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「五月退陣」か 福田政権の断末魔(2)
2008年4月10日 文藝春秋
小沢は「武藤総裁」容認の余地を残せるよう、慎重な発言を続けていた。十二日の会見では「現実に一千兆円にも上る国債を発行しており、金融政策と密接な関係もある。財金分離という論理だけで片づけるものではないという意見もある」。
非小沢グループは不穏な動きをエスカレートさせた。早大教授・北川正恭が「次期衆院選では自民、民主両党ともまっとうなマニフェストを掲げて政権の選択肢を示せ」と旗を振り、賛同した超党派議員が立ち上げた「せんたく議員連合」が拠点である。
二十日朝、都内のホテルに各党発起人が集まった。民主党は広報委員長・野田佳彦、前政調会長・松本剛明、枝野らが勢ぞろい、「反小沢の梁山泊」の様相を呈した。姿こそ見せなかったが、代表経験者でポスト小沢をうかがう岡田克也と前原誠司までが顧問に名を連ねた。「自民党の顧問に小泉を担ぎ出そう」。小沢の大連立に対抗するこんな構想すら浮き沈みした。小沢包囲網が狭まり始めていた。うかつに福田と談合に動けば、小沢下ろしの口実を与える――小沢は党内基盤の揺らぎを実感し、身構えざるを得なかった。「民主党内政局」が日銀人事とリンクした。第二の誤算だった。
十九日のイージス艦の漁船衝突事故などで民主党は福田政権に拳を振り上げ、〇八年度予算案の衆院通過に向けた国会の地合いが怪しくなった。福田は日銀人事案の提示をためらい、大事にじっくり運ぼうとした。「何とかなりそうだ」という感触がまだ尾を引いていたからだ。
福田は日銀人事の前に、まず予算案の年度内成立を確実にするための衆院通過を急ぐ選択をした。これが第三の誤算で、かつ、致命傷となった。二月二十九日夜、民主党などが猛反発、欠席のまま与党は予算案を衆院本会議で強行採決した。翌三月一日、小沢は地元岩手県へお国入り、盛岡市のホテルで開いた党県連大会で首をかしげた。
「一週間予算成立が遅れても、国民生活には支障をきたさない。なぜ強行採決しなければならないのか。私の常識では不可解だ」
「不可解」の一言に福田との決定的なすれ違いがのぞいた。福田は道路財源の将来の一般財源化には早くから柔軟だった。だが、修正協議は民主党が主導する参院を舞台とし、時間がかかると決め込んでいたため、予算案も早く参院に送ろうとしたのだ。
小沢にとって、福田が大幅譲歩して予算修正まで踏み込むことが話し合い路線に乗る大前提だった。予算案に民主党案を「丸のみ」に近い形で反映させ、根幹部分の共同修正で〇八年度からの実現を勝ち取れば、賛成に回れる可能性も秘めていた。政権の政策を体現する本予算への賛成は事実上の与党化宣言に等しい。これこそ「政策の実現」を口実に党内の反発を抑え、大連立に道を開く最後のウルトラCだった。
予算修正は衆院でしかやりようがないのに与党は参院に舞台を移してしまった。福田の方から大連立の可能性を断ち切った。小沢はそう受け止めた。だから「不可解」だったのだ。党内基盤はガタつき、福田は打てども響かない。手詰まりの小沢は代表の座を守る方を優先し、福田への未練を捨てて対決路線に回帰せざるを得なかった。
「政府・与党との信頼関係が現時点で完全に失われた」。小沢は一日の会見で、過去にない強い調子で福田政権を非難して見せた。「福田内閣を見ていると危うい。国民のためにも早く総選挙をした方がいいし、可能性は十分ある」。
五月解散シナリオ
民主党の審議拒否で参院予算委員会の空転が一週間続いた、七日。福田は連絡が途絶えた小沢の変心をつかみきれないまま、丸腰で武藤総裁案を国会に提示した。
「何だって! 党首会談で合意するよう、裏で話がついているんじゃないのか?」
五年前、最も信頼した財務官僚の武藤を総裁含みで副総裁に任命したのは小泉である。財務省から「実は国会同意の段取りが心配で……」とご注進を受け、天を仰いだ。参院は十二日、武藤総裁案を否決した。福田は「一週間前には小沢は『武藤で構わない』と言っていたんだ」と周辺に憤怒をぶちまけたが、後の祭りだった。
小泉は十三日、チルドレン、片山さつきが地元浜松市で開いた国政報告会に乗り込むと、「首相も小沢代表も胸襟を開き、譲り合う所は譲り合い、話し合ってほしい」と手遅れなのは分かっていながらも党首会談を促した。腹心だった元秘書の飯島勲は駒沢女子大客員教授に就任、事務所には戻らない。情報ルートが細り、後手を踏んだ。
その前夜、小沢は都内の中華料理店にシンパの若手議員を招集した。「福田政権は不可解だ。何を考えているのかよく分からない」と繰り返すと、呟いた。「五月解散がありうる」。そのシナリオはこうだ。
「福田にはもはや解散に踏み切るパワーがない。追い込まれれば内閣総辞職するかもしれない。新首相になっても安倍晋三、福田から三代続いて衆院選の洗礼を経ていないのだから、早晩、解散せざるを得ない」
四月二十九日にはガソリン税の暫定税率を与党が衆院で再議決して元に戻す「増税」の環境が整うが、二十七日投開票の衆院山口二区補欠選挙で民主党が勝てば、福田の命脈はそこでほぼ尽きる。それでも「増税」で押し切るなら、参院で首相問責決議を突き付け、退陣に追い込む。新首相は「ご祝儀相場」を当て込んで五月解散に打って出て、いよいよ天下分け目の決戦となる――小沢は福田倒閣を宣言したのである。
なおも福田の迷走は続いた。「福井続投」は民主党が門前払い、「奥田総裁−武藤副総裁」案は奥田が断った。秘書官も外し、携帯電話でコソコソ集めた「武藤以外なら誰でもいい、と非小沢系幹部が確約した」「参院で国民新党、無所属+民主党からも造反が出る」など断片情報に依存した末路が、財務省さえ「ひいきの引き倒しだ」とあ然とした十八日の「田波総裁」案だった。
ポスト福田政局は臨戦態勢に入った。一番手の前幹事長・麻生太郎擁立に水面下で動く安倍を元首相・森喜朗と中川はしつこく口説き町村派に復帰させた。若手に影響力を保つ安倍にタガをはめる一方、派閥丸ごと麻生を担ぐ選択肢への布石でもある。
古賀派と谷垣派は十三日、「中宏池会」への合流総会を催した。会長は数を固め政局のキャスチングボートをうかがう古賀。安倍と気脈を通じ、麻生も軍師と頼む選対副委員長・菅義偉には「誰も総裁候補を谷垣に決めたなんて言っていない。誰を担ぐかはその時の話だ。俺だって麻生を担ぐかも知れないんだから」と気配りも見せる。
一月、麻生と中川の手打ちを仲介した菅は、近年、折り合いの悪い麻生と古賀の狭間にも立つ。この和解を演出できるか否かが、麻生の政権取りへの道筋を固めるうえでカギに浮上した。もう一人、じわりと擁立論が広がるのは与謝野だ。その与謝野には、安倍改造内閣で幹事長と官房長官で連携した誼(よしみ)で麻生自身が「もう一度、組もう」とけん制と懐柔に躍起になっていた。
三月中旬の党代議士会。着席した古賀に麻生がにこやかに歩み寄り、話しかけた。座ったまま幾度も頷く古賀。麻生が離れ、次に与謝野が隣に来て挨拶すると、古賀はすっくと立ち上がり、深々と一礼して見せた。微妙な人間模様と思惑が交錯した一瞬。神経戦は本格化している。(文中敬称略)