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http://seiji.yahoo.co.jp/column/article/detail/20080707-03-1201.html
「不安」がよぎる小沢流儀の結末(岩見隆夫=政治ジャーナリスト)
2008年7月7日 リベラルタイム
「独断専行」こそ小沢流儀。
仮に宰相になれば、
小泉元首相以上の「独裁者」になるかも知れない
世論調査で「次の首相にふさわしい人」を問うと、民主党代表の小沢一郎は必ず二番手か三番手につけている。調査によってはトップに立つこともある。「小沢首相」への世間の期待値はかなり高いと見なければならない。
「キングメーカー」志向
だが、世間の空気と実際に小沢がいまの日本にとって首相の適任者かどうかは必ずしもイコールではない。なにしろ、小沢が最初に首相に擬せられたのは、いまから二十年も前である。当時のキングメーカーだった自民党の金丸信副総裁は宇野(宗佑)後継問題が難航した時、
「おまえが(総理・総裁を)やれ」
と四十七歳の小沢に求めたが、小沢は、
「ものには順序がある。それにいまはミーチャン、ハーチャンの時代だから、私には合わない」
と断ったことがあった。以来、折にふれて首相候補に名前があがっている。いわば万年候補みたいなもので、これほど息の長い候補もめずらしい。細川護 、羽田孜両政権では小沢がキングメーカーに回った。
「(首相に)なりたければ、とっくになれたんだから」
ともらしたこともある。
この経過を見るかぎり、小沢が一途に首相の座を求めてきたとは思えない。首相の適・不適を見極めるのに、まず肝心なことは本人に強烈な意思があるかどうかである。政界でも、
「小沢は権力闘争には勝とうと執念を燃やしているが、首相になる気はもともとない。首相をつくる側に回ろうとしている」
という見方が少なくないのだ。
昨年十一月、小沢は福田康夫首相との間で自民・民主両党の大連立に動き、「小沢副総理」で福田とコンビを組むことでいったん合意しながら、民主党の総反発にあって失敗した。この時も、自民党の某長老は、
「小沢はかりに民主党政権になっても、健康上の理由から首相になれない。だから、大連立で無任所・副総理を狙い、政権の一翼を担うことによって福田を逆にコントロールしようとした」
と小沢の意図を分析した。真相はもう一つはっきりしないが、そう見られても仕方ないところがあった。そこには、首相ポストにこだわらず、権力を掌握しようとする小沢の野心が読み取れる。
政治闘争が自己目的化
小沢首相で日本はいいのか、と問われれば、第一の疑念はそうした権力闘争至上主義への不安である。闘争を最優先するあまり、政治のあるべき姿、方向性が曲げられる恐れはないか。最近のことでいえば、小沢はテロ対策特別措置法の延長が憲法違反だと強硬な方針を打ち出し、結果的に臨時国会を二度も延長、成立させるのに百二十八日という長期間を費やさなければならなかった。
また、ガソリン税の暫定税率延長問題でも、民主党内に税率引き下げで妥協を図る現実的な主張があったにもかかわらず、小沢は、
「こういう時は〇か百かだ」
と撤廃論で押し切り、ガソリン料金の値下げ、再値上げという混乱を強いられた。
いずれも、政策選択として正当性の主張があるとしても、大連立が挫折すれば、次は福田政権を追い詰めるという権力闘争、政略優先の臭いが強い。
立場が変わって、かりに小沢政権になれば、政権維持のためこんどは野党勢力とあくなき闘争を繰り広げる姿が想像され、それは日本の明るい未来や展望につながりにくく、暗い。権力に闘争はついて回る。それを否定はしない。だが、闘争が自己目的化した例は過去にもあるが、政治は混乱し、施策は二の次になり、国民は迷惑する。小沢の強引でしばしば破壊主義的な政治手法にはそうした懸念がつきまとう。
国民は不満がたまるほど強いリーダーシップを求める。小泉純一郎元首相に人気が集まったのも、小泉に強いリーダーの姿を見たからだった。小泉も国民のハートをつかむ才覚に長けていた。同じ意味で、小沢の強さに国民はひかれている。小泉の「明」と小沢の「暗」の違いはあるが、
「自民党政権ではできない思い切った改革を、小沢ならやってくれそうだ」
という期待がある。それは当たっていないこともない。
しかし、小泉もそうだったが、強さの裏にあるものが気になる。最近のインタビューで、小沢は、
「首相の座なんてあまり好きじゃないけれど、しょうがないということです。野党の党首になり、政権交代可能な野党をつくるというのがぼくの夢、目標だったから、その結果、政権交代となれば、ぼく自身がそれを忌避しちゃいかんということだね」
と語った。政治家の道を選んだからには首相になりたい、というのが政界常識である。小沢はこの発言にあるように、そうではない。政権交代が目標であり、首相は目標ではないが、党首になったからには逃げるわけにはいかないだろう、ということだ。
こんないいかたをする実力者は小沢しかいない。しかも、パフォーマンスではなく、以前から一貫しており、本音と見ていい。
欲しいのは「裏権力」
首相ポストに野心を燃やし、強烈なあこがれを抱く並の実力者と、小沢は一線を画している。それは小沢の強さかもしれないが、独特の権力思想と一種のニヒリズムを感じさせる。
なりたくてなったのではないから、なった以上はやりたいようにやる、という小沢流儀が強く臭うのだ。これまでの歴代首相には、独断専行型もおれば全員野球型もいたが、「みんなに選ばれたのだから、みんなの話し合いのもとで」という議院内閣制下の民主的な首相のスタイルは守られてきた。少しはみ出しかけたのは小泉だけである。
小沢には、さらにはみ出し、権力者の新たな型をつくりそうな気配が強い。過去の小沢の言動をたどれば明らかだ。たえず独断主義を貫き、同調しない者は側近でも遠ざけてきた。その人数、数えきれない。戦後政治の中でもそうしたやり方を通した実力者は小沢一人だった。小沢の特異性であり、強さでもあった。
いいかえれば、小沢首相でいいのか、という点についての第二の疑念は、民主主義の希薄さである。実際のところ、小沢はキングメーカーのほうに魅力を感じているのではなかろうか。いまは問われれば首相就任の意思を述べざるを得ないが、仮に次の衆院選で勝っても、小沢は誰かを担ぎ、自身は裏権力に回る可能性が強い。そうだとすれば、それも不安なことである。(文中敬称略)
リベラルタイム8月号特集「次期総理にもっとも近い男『小沢一郎』の是非」