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2008年6月29日 (日)
吉兆の堕ちアユ
船場吉兆の『使いまわし』に見る日本人劣化の現実
はじめに
和食の事情通からの受け売りなのであるが、料理、ことに日本料理では、「材料八部」ということが言われている。食材の質によっては、料理の良し悪しが八割がた決まってしまうという話である。船場吉兆の「料理使いまわし」は、単に食品偽装というレベルを超え、日本人の自己同一性の危機まで感じさせる深刻なものであると筆者はとらえている。小泉政権が日本に洪水のごとく新自由主義をもたらしてから、その当然の帰結として、国民全般の気持ちから公益心や公徳心が消えかけている。新自由主義の大御所であるミルトン・フリードマンの『政府からの自由』を読めば、国家と言う連続的有機的実態は、まるで無意味であるかのような方向性を明確に打ち出している。
今の日本にとって重要な著書である『拒否できない日本』を書いた関岡英之氏は、フリードマンの思想性を「極左急進主義的無政府論」と喝破していたが、筆者もまったく同感である。中曽根政権が新自由主義的傾向を色濃くしてから、この日本は特にアメリカに阿諛追従し、ネオリベラリズムの風潮に囲繞され、今日まで至った。それは小泉政権が出現してから、突出的に鮮明になり、むしろこの政権が、国民に放った出力は、日本の伝統文化や倫理規範、相互扶助観など、もともと日本人に強く継承されていた民族的な性質をことごとく破壊する結果をもたらしている。船場吉兆が常態的に行なってきた「使いまわし」は、戦後日本人の公徳心や良心の衰退を見事に反映している。
食品偽装に新顔登場!「使いまわし」の衝撃
飲食店業界から新たな衝撃波が発生した。今から半年ほど前、料亭「吉兆」グループの「船場吉兆」本店(大阪市)が運営する福岡市岩田屋本館にある「吉兆天神フードパーク」で、五種類に及ぶ菓子類の消費期限、賞味期限偽装が問題となった。それを皮切りに、大阪本店では牛肉や地鶏のみそ漬けに原産地偽装が発覚し、前役員らは不正競争防止法違反容疑で大阪府警の捜査を受けた。5月3日付けの読売新聞によれば、今回は料亭・船場吉兆の本店が、客が食べ残したアユの塩焼きなどの料理を別の客に使いまわしていたことが発覚した。これは前社長・湯木正徳(ゆきまさのり)氏の指示で行われ、一連の偽装が発覚して休業した昨年11月まで続けられていたらしい。使いまわしをしていたのはアユの塩焼きやサケの焼き物など、少なくとも6品はあったという。また、船場吉兆関係者が読売新聞の取材に対し、「使いまわしは20年以上前から行われていた」という証言もある。
具体的には、客が食べなかった料理を再度加熱したり、油で揚げ直したり、新たな料理として客に提供していた。アユの塩焼きの場合は身をほぐして白飯に混ぜて出していた。一食数万円も散財し、期待して食べた料理は、一度他の客に出された料理から回収された食材から作られていた。何も知らずに、それを食べた者は、大衆食堂の安い定食とは、はるかに隔たった『高級な』満足感も同時に味わいながら、料理に舌鼓を打っていたことだろう。しかし、その高級料理の本当の成り立ちに客が気付いたとき、そこにふつふつと沸き起こるのは、美食の満足感とはまったくかけ離れた言いようのない嘔吐感だけであろう。大枚をはたいて船場吉兆で高級な和食を楽しんだ多くの人たちは、今ごろ、俺のときもそうだったのか、私のときもそうだったのかと、大いに堪能したであろう美食の追憶を、こみ上げてくる嫌悪感という、ひどい後味に塗り替えていることだろう。まったく罪深い話だ。
こういうことを耳にすると、誰もが、もしかしたら、このような使いまわしは、他の料理店や大手居酒屋でも日常的に行われているのかもしれないと、疑心暗鬼になるのではないだろうか。実際、何人かの知人もその疑念を口にした。つまり料理を提供する側が、「その気」にさえなれば、枝豆などの豆類、刺身のつま、パセリ、サラダなど形の崩れないものは労せずして新品料理として再提出ができるからだ。客に発覚さえしなければ、使いまわしは容易にできるのである。ふだん、われわれが外食に出かけるときは、応分の金を払っている以上、食の安全と新鮮さは当然のことだと思っている。つまり、出される料理は衛生的であり、誰も「箸をつけていない」と信じて疑わない。しかし、その常識的な「一回性」がじつは幻想だと知ったとき、われわれが外食に抱いていたすべての期待や価値は根底からくずれることになる。「一回性」という確固たる伝統的な前提が根底から揺らいだとき、大事な金と時間を費やし、他家の残飯を食うために、のこのこと出かける人間がどこにいるだろうか。
さて、次はこの「使いまわし」という食品偽装が、いかに悪質かつ深刻なものであるか考えてみる。
欺瞞の「もったいない精神」
船場吉兆・前社長の湯木正徳氏は「きれいな料理を捨てるのはもったいない。利用できるものは利用しろ」と厨房に指示したそうである。この話が本当だとすれば、湯木前社長の言う「もったいない」精神とは、いったい誰にとっての「もったいない」なのだろうか。前社長の指令には次のような論理構造が見える。
(1)大前提 「きれいな料理はもったいない」
(2)小前提 「船場吉兆の料理はきれいである」
(3)結論 「故に、きれいなうちの料理はもったいないから捨ててはならず、きちんと再利用される必要がある」
これを典型的な三段論法と言っていいものかどうかわからないが、これを三段論法と解釈して、大前提の『きれいな料理はもったいない』を見ると、表層的には理屈が通っている。見た目にも美しい料理は、崩して食すのがもったいないということはよくあるからだ。しかし、この論法の結論に相当するロジック、『もったいないから捨ててはならない』という論理進展は完全に間違いだ。
これがエコロジカルな再利用(リユース)という意味での「もったいない」の文脈でないことだけは確かである。「利用できるものは利用しろ」が、違った客に同じ物を提供できるという意味での再利用なら、「もったいない」の真の文脈は、一つ分の料理で二つ分の利益が見込めるという店側のぼったくり的営利感覚のことだ。そして、法律や商業道徳を加味した全体の文意は、ずばり言って『詐欺指令』そのものだ。廃棄物を新品だと偽って売ったわけだから、これは明らかに詐欺行為である。ウィキペディアで「詐欺」を調べてみた。
■詐欺(民法)
他人を欺罔(ぎもう:人をあざむき、だますこと)をして錯誤に陥れること。
詐欺による意思表示は、その意思の形成過程に瑕疵があるため取消得るもの
とされる (民法第96条)。
■詐欺(刑法)
他人を欺罔し錯誤に陥れさせ、財物を交付させるか、または、財産上不法の
利益を得ることによって成立する犯罪 (刑法246条)。10年以下の懲役に
処せられる。
ここまで書いて筆者は、湯木氏の発想のあまりのわかりやすさに、こみ上げてくる笑いを抑え切れなかった。とは言っても、この事件を深く見つめれば、笑いとは無縁の日本人劣化の問題にどうしても突き当たってしまう。その深刻な問題提起は後半に説明するとして、湯木氏のこの指示を本音で言い直せば、「船場吉兆が儲かるなら、どんな食材でも効率よく使いなさい!腐っていなければ、残飯でも何でも使いなさい!見た目が美しければ何度でも使いなさい!」ということに尽きる。「使いまわし」は究極の原料コスト削減である。いや、考えようによっては無から有を生み出すわけだから、最も斬新な商売上のアイデアと言えるかもしれない。ただし、倫理道徳を完全に捨て去るという付帯条件はあるが。
この剥き出しのぼろ儲け主義を見て、読者の諸姉諸兄は何かと似ていると思われないだろうか。そう、これは何でも貪欲に食い尽くすハゲタカファンドの手口である。儲けのためには、原料の品質も入手手段の不当性もまったく問わないという「やったもの勝ち」のぼったくり的市場原理至上主義だ。米国発、アングロサクソン流、究極のネオリベラリズム(新自由主義)である。料理を見抜けずにだまされる客が悪いということなのだろう。なんという精神劣化、なんという規範感覚の頽廃だろうか。使いまわしとは、一度は他人の面前に出されたものを再び別の客に出すことだ。それが以前と同じ形を保っていても、それはすでに料理としての自己同一性を失い、残飯という廃棄物に変わっている。箸を付けたとか付けなかったということは関係ない。一度他人に提供したものは廃棄物としての価値しか持たない。何というか、呆れるという気持ちをとおり越して、茫漠とした虚しさがまとわりついてくる。
見た目も新しく箸もつけていないから衛生的だ、だから何の問題もないと思う人がもしもいたとしたら、その人に言いたい。前のお客に出した後に回収するというタイムラグがあり、厳密に言って、これには「経時的劣化」が起きている。ただし、それは微々たるものだから食品衛生法には抵触しない。それなら何も問題はないのだろうか?もし、そう考えるのであれば、その人は日本人をただちにやめるべきだろう。この問題の根は、単に経時的劣化を問題視することとは、まったく異なる、精神文化に関わる根源的な問題がある。そのことは追って説明する。
さて、湯木前社長の「もったいない」指令にもっと突っ込みを入れてみよう。彼の本意は我利我利亡者の利潤追求主義であるが、それにしても、もったいないから使いまわしをしろというのはかなり乱暴である。野菜や魚など、新鮮な食材をあますところなく無駄なく使い切るというのであれば、そのことが料理の味や見た目に影響が出ないかぎり、エコロジカルな考えから言っても理にかなっている。一般論から言えば、物の再利用(リユース)は歓迎すべきことである。しかし、高級和食という確立された食文化体系の中では、食材の使いまわしは恥ずべき行為だ。料理の精神に真っ向から反した行為であり、饗応の精神にも背く。これに比べれば、二桁も値段の安いファスト・フードのほうがはるかにまともな食べ物に思えてくる。
たしかに彼が言うように、日本の食文化には「もったいない」精神が伝統的に宿っている。子供のころ、よく親に、食べ物を粗末にするとバチが当たると言われたことを思い出す。そこには食材を大事にする、すなわち「もったいない」という伝統的な継承感覚がある。もったいないから野菜の切れ端を別の料理に上手く取り入れる。もったいないから残り物を明日の料理に使い、味を工夫して作りかえる。今風の主婦にも、ある割合でこういう「もったいない」感覚を生活に活かしている人はたくさんいる。経済的にも合理的なこういう生活の知恵は、一般家庭なら美徳として受けとめられ、良妻賢母の鑑(かがみ)として賞賛されるだろう。しかし、高級日本料理になると話はまったく違ってくるのだ。
日本料理は満腹感を得るためのボリュームよりも、見た目の美しさや簡素さが重用される。特に高級和食にその傾向が強い。煎じ詰めて言えば、日本料理は無駄なものをそぎ落とすという美学である。食材を無駄なく満遍なく使い切るというのは、いわば世俗的な「もったいなさ」と言えよう。しかし、和の簡素な美を追求する高級和食料理の場合は、料理そのものがただの食事ではなく、日本特有の四季の移ろいや自然美を象徴する一幅の絵巻物になっている。その世界では、世俗的なもったいなさは止揚され、食材の鮮度や料理人の精魂込めた作品としての「一回性」が尊重される。つまり素材の鮮度や象徴としての意味性を最大限に際立たせるために、無駄なものはいっさいそぎ落とされているのだ。ここには日本における伝統的な食文化の精髄としての「もったいなさ」がある。
しかし、天下に名をはせた一流の老舗料亭が「もったいない」と言って、一度客に出した料理を食材として再利用したという話は、心ある日本人を暗澹とした気分にいざなう。もったいない精神の実践は美徳だが、料理の使いまわしとなれば、それはすべての食文化への裏切り行為に直結する。船場吉兆の行なった料理の使いまわしは、飲食業というサービス産業に決定的なダメージを与え、なおかつ和食文化を根底から覆す悪質な所業である。
この背信行為は日本文化の冒涜
老舗中の老舗である高級料亭が、残飯として廃棄すべきものを回収し、それを客に出すことの衝撃度は尋常ではない。筆者自身は貧乏な庶民の一人だから、船場吉兆のような高級店で食事した経験はほとんどないが、少なくとも高級料亭のたたずまいはわかる。一つは料理を盛り付ける器そのものが並外れた高級品であることだ。たとえば北大路魯山人(ろさんじん)の陶芸品などである。そこでは、われわれ庶民が日常ではなかなか目にすることのできないような陶器・磁器の名品が揃えられてあり、器が醸し出す風格が、和食職人による入魂の料理と拮抗して、絶妙なバランスと存在感が奏でられる。ここには板前さんと言うよりは、繊細優美な日本画を描写するアーティストになっている。板前さんの流儀と思いが深ければ、変幻自在にいろいろな作品が楽しめる。器、盛り付け、もてなす側の所作雰囲気、部屋の飾りつけ、すべてが日本料理を成らしめる一種独特の和の空間を形成し、そこには味だけではない、総合芸術としての設(しつら)いがある。高級懐石などの和食は、さりげない簡素さの中、安らぎとともに、日本人独特の情緒性や風趣を呼び起こす舞台が演出されているのだ。そこにこそ、華道や茶道に通じるわび、さびとしての日本料理がある。船場吉兆はこの系統にあって、しかも高みに位置する料亭だと思っていた。筆者には手の届かない和食の高峰にある店が、あろうことか「使いまわし」を常態的にやっていた。
船場吉兆の行なった料理の使いまわしは、この伝統的な食文化の精神を冒涜する行為である。そこには、客に対する裏切り、日本に対する裏切り、伝統文化に対する裏切りがある。そのことは「鮎の塩焼き」の使いまわしを例にとって端的に説明できる。鮎の姿焼きは、川に遊泳する鮎の姿そのままに焼いて出され、見た目にも清流の心地よいそよ風を一緒に味わうがごとくである。鮎という魚が、流れて止まるところを知らない清流の風情を醸し出すとなれば、そこには日本人としての情緒空間が引き出されている。行雲流水、すなわち、無常観なり、もののあはれがそこはかとなく醸し出されるのだ。流れる水に遊泳するアユとは、二度と出会えないこと、すなわちたった一度の貴重な瞬間(とき)を映している。仏教的な感性で言うならば、これは一期一会である。
高度な板前さんの手にかかれば、広めの平らな器に塩をまいて川面の波紋を凝らし、その上に溯上するアユを配置する。料理とは言え、今にも飛沫を上げて飛び跳ねそうである。水面に躍り出たアユの一瞬を器に固定するのだ。瞬間の固定とは永遠である。まさに一期一会の妙味である。あざやかな桜花が一瞬で散るように、美しく盛り付けられた和食にも刹那的な一回性がある。つまり和食もたった一度という一回性が味の深みを引き立てている。和食の高度な簡素さには、やり直しの効かない一回性の厳しい本質がある。くわえて、移り行く四季をめぐり、山海の彩(いろどり)を凝らしたり、地場産食材の利をふんだんに活かした料理など、日本料理は奥が深く千変万化、まさに高度な食の芸術である。日本人は料理にも自然を見て楽しむ心を持っている。目で味わう、五感で味わうとはそういうことである。船場吉兆の不祥事は、単なる食品偽装の域を超えて、日本人の底流に横たわる原初的な情緒性を愚弄した。悠久の時を経て形成された日本人の感性を逆撫でするできごとであり、許しがたい背信行為だ。このような根深い問題を提起しているたちの悪い事件なのに、「もったいない」という世俗的なエコロジー文脈で、このできごとを見過ごしていいはずはない。
井沢元彦著「穢(けが)れと茶碗」からのアナロジー
この記事を書いている途中で、また新たなニュースが出てきた。どうやら吉兆の「堕ちアユ」は一匹だけではなかったようだ。船場吉兆は大阪本店のみか、心斎橋店、福岡市の博多店、それに昨年11月に閉店した天神店でも使いまわしが行なわれていた。料亭4店すべてが開店当初から使いまわしを行なっていた。何をかいわんやである。じつは船場吉兆に露見したこの不祥事について、筆者が最も言いたいことはこれからである。前述したように、これは日本の伝統文化に対する裏切り行為なのであるが、より深い部分では、日本人の根源的な宗教感覚からの逸脱行為であり、原始的な神道思想ともかかわる話なのである。今から13年前、作家の井沢元彦氏が「穢れと茶碗」という衝撃的な本を世に出した。当時、外国人が日本論を出すと目の色を変えて飛びついた日本人が、斯界の一部を除いて、この本にはさほど興味を示さなかったようだ。しかし、筆者にとっては、いまだに影響力の強い本である。
井沢氏の基調的主題は、日本人が軍隊を忌み嫌う理由に、神道的な穢(けが)れの感覚があるという。戦うことを職業とする軍人は常に死と向き合う。したがって軍隊には死穢(しえ)の気配があり、日本人はそれを忌み嫌うという話である。日本人にとって死はケガレであり、それを象徴するものはすべて嫌い敬遠するという考察である。我々の日常意識の奥底には、ハレ、ケ、ケガレという日本人特有の原初的な感覚が脈々と流れている。ハレは清浄や聖なること、ケは普通、日常である。これに対してケガレとは、その清浄さや日常性が壊されることであり、その極点が「死」である。死を最大の穢れと考える感覚から、昔の日本人は墓守や動物の皮を処理する仕事をしていた人々を差別的に忌み嫌った。井沢氏は穢れの説明として、日本人にとって、箸と茶碗は個人に属するものであり、けっして使いまわしをしないことを強調した。不思議なことに箸と茶碗は属人器となっており、他人の茶碗や箸は使いたくないというのは日本人の伝統的心性なのである。それは筆者も例外ではない。「穢れと茶碗」から孫引き引用すれば、穢れとは汚いこと、よごれ、不潔、不浄のこと。汚いを古語辞典で調べると、「きたなし」で、その意味は次の六つである。
一、触れるのもいやなほど、よごれている。清潔でない。
二、乱雑である。乱れている。
三、よこしまである。正しくない。腹黒い。
四、卑怯である。恥を知らない。
五、野卑である。下品である。
六、けちである。しわい。
三から六が、感覚としての汚れ、つまり「穢(けが)れ」を指している。井沢氏は言う。本来実体としての汚れのない洗い箸や茶碗に、われわれ日本人は感覚としての汚れ、つまり穢(けが)れを感じる。古代日本人の感覚は、罪(犯罪)も、災い(災禍)も、過ち(過誤)もすべて穢れとして感じていた。穢(けが)れの意識は、古代から日本人に連綿と続く神道的感性なのかもしれない。井沢氏が指摘する、日本人に共有されている穢れを認識する心性は、じつに二つの重大な精神態度を生み出した。一つは被差別部落を生み出した差別感覚である。もう一つは日本人特有の性癖と言うべき強い潔癖感、清潔感というものである。今筆者が問題とすることは後者である。穢れを忌み嫌う日本人固有の清潔感は、良い悪いを超えてわれわれのDNAに刻印されている。その感覚から言えば、料理の使いまわしとは、ずばり穢(けが)れそのものだ。
船場吉兆の前総帥・湯木正徳氏が、「もったいないから」という言葉でこの穢れを糊塗したことは許しがたい罪である。船場吉兆に起きた「使いまわし偽装」事件には、日本人であることに由来する二つの問題が起きていた。一つは今説明した使いまわしという「穢れ」の発生である。もう一つはこれに関連して、湯木前社長が「もったいない」という言挙(ことあ)げを行なっていたことである。日本には古来から言挙げ信仰が存在する。共同体の長(おさ)が言挙げを行なうと、人々はそれに従順に従うという慣習が根付いている。日本人に集団性が見られるのはそういう性癖が影響していることもある。
湯木氏は「もったいない」という言挙げを行い、部下たちを洗脳した。日本人は権威ある者、位の高い者が発する「言霊」にめっぽう弱いのだ。言挙げの内容の正邪を問う前に、従容と受け入れてしまうところがある。井沢元彦氏の感じたように、言霊信仰は日本人の深層に根付いている原初的な宗教感情のようなものである。この感覚にわれわれは無意識裡に影響されているのではないか。卑近な例を上げると、数年前、あの郵政民営化の是非を問いかけた衆院解散総選挙では、小泉純一郎元首相がワンフレーズ・ポリティクスを大声で繰り返し、国民はその単純明快さに酔いしれた。これは社会現象的には、米系外資に扇動された大手広告会社がマスコミに情報統制を行い、それに気が付かない大勢のB層国民が洗脳されてしまったという現象で説明されることが多い。
当時は筆者もそう思っていたし、今もその見解に変わりはない。しかし、それだけでもないような気がしてきた。そのころ、小泉氏に熱狂した人たちが、必ずしもIQの低いB層市民であるという見方も不十分かもしれない。なぜかと言えば、そこには日本人の言霊信仰が強く影響していたと思うからだ。小泉純一郎という強烈なキャラクターを持つ男が、宰相の地位に着いた瞬間から、わかりやすい自信のみなぎる言葉と、極力短い説明で国民に言挙げを行なった。国民は原初的な言霊信仰を揺り動かされ、小泉構造改革の意味を深く考える前に、盲目的にそれを受けいれてしまったという側面も否定できないだろう。これには共同体から来る付和雷同の精神など、日本人が言霊信仰にどこかで囲繞されていることも案外影響しているような気がする。
最後にもう一度、穢れに戻るが、料理の使いまわしは穢(けが)れそのものだ。前述したように穢れ感覚とは、死を忌み嫌う日本人の神道的な国民感性から出ている。日本料理とは海や陸、山紫水明の自然から得られるさまざまな新鮮な食材を、食器というカンバスに盛り付ける伝統的な職人技である。アユの姿焼きが生命躍動の一瞬を捉えているように、日本料理が象徴するものは生の輝き、生のはかなさ、生の無常観だ。使いまわし料理とは、日本料理の精神を象徴する峻厳な一回性がぶち壊されることだ。これは"料理の死"である。従って「死」は日本人にとって「穢れ」にほかならない。一度客に提供した料理は、形がそのままでも、誰も箸を付けなくても、すでに廃棄物、屍骸、死んだものなのである。客に、見た目にも美しい料理の「屍骸」を提供した湯木前社長らは、自ら日本料理の死をもたらしたのである。その罪はきわめて重いと言わねばならない。船場吉兆の「吉兆」は良い兆(きざ)しの意味である。しかし、筆者はこの粉飾事件を知ってから、吉兆という文字が凶兆(きょうちょう)に見えてくる。それは、この騒動が、今日本で急速に起きている深刻な精神劣化の表象として出ているからだ。和食に限らず、料理には、限りない清潔感、衛生観念が前提にあるべきで、これが日本人の伝統的感性の一つになっていたことは疑う余地がない。これは神社を参拝する時に手水で手を洗い、口中をすすぐ禊(みそぎ)的な慣習からきている。船場吉兆で常態的に使いまわしが行なわれていたこと、そして、それを止めさせる力が自己修正的に働かなかったという事実に、戦後日本人の行き着いた絶望的な民族劣化を見てしまう思いである。
(※ これを書いたのは今から一ヶ月前であるが、船場吉兆は予想したとおり廃業した。これが廃業しないで営業再開に至ったら、その方が日本の未来にとって絶望的であろう)
参考図書
『穢れと茶碗』(詳伝社) 井沢元彦