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http://www.amakiblog.com/archives/2008/07/19/#001019
2008年07月19日
長銀無罪判決で問われる本当の罪
7月18日、最高裁は、一審、二審の有罪判決を覆して、当時の日本長期信用銀行の元頭取らに無罪判決を下した。
この衝撃的なニュースが日本中を駆け巡った。
もはやバブル崩壊当時の状況を知らない世代も多くなった。
だからこの判決の意味を理解できない者がいるかもしれない。
しかし、バブル崩壊とその後の混迷を見てきた多くの日本人にとって、この判決は、当時の異常な状況を、鮮やかによみがえらせてくれた。
そして、19日の各紙が報じる今回の無罪判決の評価を読む時、10余年の歳月が我々をして、今、当時の状況を冷静に考えさせてくれるようになった、と、つくづく思わざるを得ない。
各紙がその記事のなかで、あるいはその社説の中で等しく指摘している事は、おおむね次のごとくである。
・・・逆転無罪判決は理解できる。一、二審の有罪判決の根拠となった粉飾決算事件は、旧大蔵省の通達による会計基準整備が周知徹底してなかった過渡期に起きた事件だ。
経営者の責任は問われるべきであるが、長銀の幹部らだけを犯罪者とするのは法的に無理がある。
問われるべきは自らの責任回避の為に、裁量行政(護送船団方式)から金融機関の自己責任へと法体制を切り替えた金融当局の行政責任ではないか。
当時は、巨額な公的資金(税金)を投入して大手金融機関を救済したことに対する国民の怒りをそらすためにも、政府はスケープゴートを必要とした。
その政府の意を汲んだ検察の国策捜査ではなかったのか。
一審、二審の有罪判決は、世論の怒りや国策捜査の流れに逆らえなかったのではないか。
あれから10年余りたって、やっと妥当な判決が出たということだ。
しかし、これほどの事件が起きて、誰も責任を取らずに忘れ去ってしまっていいものか。
真の責任者は政府、行政にあるのではないか・・・
私もこのような解説に、おおむね賛成だ。
しかし、金融行政に素人の私が、この判決の事をブログで取り上げる気になったのは、別のところにある。
19日の読売新聞は元長銀マンたちの様々な反応について書いていた。
その中の一人の言葉に次のような自戒の言葉があった。
「無罪判決を素直に受け止められない。・・・法的には無罪でも、経済人としては許されない行為。経営陣だけでなく、すべての行員も、心の内で責任を感じなくてはいけない・・・」
そうなのだ。悪い事だと内心気づきながらも組織の一員としてそれを見過ごしてしまう。
その事が、結果としてどれだけ多くの社会的悪をもたらしてきたか。見て見ぬ振りをすることこそ罪ではないのか。
その一方で、正義感に駆られて不正を告発したものが、どれだけ割りに合わない処遇を受けてきたことか。つまはじきされてきたことか。
ここのところが逆転しない限り世の中はかわらないのだろう。
見て見ぬ振りをする事自体が一つの犯罪であり、不正を告発した者への評価が、その身分が守られなければならないといった受身の立場から、不正の告発者は英雄であるという積極的な評価に変わらない限り、組織犯罪、権力犯罪は決してなくならないだろう。
日本社会がそこまで変わることができるかという事である。
長銀幹部の無罪判決が我々に投げかける本当の問いはその事である。