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http://www.asahi.com/culture/news_culture/TKY200806030124.html
「世界七帝国の一つ」欧米列強、徳川政権下の日本を認識
2008年06月03日12時18分
交易の窓口を長崎などに絞り、諸外国との交わりを極端に制限していた徳川政権下の日本。しかし当時の欧米列強の間では、ロシア、中国、トルコ、神聖ローマ帝国などと並ぶ「世界の七帝国」の一つとして認識されていたらしいことが、東北大の平川新教授(日本近世史)の研究で明らかになった。
18世紀にアムステルダムで発行された「日本図」。欄外に「EMPIRE」の文字が見える
「七帝国」に関する記述があるのは、蘭学者・桂川甫周が1794(寛政6)年に編集した『北槎聞略(ほくさぶんりゃく)』だ。
10年のロシア生活の後、1792年に日本に送り返された漂流民・大黒屋光太夫への聞き取りなどを基にまとめられた本で、光太夫がペテルブルクで聞いた情報として、「帝号を称する国をイムペラトルスコイといい、王爵の国をコロレプスツウといふ。(中略)帝号を称する国僅(わずか)に七国にて、皇朝其一(そのひとつ)に居る」というくだりが出てくる。漂流民の歴史に詳しい平川教授が確認、先頃開かれた研究者向けのセミナーで発表した。
「帝号を称する国」とは帝国、「王爵の国」とは王国のこと。ここで「帝号を称する(略)僅に七国」と書かれた日本以外の国々は、ムガール帝国(インド)、ロシアなどといった大国ぞろいである。
では、「帝国」と「王国」はどう違うのか。蘭学者・山村才助は『訂正増訳采覧異言』(1803年)で、「威徳隆盛にして諸邦を臣服する大国」のことを「帝国」と呼んでいる。つまり複数の王国を支配する国というわけだ。
平川教授によると、16世紀以降、来日した宣教師らによって、戦国大名が割拠し、分国を支配する日本の姿はヨーロッパに逐一報告されていた。徳川幕府が成立すると、それら「諸王」(大名)に君臨し、統括する幕府の将軍を「皇帝」とみなし、皇帝が治める日本を「帝国」とする見方が強まる。1785年に太平洋を探検したフランスのラペルーズの航海記にも日本が「帝国」と書かれている。
当時、列強の間では、「帝国」は「王国」より上の最上級の国家とみなされた。大黒屋光太夫も、ロシアでの経験として、「王国の民だと言っても誰もとりあってくれないが、私の国は帝国だというと皆、上座を譲ってくれた」と語ったとされる。
光太夫はロシア滞在中に、7回もエカテリーナ女帝に召し出されるなど、非常な厚遇を受けた。「これまでその理由がよくわからなかったが、彼が帝国の臣民とみなされたからだと考えれば納得がいく」と平川教授は語る。
「日本が中国と並ぶ世界の帝国の一つという考え方は、ロシアから帰国した大黒屋光太夫や石巻の若宮丸漂流民などによって伝えられ、19世紀には知識人の間にかなり広がっていた。漂流民がもたらした異国情報が、当時の人々の日本という国に対する自己認識の形成に大きな影響を与えた可能性もあるのでは」
菊池勇夫・宮城学院女子大教授(日本近世史)は「帝政ロシアが徳川日本を同等の帝国と認識していたとの指摘は重要だ。これを機に、世界史の中での近世日本をめぐる議論が活発になることを期待したい」と話している。(宮代栄一)