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http://seiji.yahoo.co.jp/column/article/detail/20080718-02-1401.html
「教育改革」をすべてやめよ/亀田徹(PHP総合研究所主任研究員)
2008年7月18日 VOICE
器づくりに終始する諸改革
5月、福田政権において設けられた教育再生懇談会が第一次報告を公表した。その内容は、1.子供に携帯電話をもたせない、2.幼児教育の無償化、3.留学生30万人受け入れ、4.英語教育、5.環境教育、6.学校施設の耐震化である。洞爺湖サミットを念頭に置いた環境をはじめ、IT化・少子化・国際化・安全安心といった社会的な課題をなぞってはいるものの、これで教育は変わるのだろうか。
同懇談会の前身である教育再生会議は安倍前政権において設置され、ゆとり教育の見直しや徳育の教科化などの報告を出して終了した。教育再生に取り組む政府の姿勢は示されたが、この報告によって教育が「再生」されたとも思えない。
教育改革は数十年にわたって続けられている。戦後の教育制度の改革に始まり、四六答申といわれる昭和46年の中教審答申、昭和60年以降の臨教審答申など、これまで数多くの提言が出されている。最近では教育改革国民会議が平成12年に報告を出し、中教審は毎年のように答申をまとめている。
しかし、内閣府の世論調査によれば、「良い方向に向かっている分野」として「教育」を挙げた人の割合は9%、逆に「悪い方向に向かっている分野」として「教育」を挙げた人は24%となっている。調査が始まった平成10年から、つねに「悪い方向に」という回答割合が「良い方向に」を上回っているのだ。やるべきことはすでに示されているのに、なぜ教育は良くならないのか。
戦前、教育は国の事務であり、国の指揮監督により教育行政が執行されていた。戦後の改革で教育の主体は自治体となり、指揮監督ではなく指導助言という非権力的な作用によって主体的な取り組みを促すことが教育行政の基本となった。国の役割は自治体に対する指導助言や援助と、学校制度の基本的枠組みの制定や全国的な基準の設定などとされている。国の役割のうち、これまでの教育改革は制度改正や基準の設定が中心であった。改革の名の下にさまざまな制度改正や基準の改定が行なわれてきた。
しかし、器づくりだけでは教育の中身は変わらない。今日の教育改革は、器をどうするかとの議論に終始しているのではないだろうか。
教員の力量をどう改善するか
教育の中身の改善とは、それぞれの学校で日々行なわれる指導の質を改善することにほかならない。子供の状況に応じた的確な指導を行なうため、まずは個々の子供の現状を把握すべきだ。それはクラス担任の教員1人でできるものではない。教員同士が連携し、さまざまな場面で垣間見える子供の様子を集約することが重要である。
同時に、指導する側の力量を改善しなければならないが、全国には公立小中高・特別支援学校を合わせて90万人の教員がおり、4万校の学校がある。当然、それぞれの教員、学校ごとに指導力の差がある。教員同士の役割分担によって得手不得手を補い合い、教員集団として指導力を高めることが必要だ。学校が行なうべきことは「改善と成果のチェック」および、そのための「教員同士のチームワーク向上」であり、これを主体的に進めることである。民間企業で行なわれる組織的改善活動であるTQM(Total Quality Management:総合的品質管理)と原理は同じだ。
どの学校でも「改善と成果のチェック」および「チームワーク向上」に取り組んでいると主張するかもしれないが、それがかたちだけのものになっていないか。そもそも、改善を推進する立場の教育行政の施策がかたちだけのものになっているのではないか。中身が伴わなければ、いくら器をつくっても現実を変えるには至らない。しまいには、器自体も現状から懸け離れていくだろう。
教育を行なう直接の主体は学校だが、各学校における改善を促すのは自治体の役割である。現場を訪問し、現状を見て話を聞いたうえで、効果的な指導助言を行なうことに自治体は力を注ぐべきだ。さらに自治体においても「改善と成果のチェック」「チームワーク向上」が重要であることは変わらない。各自治体の実情や課題に応じ、他県の好事例を紹介するなどの指導助言を行ない、自治体の取り組みを促すことこそ、国の果たすべき役割である。
この指導助言には時間と手間がかかる。人的資源は限られているので、いっそいま行なっている教育改革のための仕事はすべてやめてしまい、指導助言に専念してはどうか。
指導助言による教育改革。遠回りにも見えるが、教育に特効薬はない。特効薬を探し回るより、漢方薬で改善すると腹をくくったほうが、かえって改革実現の近道になるはずだ。