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深夜にNHKの生中継で放送されたオバマ新大統領の就任演説を録画再生して二度ほど見た。ネット上には新聞社が演説を日本語訳して掲載している。おそらく演説原稿が先に外国のプレスに渡されて訳が出来上がっていたのだろう。ぶっつけ本番の同時通訳では、とてもあれほどの精度は出せないように思われる。例によって演説のスピードはどんどん速くなり、追いかける同時通訳も早口になって行った。最近の米国人は早口で、単位時間あたりに吐き出す単語量が多い。そして、ネットに上がっている新聞社の訳文よりもNHKの同時通訳の日本語の方が精度が高く、オリジナルの演説の格調の高さをよく出していた。翻訳した人間の英語能力の差が出ている。格調の高さは、独立革命の逸話に触れた最後の締めの件で一気に盛り上がり、歴史を回想させて米国人の自己認識と自己確信を呼び覚ます手法は、11月のシカゴの選挙戦勝利演説を思い起こさせるものだった。
演説は構成とメッセージが練り上げられていて、完成度が高く、現時点の国民の問題意識に答えて課題と指導を説きながら、しかも歴史に残る内容になる配慮が計算されていた。それは期待を十分に満足させるものだったと言える。しかし、私は聞きながら、11月のグラントパークの演説を聞いたときほどの感動や興奮は覚えなかった。それは何故かと言うと、いろいろ理由はあるが、その最大のものはパレスチナ問題に関する引っかかりの気分である。結局、オバマ大統領の就任までの3週間に、ガザでは1315人のパレスチナ人が虐殺され、そのうち417人が子供の犠牲という凄惨な事件になった。これは何なのだろうか。イスラエルが米国の新大統領の就任を祝賀して捧げた血の生贄だということだろうか。そう思えというのだろうか。イスラエルのガザ空爆が始まったとき、オバマはハワイのゴルフ場でクリスマス明けの年末休暇を楽しんでいた。イスラエルの戦争犯罪の蛮行を止めなかった。
戦争と悲劇を止める指導者としての能力と責任がありながら、就任式までの3週間の間、ガザを血の海にして、パレスチナの子供の無残な遺体を積み上げるに任せた。オバマ新大統領の就任式は、罪もなくイスラエルに虐殺されたガザの子供たちの血で祝福されている。どうしてそのような就任式を祝祭の気分で見れるのか。彼らは、イスラエル軍の白リン弾攻撃で残酷に焼き殺される前、きっと思っていたはずだ。有色人種で人権派弁護士の新大統領が米国で就任すれば、中東和平にも微かな希望の光が射すに違いないと。ブッシュが退陣して米国の中東外交に変化が起きれば、無権利の牢獄状態の環境に置かれ、生きながらイスラエルに生殺しにされているガザの住民にも、僅かに生きる希望が見える見えるかも知れないと。そう思っていたはずだ。だが、子供417人を含む1315人のパレスチナ人は、その新大統領の就任式を見ることなく殺されて死んでいった。ハマス側の発表では、ハマス戦闘員のボディカウントは48人にすぎない(イスラエル軍発表では500人)。それでは、残りの1267人の死は何なのか。
オバマは、ガザでジェノサイドが行われている間、中東問題については何も言わず、同じ元人権派弁護士であるヒラリーにも何も言わせなかった。この儀式はガザの子供の血で準備され祭壇されたものだ。歴史にはそのことが必ず記されるだろう。オバマの不作為の戦争責任が必ず問われるだろう。サイードが生きていたら、オバマとヒラリーの「人権」の欺瞞を告発し、就任演説で高らかに謳った「希望と美徳」や「自由」や「平和」の偽善を非難しただろう。417 人の子供の血で代償された歴史的な就任式は満足だったのか。その問いにオバマ大統領が答える日はないだろうが、就任演説の中にも気になる部分はあった。米国の国際的立場を言うにおいて、殊更にイスラム世界の国々を対立的な相手として構図を描き出し、特にイランやヒズボラやタリバンが念頭にあるのだろうが、彼らに対して挑発的な言辞を並べている点である。その前段では、米国は多宗教の国だからこそ強みがあると言いながら、イスラム教世界に対しては敵対的な姿勢を敢えて言い挙げている。これは米国に住むイスラム教徒にとっては納得できない点だろう。
矛盾している。オバマの演説を聴きながら思うことは、米国民に変革を説きながら、その変革に限界があることである。ブッシュ政権の政策からの転換を言いつつ、ブッシュ政権の政策を媒介した米国の独善的で超越的な思想性については本質的な問い直しをしない。結局のところは、歴史に根拠づけながら、米国の判断と行動を全面肯定している。これで本当に米国が変わることができるのだろうかと、外から見る私には疑問に映る。何が否定されるのか。何も否定されないのなら、ブッシュ政権のままと同じではないか。演説の中では、ベトナム戦争も正当化されていたし、冷戦も正当化され、共産主義という敵を倒した米国の正義が称揚されていた。確かに、米国の現代史は、アトランタに住む106歳の黒人女性が公民権を獲得し、人間を月に着陸させて歩行させた科学技術の歴史である。だが同時に、普通に暮らしている広島長崎の数十万の市民の上に原爆を落として数千度の熱で焼き殺した歴史であり、またベトナムに枯葉剤を撒布して大量の奇形児を発生させた悪魔の歴史でもある。その点の認識が完全に欠落していて、選民思想のような自己肯定の思想しかない。
自己の反省や対象化の契機がない。米国だからそれが自然だろうという見方はある。だが、それでは本質的なところで再生や自己変革を導く踏み台を築けないのではないか。私の観点だが、ルーズベルトのニューディール政策は、明らかに資本主義の修正であり、公共政府が市場に規制をかけ、国民に社会保障を提供して中産階級を創建する政策である。この政策の性格づけをめぐっては、これまでも論議があったし、今後も論議され続けるだろうが、新自由主義系の論者たちからは、ケインズ主義は社会主義的だと言われ、ニューディール政策もその立場から批判されることが多い。片山さつき議員のように骨まで新自由主義の構造改革論者にとっては、小泉竹中以前の自民党政権は社会民主主義だったという話になる。ルーズベルトの政策判断は、これまでの米国の路線を大きく転換するもので、言わば自己否定を伴う自己変革だったと言える。そこには、眼前に理念としての社会主義があり、理論モデルとしての福祉国家(修正資本主義)があった。大統領就任演説でルーズベルトが何を言ったか言わなかったかではなく、政策決定の思想の中に反省や自己変革の契機があっただろうという点に注目したいのである。
例えば環境問題がある。オバマは環境問題への取組みで米国が遅れている点を認め、特に技術や産業の面で欧州や日本をキャッチアップする姿勢を示している。だが、環境問題への取組みというのは、単にCO2の排出量を減らすという目標だけでなく、その以前に、自然と人間に対する根本的な思想という問題があるはずで、弱肉強食ではなく共生共棲の考え方で人間と自然を見るとか、自然や他の人間を単に自己の欲望を満足させるために服従させる対象と考えるかどうかというような大きな問題があるはずだ。環境問題について、日本や欧州が米国より前向きで先進的であったとすれば、それは単に産業政策とか経済政策のレベルの問題ではなく、もっと深い人間観とか世界観と言ったような哲学に根ざした領域があったはずである。米国が環境問題で世界のイニシアティブを取ろうとするのなら、従来の米国的な価値観そのものをトータルに改造する必要があるのではないか。大量消費万能礼賛の生き方を根本的に変える必要がある。安直で絶対的な自己肯定の態度から離れて、自分たちの存在と歴史を相対化する必要がある。そこまで踏み出さない限り、米国経済の再生もなく、米国の再生を国民が担うということはないと思われる。
昨夜(11/20)、報道ステーションで、米国の電気自動車のリチウム電池開発の特集をやっていたが、米国が国家主導で国際標準規格を作り、それを日本や韓国に押しつけようというやり方は、まさにクリントン時代の対日路線そのものの再版であり、日米半導体協定以降の路線の延長である。クリントン路線の再来では米国経済はこの不況を克服できないだろう。
http://critic5.exblog.jp/10228037/#10228037_1