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今週の本棚:松原隆一郎・評 『暮らしに思いを馳せる経済学…』=山家悠紀夫・著
◇『暮らしに思いを馳せる経済学−−景気と暮らしの両立を考える』
(新日本出版社・1890円)
◇二つの環に分断された日本経済
構造改革が景気を良くした、と自画自賛する元政府要人がいる。だが02年からの景気回復の主因がアメリカと中国への輸出増であることは、自明であろう。また物価下落(デフレ)が不況の原因だと徒党で唱える一派もいる。しかしデフレのままで景気回復したのだから反証されたはずで、ともに事実からすれば疑わしい。ここ十年の経済政策は、机上の論理に振り回された。現実は見たいようにしか見えないのであろう。
この二説には、共通点がある。経済を「循環」として見ない点だ。構造改革は、サプライサイドだけで経済が成り立つと考える。供給が先行すれば需要は自動的に後追いし、企業が作った商品は必ず売れる、と前提している。デフレ原因説は、物価が下がる(と予想される)ときには将来に買える商品の量が増え、現在は金を使わないから需要が減ったと見る。ここに限れば需給双方に目配りするかのごとくだが、日銀が紙幣を増発すれば人々の予想が急変して金を使い始めると言うのだから、需要が供給から独立と考えていないのは明らかだ。
需要と供給は貨幣の流れにより危うく繋(つな)がれると見抜いたのがケインズであった。しかしケインズの行った無数の提言のうち、赤字財政にもとづく公共投資だけが彼の主張であるかに理解され、需要不足説は忘れられている。
日本経済というひとつの「環(わ)」は構造改革により「分断」され、国内に需要不足が定着してしまった。私はそれが97年から02年までの深刻な不況だと考えるが、同様の理解から、「構造改革」の嵐の後に日本経済が持つに至った「構造」がどのような様相を示しているのか、鮮やかに描いたのが本書である。
「暮らし」とは、経済の循環において国民が生活のために行う需要面のこと。「構造改革」は日本の「暮らし」とサプライサイドの中心にあった大企業を切り離し、後者のみ大きな「環」としてアメリカや中国の需要に接続した。切断されたもう一つの「環」における「暮らし」は縮み、中小企業の供給物も吸収できないでいる。好況と不況が、別々の環として交わることなく共存するようになったのだ。
97年の橋本・財政構造改革は製品市場の規制緩和と「小さな政府」を目指した。01〜06年の小泉構造改革では、改革の刃はついに土地、資金、雇用という資源(生産要素)市場の規制緩和にまで及ぶ。大企業は労働基準法「改正」で解雇しやすくなり、労働者派遣法「改正」で非正社員を安くどこでも雇えるようになった。一方、金融ビッグバンにより人件費を安く上げない企業は買収圧力を受けるようになる。かくして利益は配当と企業貯蓄に回し、賃金は増えるどころか下げられた。賃下げにより2%の実質成長率のもとで大企業が史上最高益を更新し続けるというマジックが実演された。景気回復下の賃金下落、貧困家庭の急増という未曽有の事態が広がったのだ。それだけではない。政府はライフサイエンスやIT産業など「成長分野」を支援し、景気さえ回復すれば甦(よみがえ)る可能性のあった企業を不良債権処理と称し倒産させた。どこが「市場化」か、社会主義もびっくりの計画経済である。まさに構造改革とは、「強きを助け弱きをくじく」政策であった。
呆(あき)れるのは、「財政赤字の解消」を唱えた橋本改革以降、逆に赤字の累積スピードが加速して、十年で倍増したことだ。企業への減税や高額所得者への減税、株からの配当や値上がり益への課税率を下げたため、税収が急落した。その落ち込みは「暮らし」に振り向けられた。公共サービスと社会保障費の削減、中・低所得層への負担増である。それでも賄えずにずるずると国債を発行し続けたのだ。そもそも97年頃(ごろ)には先進国中最善の水準にあった債務を「累積赤字」と言い立て、それでいて国の正味資産を食い潰(つぶ)させたのであるから、財務省の責任は重い。
本書へは、次のような反論がありうる。グローバリズムの時代、大企業にせよ高額所得者にせよ、税負担を増額しようとすれば海外逃避するだろう、と。これには、企業の立地は税率だけで決まるものではなく、社会や文化、政治環境も考慮されると言っておきたい。企業が技術革新するリスクを株主に負わせる直接金融は先進国には不可欠であり、株主優遇は必然だ、という反論もありえよう。しかし技術革新は個人の頭ではなく組織の文化(社風)が生むものだ。賃金に還元しない企業はいずれ組織の体をなさなくなるだろう。
「暮らし」の背景には、社会や文化・政治がある。経済循環の「環」が切れることにより、経済以外の要素が荒廃することこそが懸念される。荒廃は、すでに身近に迫っているのかもしれない。格差への恨みを理由として、無差別殺人を企てる者さえ現われたのだから。
リアルな統計数字と腑(ふ)に落ちる論理でえぐり出される日本経済の姿は衝撃的である。庶民の暮らしに思いを馳(は)せる筆致の温かさが救いではあるのだが。
毎日新聞 2008年6月15日 東京朝刊