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http://seiji.yahoo.co.jp/column/article/detail/20080624-01-1301.html
「ねじれ」をどう捉えるか
2008年6月24日 The Commons
通常国会が終った。と言っても去年の臨時国会が年を越えて1月中旬まで続き、間をおかずに通常国会が始まったため、去年から続いた一つの国会がやっと終ったという印象だ。その「ねじれ」国会で所信表明を行った総理大臣が直後に辞任したり、自民党と民主党との大連立騒ぎがあったり、三度の再議決があったりと日本政治はかつて経験のない「未知の領域」を歩んできた。
メディアの「ねじれ」に対する大方の見方は、それによって「政治は機能不全」に陥り、「国民はその被害者」で、だから「1日も早く解散総選挙」をするか、「福田総理に退陣してもらうしかない」というものである。いつもながらの情緒的な政治論に私はうんざりしている。
衆議院で与党に三分の二を越える議席を与え、参議院では野党に過半数を越える議席を与えたのは国民である。その国民がどうして「ねじれ」の被害者なのか。もし「ねじれが政治を機能不全にした」と言うなら、責任の一端は国民にあり、国民が被害者面をする訳にはいかない。仮定の話だが国民が3年前の選挙で与党に三分の二を越える議席を与えていなければ、参議院選挙後の政治の展開は全く違っていた。
与党に再議決という選択肢はありえず、あらゆる問題で野党の言い分に耳を傾けるしかなかった。与党支持者には不満かもしれないが、事実上の挙国一致内閣である。事前の与野党協議が政権運営の重要な柱となり、目に見える対立は影を潜め、与党は水面下での野党切り崩しに力を入れるしかなかった。おそらく「政治は機能不全」と言われる事にはならなかった。もっとも衆議院で与党に三分の二を越える議席が与えられなければ、参議院選挙での野党の勝利もなかったかも知れず、全ては仮定の話である。しかし現実は国民から与えられた衆議院の議席が与党の唯一の命綱となっている。
唯一の命綱を手離す者はいない。どんなに解散総選挙を求められても与党はそれに応じない。衆議院議員には4年の任期があり、それを承知で国民は議員を選んだ。あの時の選択は間違いだったと言っても4年待つしかない。待てないと言うなら「政権打倒」を掲げて直接行動に立ち上がるしかない。野党に「解散に追い込め」と要求したところで、衆議院で三分の二以上を取られている状態ではとても解散に追い込めない。参議院の問責決議が「竹光」である事はこの国会で明らかになった。「竹光」を「真剣」に変えるにはやはり国民の直接行動が必要になる。国民は被害者ではない。もし現状が不満なら立ち上がって行動に出るか、或いは一時の激情にかられて政治を判断するのは間違いだという事を噛み締めるしかない。
ところで私は「ねじれ」で政治が機能不全に陥ったと考えていない。「ねじれ」は日本が歴史的変革に向かうためのプロセスだと思っている。日本は今や明治以来140年にわたる「官僚政治」からの脱却を図る時期に来ている。「ねじれ」を変革へのプロセスと考えれば、日銀総裁が空席になることなど「小事」に過ぎず、騒ぎ立てるほどの事ではない。
戦後の自民党は官僚機構と一体になりながら、政治と官僚の間に微妙な隙間を作って責任の所在をあいまいにするという世界でも類例のない絶妙の統治構造を作り出した。議院内閣制の英国とも異なり、アメリカ民主主義とも全く異なる独特の政治システムである。しかもこの仕組みを有効にするためには政権交代のない政治体制が前提であった。なぜなら政治主導のように見せながら、実は官僚が政治家を裏で操る仕組みだからである。与党政治家のカネも選挙の票も官僚の世界が後ろで面倒を見てきた。だから政権交代を求めない野党が必要で、かつての社会党は衆議院選挙で決して過半数の候補者を立てない政党であった。
この仕組みは産業界の許認可権を握る官僚と政治とが一体化することで政官財癒着の構造となり、野口悠紀雄一橋大学名誉教授の言う「準戦時体制」として日本経済の高度成長を実現させた。これを世界が黙って見ているはずはない。特にアメリカは政官財癒着の構造を問題にし、大蔵省と通産省を名指しで非難するなど「官僚政治」からの脱却を求めてきた。すると不思議なことに官僚スキャンダルが次々暴露されるようになり、政治は官僚機構の改革に取り組まなければならなくなった。
しかし長年の自民党と官僚との関係は尋常でない。人間関係を一度断絶しないと本当の意味での改革は出来ない。そこに政権交代の意味と必要性がある。「政権交代を求める野党」が初めて参議院の過半数を握った現実は、「官僚統治」からの脱却につながらないと意味がないのである。ただ解散総選挙や政権交代を叫べば良い話ではない。それよりも世界最先端の高齢化社会に突き進む日本が、明治以来の統治構造に代えてどのような統治の仕組みを作るのかをしっかり構想する必要がある。
19年前に野党が参議院で過半数を制し国会が「ねじれ」た事がある。しかし当時は「政治が機能不全に陥った」とは言われなかった。野党第一党の社会党に政権交代を求める気がなかったからだが、自民党も野党の主張を取り入れて柔軟に危機を乗り越えた。自民党にはまだそれだけの余裕があった。しかし現在の与野党は共に当時とは事情が違っている。自民党にかつての余裕はない。本当に政権交代の時期が近づいてきている。たとえ政権交代にならなくとも、次の総選挙で自民党が三分の二を維持できなければ、黙っていても民主党主導の政治が始まる。その確率は極めて高い。
幕末には260年続いた徳川幕府を倒すため「武力倒幕」を叫んで多くの志士たちが決起をしては倒れて言った。彼らは性急に倒幕を叫ぶだけで誰も新時代の政治体制を構想していなかった。その中で一人坂本龍馬だけは「武力倒幕」に反対し、議会制民主主義による新時代の政治体制を考えていた。龍馬に言わせれば「黙っていたって幕府は倒れる。そんなことに血道を上げるより、次の時代を作ることの方が大事だ」ということになる。現状は幕末とよく似ている。江戸と京都に二つの権力が出来たように、国会に二つの権力が生まれた。ならば性急に解散総選挙を叫ぶよりも、政権交代が実現した後の政治体制を構想する事の方が重要である。私には「ねじれ」がそうした事を考えさせてくれる。
(田中良紹)