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http://seiji.yahoo.co.jp/column/article/detail/20080902-01-1301.html
やはり奇妙な夏が再来した
2008年9月2日 The Commons
安倍前総理に続いて福田総理もまた1年足らずで政権を投げ出した。やはり去年に続いて今年も奇妙な夏が再来した。福田総理が会見で語った辞任の理由は、「内閣改造後の一ヶ月間に難しい政治状況が起きて、臨時国会を乗り切る自信がなくなった」と言うことである。本人は「臨時国会の途中で総辞職するよりも、国会が始まる前に辞任した方が政治空白を作らない」と理性的な判断である事を強調したが、私には安倍前総理と同様の「プッツン」を感じた。自分を追い詰めた自民党内の勢力に対する抗議の辞任である。
そもそも福田総理は参議院選挙惨敗を受けて困難を覚悟で総理を引き受けたはずだ。与党が参議院で過半数を失ったという現実は、野党の言い分を取り入れて協力しながら政権運営をしなければうまくいかない。「戦う政治家」を標榜しイデオロギーを前面に出す安倍前総理ではうまくいくはずがなかった。福田総理は安倍前総理と違ってそのことを良く理解していた。だから就任と同時に民主党の小沢代表とまるで同じ「自立と共生」という看板を掲げ、何を言われても「柳に風」と受け流す姿勢を貫いた。
この「柳に風」が小泉フィーバーに浮かれた国民には物足りなかった。福田総理に対する批判の最上位は常に「指導力がない」である。しかし参議院で過半数を失った総理が「指導力を発揮」できるはずが無い。それは本人の資質というより政治の構造がそうなっているのである。政治の分かった人間には当たり前の事が政治未熟児には分からない。小泉政治にフィーバーした素人ほど福田政治に幻滅した。福田内閣の支持率を押し下げたのは初めから終わりまで小泉政治の幻であった。
この国の二院制を理解している福田総理は、去年の11月に民主党の小沢代表に対して「安全保障政策を丸呑みする」と言って大連立(保革連立政権)を提案した。民主党の安全保障政策を丸呑みするという事は、アメリカが要求するインド洋での海上給油活動から国連が主導するアフガニスタンでの治安維持活動支援に切り替える事である。それを福田総理は受け入れようとした。アメリカがそれにどう反応したかは知らない。しかし福田総理はそれをやろうとした。
大連立が頓挫した後、与野党が対決モードに入って国会が機能しなくなるのは仕方がない。アメリカが作った日本国憲法は二院制をそのように規定していて、「ねじれ」が起きると政治は機能しなくなる。それを避けようとすれば野党の言い分を丸呑みするか、憲法を変えるしかない。しかし自民党は野党との協調よりも政治が機能しなくなる道を選んだ。民主党を挑発して揺さぶり、参議院の民主党議員を切り崩して権力を取り戻す戦略を採用した。それは福田総理が思い描いていた政治手法とは異なるものだと私は思っている。
例えば道路特定財源問題で福田総理は当初から一般財源化を考えていた。しかし自民党道路族はこの問題を民主党分断に使えるとして、福田総理の一般財源化方針を容易に認めず、一般財源化に当たっても様々な制約を加えようとした。これに対して味方になるはずの自民党改革派は非力さを露呈して全く支えにならなかった。その結果、内閣支持率はどんどん下がり、山口2区の補欠選挙も惨敗した。一方で民主党の道路族である大江康弘参議院議員が行った分断工作は、結局は今回離党した渡辺、大江の二人の参議院議員だけが党に反旗を翻すという寂しい結果だった。
その間に自民党政権の負の遺産が次々現れては内閣支持率の足を引っ張った。会見で福田総理は政治資金問題、年金記録問題、防衛省不祥事、C型肝炎などを列挙して、なぜか後期高齢者医療制度を口にしなかったが、最も福田政権の足を引っ張ったのは小泉政権の負の遺産である。その対応に忙殺されるだけで通常国会は終った。そして悲しい事に最も足を引っ張っている小泉政治を表立って批判することが福田総理には許されない。自分も官房長官としてその一員だったためだ。これがまた福田政治を分かりにくくした。
野党との国会運営が困難な事は初めから分かっていた。それを乗り越えるには対決型の小泉・安倍政治と決別しなければならない。通常国会が終るのを待っていよいよ「福田カラー」を打ち出そうとした。そのためには内閣改造が必要だ。ところがその前に足元から与党が崩れ始めた。まずは公明党の離反である。公明党は海上給油法案の再議決に反対した。民主党とは事を荒立てたくないという事である。そして国民生活優先の経済対策を要求した。しかしこれらはいずれも「福田カラー」で十分に受け入れ可能のはずである。
内閣改造は小泉政治に対する決別宣言となり、同時に公明党が喜ぶ布陣となった。福田総理は「内閣改造後の一ヶ月間に政治状況が難しくなった」と言ったが、私が前々回のコラム「奇妙な夏がまた来た」の中で奇妙だと感じたのはやはり内閣改造後の福田総理の発言である。急に海上給油法案の継続にこだわり始めた。「民主党の安保政策を丸呑みする」と言った総理が、公明党も反対している再議決に何故こだわるのか。私は北朝鮮の拉致被害者を帰国させる事と海上給油法案の継続でアメリカと取引をしたのではないかと想像した。それはもう一方で拉致被害者の帰国が実現すれば福田総理の手で解散に踏み切る事をも意味する。それに福田総理は乗せられようとしていたのではないか。
そこで今回の辞任劇の背景である。自民党内には小泉氏を中心に福田総理の手で解散をやらせようとする勢力があった。福田総理が内閣改造で麻生幹事長を起用し、「禅譲」を臭わせた事に対する反撃である。もし「禅譲」が実現し、麻生総理が誕生すれば、小泉路線は今よりもさらに排撃され、自民党内での存在感は薄くなる。それよりも福田総理に解散をやらせて自民党が衆議院選挙で敗北すれば、麻生幹事長も連帯責任を問われて次の自民党総裁選に出馬する事が難しくなる。どうせ誰が総理になっても選挙には勝てない。それならば野党になった自民党の中で、民主党政権を打ち負かせるのは誰かと選択させれば、小泉氏に再び脚光が当たる事になる。
福田総理はあやうくそのシナリオに乗せられて拉致被害者の帰国に政権の命運を賭けようとした。しかしそれが実現困難と判断したのか、あるいは麻生「禅譲」を潰すシナリオだと分かって考えを変えたのか、とにかく自らの手で解散をする事や、自らの手で海上給油法案の再議決に踏み切る事を拒絶した。それが辞任会見を見た現状での私の想像である。
かつて大連立騒ぎの時、私は福田総理を現代の徳川慶喜だと言った。幕末には倒幕を叫ぶ脱藩浪人が京都の朝廷の下に集まり、江戸と京都に二つの権力が生まれた。徳川幕府の政治は機能不全に陥り、窮地に引っ張り出されたのが徳川慶喜である。慶喜は家康に匹敵する知恵者で時勢に逆らうほど愚かではなかった。朝廷(野党)に大政を奉還し、公武合体(保革連立政権)を策して徳川家の生き残りを狙った。しかし公武合体はならず、西郷隆盛の陰謀と挑発で鳥羽伏見の戦いが始まる。すると慶喜はリーダーであるにも拘らず戦場から逃げて江戸に戻り、上野寛永寺に篭ってしまうのである。
福田総理もまた大連立(保革連立政権)を策したがそれが否定され、選挙による政権交代が近づくと、戦うことをやめて総理を辞任した。最後の最後まで福田総理は徳川慶喜と良く似ている。まさに現代は幕末そのものだと私には思えるのである。
(田中良紹)