした。これに対して共和党は大統領夫妻の過去のスキャンダルを暴いて政権を揺さぶる一方、国民皆保険制度は社会主義の「政策」だと批判して攻撃した。経済界や国民は共和党の主張に賛同し、2年後の中間選挙で民主党は敗北、政権の支持率は低下する一方となった。まさに「政局」によって「政策」は変更を余儀なくされた。
民主党追い落としに功績があった共和党のギングリッチ下院議長はさらに議会で攻勢をかけた。予算の成立を阻止するために審議拒否を行い、議会は「シャットダウン」された。かつて日本の社会党が得意とした戦術である。日本では野党の審議拒否を民主主義に反すると言うが、委員会中心主義の議会ではあり得る戦術である。アメリカ議会と日本の国会とはまるで同じ仕組みだから、法案を廃案に持ち込むために政党が手練手管を使うところはよく似ている。違うのはアメリカ議会に党議拘束がないことだ。
これとは逆に日本の国会と英国議会とは仕組みが全く異なる。ところが英国の政治が行う「党首討論」や「マニフェスト選挙」を日本の政治は真似しようとしている。それらを「政治改革」だと言う人もいるが、それには無理があると私は思っている。「党首討論」や「マニフェスト選挙」を本当に日本でやろうとするのなら委員会中心主義の国会を英国と同じ本会議中心主義に変えるべきである。そうしないと「党首討論」も「マニフェスト選挙」も本物にはなりえない。
こうした共和党の攻勢に対してクリントンは「大きな政府の時代は終わった」と演説して「政策」を一転させた。共和党の「小さな政府」政策を丸飲みし、ヒラリーは表舞台から姿を消して内助の功に徹するようになった。遂にヒラリーも自らの「政策」を断念したのかと思ったが実はそうではなかった。後に彼女は弱点とされた軍事政策に精通するため上院軍事委員会のメンバーとなり、右派の議員たちとも親交を結び、機が熟するのを待って2008年の大統領選挙に挑戦した。目的はアメリカに国民皆保険制度を実現するためである。
民主党予備選挙に敗れはしたが、自らの「政策」を貫こうとするその執念に私は脱帽した。物事を成就するには「天の時、地の利、人の和」が必要だと言うが、「政策」はどんなに正しいと思ってもそれだけでは実現しない。「政策」を実現するためには何よりも権力を握る事が必要で、そのためには政治の駆け引きの渦中に身を置き、「政局」を勝ち抜かなければならない。それをヒラリーの例は示している。
一方でアメリカの外交政策を見ると、常に現職大統領は親中国になり、対立する大統領候補者は必ずそれを批判する。ブッシュ(父)政権の中国寄り政策を選挙で痛烈に批判したクリントンは自分が大統領になると現実路線に転じて中国と手を結んだ。そのクリントンの中国政策を徹底批判した現ブッシュ大統領もまた就任するや中国と手を結ぶ。「政策」とはそういうものである。「正しい政策」とか「正しくない政策」があるのではない。どんな「政策」にも「一分の理」はあり、時と場合によって使い分けるものなのである。
かつて「尊皇攘夷」を叫んで徳川幕府を打倒した薩長中心の明治政府が、いの一番に行った「政策」は諸外国と条約を結ぶ事であった。すなわち徳川幕府の開国政策を継承した。「攘夷こそが我々の錦の御旗ではないか」と文句を言う者を、土佐藩士後藤象二郎は一刀のもとに斬り捨てて断固たる決意を示している。「政策」とはそういうものである。昨日まで「攘夷」を叫ぶ者も、権力を握れば「開国」に転ずる。
だから次の選挙で政権交代が起き、民主党が自民党の「外交政策」を丸飲みしたとしても私はちっとも驚かない。古今東西それが政治であり、問題はその結果国民が幸福になるか、不幸になるか、それだけである。幸福になれば良し、不幸になれば「政策」を変えてもらうか、「政局」でまた政権交代を図れば良い。
「政策」と「政局」とはそういう関係だと思うのだが、麻生総理をはじめメディアも国民もそうではない。なぜかと考えると思い当たることがある。この国の「政策」を企画立案している官僚たちは、自分たちの作った「政策」をそのまま実現したいと考えている。阻止しようとしたり、駆け引きされたりする「政局」には我慢がならない。独裁者と同じ感覚だが独裁者ほどの力はないから、官僚は「政策」がそのまま実現されるように仕掛けをする。そこから官僚にマインドコントロールされて「政局は国民の為にならない」などと発言する連中が出てくる。その連中は「政策が大事」と叫ぶことが官僚政治を助ける事で、立派に「政局」的役割を果たしている事に気づいていない。
(田中良紹)