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http://wiredvision.jp/blog/ishii/200808/200808281000.html
メディアが世論を怖がり始めた
この1カ月ほど、活字メディアの関係者が集まると、毎日新聞社の「変態」報道事件が話題となります。
毎日新聞はインターネット上で「日本人は性的に倒錯している」という趣旨の英文記事を数年に渡り配信し続けました。この問題について同社は「英文サイト出直します 経緯を報告しおわびします」と、謝罪と検証記事を発表しました。
メディア関係者の注目点は、この事件の「構造」と「余波」です。ネットメディアがこの問題を指摘し、ネット上で批判が広がったことによって、毎日新聞が謝罪に動きました。これまで、一般の人々がここまでメディアを追い込む例は、あまりありませんでした。
また、新聞・通信・出版という活字メディアは、広告の減少と絞り込み、さらには紙媒体の発行数の減少で、経営が厳しくなりつつあります。広告代理店の営業担当者は「クライアントがネットの怒りを気にしている。どの会社も不景気の中で広告予算を絞っているから、メディア各社の収益に影響が出てくるかもしれない」と、話していました。
「今」を切り取るさまざまな材料を提供するのに、この事件を伝える既存メディアの報道はあまりありません。なぜでしょうか。
ある大手メディアの元幹部に聞いたところ、「君も分かるでしょう。怖くて誰も記事にできないんです」と、予想した返事が返ってきました。下手にこの事件にさわったら、メディアの力の低下が知られ、スポンサーへの悪影響がでかねない──。こんな恐れが、報道を自粛させているようです。
「既存のメディアの力が低下していることが明らかとなり、同時に世論におびえ始めた」。
さまざまな論点を提供するこの事件で、私はこの点に一番興味を持ちました。しがらみのない子供たちが「王様はハダカだ!」と大人社会のおかしさを明らかにした寓話と同じように、どこにもおもねる必要がないネットユーザーがメディアの権威の低下、そして自らは「社会の公器」を唱えながら実際にはスポンサーの意向を気にする私企業にすぎないという欺瞞を、明らかにしてしまったのかもしれません。ぼんやりと感じていたことが具体的な形になり、メディアの関係者はこの問題に「怖さ」を感じるのでしょう。メディアの中で生活をしている私も、同じ「怖さ」を抱いています。
一致しないメディアの主張と世論
ウォルター・リップマンというアメリカのジャーナリストは『世論』(岩波文庫)という名著を1922年に書きました。ここで「世論」は「人々の脳裏に浮かぶイメージ」という曖昧な姿であることを指摘した上で、「世論がメディアを作るのではなく、メディアが世論を作るのだ」としています。
しかし、そうした「一方通行」ではなく、「メディアと世論が一致しない」または「世論がメディアを動かす」という「双方向」の動きが、ここ数年、目立つようになりました。
郵政民営化問題は、メディアが消極的だったのに世論は小泉純一郎元首相(当時)を支持しました。北朝鮮の拉致問題では、報道に消極的だったメディアと違って世論の怒りが日本を動かしました。
温暖化・環境問題でもそうです。メディアは「温暖化で行動をしなければならない」という主張を繰り返しました。その内容が「物足りない」ことはこのコラムで指摘しましたが、大量の報道で社会全体が影響を受けたのではないかと私は期待していました。負担をしなければ、この問題は解決しません。
ところが、内閣府が今年7月に発表した「低炭素社会に関する特別世論調査」によると、世論は温暖化対策への負担に消極的であるという結果が出たのです。この調査では対策の負担は一世帯あたり月1000円未満までという人たちが約6割に上り、全体の2割弱の人はまったく負担したくないと答えています。
7月の洞爺湖サミット前に新聞、テレビは大量に環境をめぐる報道をしました。そこにタイアップする企業の広告量は多かったものの、読者や視聴者はあまり関心を示さなかったようです。「視聴率があまり伸びず、今後もこうした取り組みをするのか社内で検討している」(大手テレビキー局の報道部長)、「購読部数は特に変わらなかった」(大新聞の編集局幹部)という話を、あるシンポジウムで聞きました。
サミット以降、温暖化や環境をめぐる報道が減りました。北京オリンピックの影響もあるのでしょうが、これは多くの人が「エコはもういい」と受け止めたことが影響しているのかもしれません。
「人間は認識してから定義するのではない。定義してから認識する」。
リップマンは『世論』の中でこう書きました。だから定義を与える「物差し」の一つで20世紀初頭に影響力を増した新聞という新興メディアの力に期待しました。しかし、今の日本でメディアはそうした価値判断を提供する力を失いつつあります。
情報技術の進展で大量の情報に瞬時に接することができるようになり、人々はメディアの情報を選択するようになっています。これは当然の動きである半面、問題もはらみます。ただでさえ難しい社会の合意の集積が、一段と難しくなっています。
意見をまとめる軸はどこにもない
社会全体が一つの方向にまとまって向き合わなければ、解決できない問題があります。温暖化問題はその典型です。解決のためにCO2を削減しなければなりませんが、それは私たち一人一人の行動に、制約と負担を加えます。そうした「痛み」のゆえに、国民の合意づくりは、非常に難しいものです。
社会が単一になることは、少数者の意見を潰すという「危うさ」もはらみかねません。だから、国や一部の人による強制的なルール作りは、非常に危険です。そのために、一人一人が納得する負担についての合意作りが必要です。
しかし、メディアにはもはや意見をまとめる「軸」となる力はありません。それでは、それに代わる存在はあるのでしょうか。
ネットの言論が少しずつ、深みと広がりを増しています。しかし、インターネットは玉石混交であり、「まとまりのなさ」が特徴で、かつ魅力でもあります。世の中を長期にわたってまとめる軸を提供することは不可能でしょう。
政治のリーダーシップも軸になることは難しいでしょう。福田康夫首相は、温暖化対策を政権の重要課題に掲げています。ですが、支持率は上昇していませんし、世の中の流れが変わったとも思えません。「オピニオンリーダー」と称する人の影響力も限られたものです。
温暖化をめぐる意見をまとめる「軸」となる存在はありません。そして、この問題の解決は人々に負担を求めます。それなのに温暖化は進行し、早急な対策づくりが求められています。「合意」を作るための道のりは、難しさを増しているように思えます。