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http://www.chunichi.co.jp/article/gifu/20080209/CK2008020902086177.html
佐藤ゆかり議員の2年半<上> 支持基盤広がらず
2008年2月9日
小泉純一郎首相(当時)(左)の応援を受ける佐藤ゆかり氏。中央は松田岩夫氏=2005年9月、岐阜市内で
自民党の野田聖子元郵政相と佐藤ゆかり衆院議員(比例東海)が保守を二分して公認を争った“岐阜の乱”は、佐藤氏が東京5区に転出することで決着した。「岐阜県に嫁ぐような思いで」。2005年8月、佐藤氏は縁もゆかりもない岐阜の地で政治家人生を全うする決意をにじませた。それからわずか2年半。佐藤氏の足跡を追った。
「党人として党の決めたことは筋をもって受け止めます」。自民党本部で8日、野田氏と並んで会見に臨んだ佐藤氏。党本部の裁定に不満はのぞかせず、調整に骨を折った関係者への感謝の言葉をしきりに口にした。
党本部は野田氏を「勝てる候補」として岐阜1区の公認に選んだ。県議時代から約20年間、岐阜市で活動を続け、後援会員は1万人に達した。市内の49校区ごとに後援会支部を持ち、秘書がこまめに支持者を回って地盤を固めてきた。
2005年の総選挙で佐藤氏は8万1189票を獲得。野田氏に1万5000票差まで迫った。本社の出口調査では自民支持者の6割近くが佐藤氏を支持。複数の自民関係者は、県議や市議の支援に加え「松田さん(松田岩夫参院議員)の力が大きかった」と口をそろえる。
1996年の総選挙で当時新進党だった松田氏は野田氏に約4000票差で敗れた。松田氏の有力な支持者の男性は「佐藤さんが来て、松田対野田の戦いが再燃した」と当時の様子を振り返る。岐阜市のある議員は「松田さんから直接、佐藤さんを支持するよう頼まれた」と打ち明けた。
佐藤氏は岐阜入りから1カ月足らずで野田氏の強固な地盤に風穴を開けたかに見えた。しかし、自前の組織づくりは進まなかった。松田氏のつてで佐藤氏の後援会長を引き受けた市内の経営者男性は選挙後しばらくして辞任。「(佐藤氏は比例区名簿1位で)当選が決まっていたし、頼まれてやっただけ。(東京5区転出について)コメントはない」と口を閉ざす。
後任には市内の会社社長らの名前が挙がったが、いずれも固辞した。野田氏の後援会長は地元を代表するコンクリート会社社長。佐藤氏の関係者は「後援会長は議員の代わりに矢面に立つこともある。誰も火中のクリを拾おうとしなかった」とため息をついた。06年の佐藤ゆかり後援会の収支報告書では、代表者の欄に東京の秘書の名前が記されている。
野田氏のように佐藤氏も市内の49校区ごとに後援会組織を立ち上げようとしたが、できたのは7校区ほど。10校区程度は準備中だ。後援会員は5000人を超えているが、野田氏の半分。最近まで、秘書もなかなか定着しなかった。
小泉純一郎元首相が送り込み、“刺客”と呼ばれた佐藤氏は「私が支部長で、次期衆院選の公認予定者」と訴え、地元をまとめようとした。佐藤、野田の両氏を間近で見てきた党岐阜市支部幹部は「党本部の威光を振りかざしている印象を与え、反発を招いた」と指摘。「肝心の本人が何を考えているのか伝わらなかった。『私も仲間に入れてほしい』と言えればよかったのに。都会的な魅力はあるが、地方ではなじまない」と漏らした。
06年12月に野田氏が復党してからは岐阜市議も距離を置き、今や佐藤氏だけを支持する自民市議は24人のうち3人になった。その1人は東京5区への国替えが決まり、失意を込めてつぶやいた。「党本部の応援がなければ、もうどうしようもない」
(岐阜1区問題取材班)