バラク・オバマと黒人解放闘争(下) 彼が語る変革は多国籍企業の利益に奉仕する変革である トム・バレット 産業の歴史とブ ラック・コード 一八六五年の奴隷廃止は、南部の農業における安価な労働力の必要性を取り除かなかった。繊維工場は奴隷制度が廃止される以前に安値な綿花を必要としていたのとまったく同様に、奴隷制度が廃止されてからもそれを必要としていた。 一八八〇年代と九〇年代に、南部諸州の州議会は、「ジム・クロウ」(黒人隔離)として知られるようになった隔離システムである「ブラック・コード」(黒人条項)を発布した。その目的は、アフリカ系アメリカ人をほとんど中世の農奴のように綿花畑に縛りつけ、彼らの解放につながる可能性のあるあらゆる政治的パワーを剥奪することにあった。白人優位を持続させるこのシステムは、一九五〇年代〜六〇年代まで実施されていた。 二十世紀の初頭から公民権運動が勇敢に闘われてきたにもかかわらず、南部の農業が広範囲に機械化され、安価な黒人労働力がそれほど必要とされなくなったのは第二次大戦後になってからだった。そこで連邦政府が、自らの目的のために、市民権運動の側に立って介入することになったのである。こうしたことが起こったのはバラク・オバマが生まれてからのことである。これは遠い昔の話ではない。 レイシズム(「人種差別」)のこの側面、すなわちアメリカ資本主義の形成にあたって担ったその中心的・歴史的役割は、「人種」についてのオバマの「議論」の中では完全に欠落していた。彼は、その代わりに皮膚の色への偏見に焦点を据えた。もちろんそれが重大な問題であることは確かだが、それは経済に基礎づけられたレイシズムから発生したものなのである。 経済に基礎づけられたレイシズムは、必ずしもアフリカ系アメリカ人への白人たちの憎しみを含むものではない――黒人の一般大衆が自らの位置をわきまえているかぎりは! 奴隷の主人たちがいかに「ダーキー(黒人への蔑称)を愛していた」かについての考え方を知るためには、マーガレット・ミッチェルの自己正当化の書である『風と共に去りぬ』を読むだけで十分である。今日に至るまで、レイシズムについての南部の擁護論者は、当時の「人種差別」廃止論者から今日の市民権活動家にいたるまで「北部の連中」が南部のやり方を決して理解しなかったと語り、黒人が北部の都市で直面する「上品な」(すなわち見下すような)感情を伴った激しい憎悪と、南部の上流階級の黒人のメイドや庭師たちへの扱い方とを対照させている。 彼らが次のように言うのには、いささかの真実が含まれている。 「たとえば一九七四年にボストンで爆発したようなもの以上に悪質な『人種』憎悪を思い描くことはむずかしい。それは決してこの町に特有のものではなかった」。 労働者の連帯こ そ偏見の解毒剤 レイシズムは、地域の資本主義経済が必要とする、特定の職業への安価な労働力の需要に根ざしている。皮膚の色への偏見は、根本的には職をめぐる黒人と移民(あるいはその子孫)の間の競争に根ざしている。 一八四〇年までに、多くの都市、とりわけメリーランド州のボルティモアからルイジアナ州のニューオリンズに至る南部諸州の沿岸地帯に沿って、解放黒人の重要なコミュニティーが存在していた。多くの職業が彼らのものだった。例えばボルティモアの造船所では、漏水防止は解放黒人の仕事だった(フレデリック・ダグラスも短期間ボルティモアの造船所で漏水防止工として働いていた)。ジャガイモ飢饉から逃れたアイルランド移民がこれら多くの都市にやって来て、工場の入り口に「アイルランド人お断り」と書かれているのを見たとき、そこで働いていたのは多くの場合解放黒人だった。 経営者階級は、それ以来ずっと職と経済的地位をめぐる「人種」的競争を利用し、白人のストライキ参加者の代替として黒人労働者を使い、「ジム・クロウ」(黒人隔離)制度に挑戦する黒人に対する暴力を行使するために南部の白人を利用してきた。しかし初期の共産党は、労働組合内での白人労働者の「人種」憎悪と闘うことに成功した。一九三〇年代と四〇年代には、経営者階級は、それまで見たことがなかったような労働者の決起を打ち負かすために「人種」間の競争を利用することができなかった。 マッカーシー時代以後、労働組合運動におけるラディカルな指導部は壊滅させられたが、北部諸州での職業・住居差別に対する公民権運動の闘いに対抗するために、白人レイシズムが舞い戻ってきた。 事実は次のことを示している。戦闘的な労働者の連帯こそ「人種」的偏見の毒に対する唯一かつ真実の解毒剤である、ということを。しかしそうした話をバラク・オバマから聞くことはない。ますます不利になった経済状況の中で闘っている白人労働者の誤った敵意の発露を知ったオバマが与えることができる唯一の回答は、温情主義的でリベラルなものである。主人たちのテーブルからもう少しのパン屑を、だ。どんな愚者でも、こうしたパン屑をめぐる競争が「人種」間の緊張を低めるのではなく、高めるだろうと予言できる時に、こうした回答はおよそ不十分なものだ。 したがってオバマは、白人の偏見という問題に完全に不適切な回答を行っているのであり、アメリカ資本主義の基礎の核心的部分を形成しているレイシズムについてまったく分かっていないのである。そしてこの演説は、米国内の「人種」問題についての真剣な討論として称賛を浴びるのだろうか。 イラク過激派 と米国の援助 ライト師は、グレナダ、パナマ、イラクへの軍事行動、さらには一九四五年のヒロシマ、ナガサキへの原爆投下を例に挙げながら、米国の帝国主義的対外政策への批判を能弁に語った。彼は、南アフリカの黒人、パレスチナのアラブ人への「国家テロ」に対する米国政府の支援を批判した。 ライト師はすべての点で正しかった。正義のためには、われわれがこうした犯罪に反対して発言することが必要なのであり、全世界での帝国主義の最終的敗北ぬきには、永続的平和はないのだ。しかしバラク・オバマは、ライト師をめぐるこの問題を取り上げてイスラエルのアパルトヘイト国家を「信頼できる同盟国」と描きだし、中東での紛争を「イスラム過激派の邪悪で憎悪に満ちたイデオロギー」によるものと非難しているのである。 オバマがこうした声明を発することができるのは、中東全体の紛争とこの地域における米国の介入の歴史について全く無知であるか、シニカルな政治家が信じているように見受けられるのと同様の、世界についての貧しい記憶と理解しかアメリカ国民が持っていないと嘘をつき、そのように希望しているためである。 一九七九年のイラン革命と同年の「人質危機」以来、そしてとりわけ二〇〇一年の「9・11」事件以来、人びとが予想しうるあらゆる錯乱、不誠実、軍事的「愛国主義」を伴って、「イスラム過激派」が「共産主義」に替わる「敵」として登場した。しかしその「イスラム過激派」は、シオニズムとパレスチナのアラブ人との紛争の中で、どのような役割を果たしたのだろうか。実際のところごく最近に至るまで、その役割は小さかった。 パレスチナ人の多数はイスラム教徒であるが、圧倒的多数派というわけではない。かなりの数のキリスト教徒がおり、パレスチナ抵抗運動の中心的指導部の一部もそうである。彼らはキリスト教徒コミュニティー出身であり、その中にはパレスチナ解放人民戦線(PFLP)創設者として尊敬されているジョージ・ハバシュも含まれている。一九六八年、アル・ファタハのヤシール・アラファトに率いられたパレスチナ解放機構(PLO)は、パレスチナ国民憲章を採択したが、その目標は、ユダヤ人、キリスト教徒、イスラム教徒が平等の権利と責任を持つ「民主的政教分離国家」をパレスチナに設立することだった。 シオニスト―パレスチナ紛争で「イスラム過激派」と結びついた組織はハマスであり、ハマスはパレスチナ国民憲章が採択されてから二十年後の一九八〇年代後半、第一次インティファーダの時期にガザ地峡で形成されはじめたのである。ガザ以外では、何が進行していたかを知っていた人びとはきわめて少なかった。 しかし私は、パレスチナのアラブ人とイスラエルのユダヤ人の反シオニスト連合であるオルタナティブ情報センター(AIC)で活動している若いパレスチナのアラブ人から、イスラエルがガザで「ムスリム兄弟団」に財政支援をしているという報告を受けたことがある。彼は、イスラエルがパレスチナ解放機構への対抗として保守的な宗教組織――したがって反共主義的な――を創設しようと試みていると報告した。 それは米国の政策とも一致するものだった。CIAと米国の他の情報機関は、アフガニスタンの最も反動的なイスラム勢力に対し、アフガンの左派政権やそれを支持するソ連軍と戦わせるために、資金と武器を提供していた。イスラム反共勢力の指導者の一人が、ウサマ・ビンラディンであり、彼は自分の家族のかなりの資産を、サウジアラビアに拠点を置くイスラム教ワッハーブ派に忠実な戦士たちのネットワークづくりのために使っていた。彼はこのネットワークをアラビア語で「アルカイダ」と名づけた。 イスラエルとパレスチナのアラブ人との対立だけではなく、レバノン、シリア、ヨルダン、エジプトでも「イスラム過激派」は、帝国主義の外交政策の手段としてイスラエルと米国の支援の下で発展した。このことはおそらくバラク・オバマにとって「ニュース」ではない。ジョージ・ブッシュは無知だったかも知れないが、オバマはそんなことはないと思う人もいるだろう。いや、私はオバマが彼の選挙運動を支援しているアフリカ系アメリカ人や青年たちにシニカルに嘘をつき、経営者たちに対して自分が彼ら経営者たちの利益に忠実だというシグナルを送っているのだと思う。 不適切な「信頼 できる同盟国」 それとは対照的に、ワシントンの「信頼できる同盟国」であるイスラエルは、第一次大戦直後――そう、第二次ではなく第一次である――の時期から、中東における暴力的紛争の原因だった。初めはパレスチナのアラブ人から歓迎されていたシオニスト入植者は、彼らが初期の入植のための土地を確保することができるや直ちに、民族浄化のプロセスを開始した。彼らは不在地主から土地を購入し、借地農としてその土地を耕していた農民を追放した。土地を奪われた「ファリャヒーン」たちは反撃し、一九三〇年代には幾千人もの英国軍が秩序維持のためにパレスチナに送られた。 一九三〇年代から四〇年代にかけて、シオニストたちはキング・デービッドホテルの爆破やデール・ヤシンの民間人虐殺など、テロ行動を遂行した。それは将来のイスラエルの領土で、望まれない土着のアラブ人を一掃する作戦の一部であった。 ひとたびイスラエル国家が創設されるや、国境内のアラブ人は、公民権以前の南部のアフリカ系アメリカ人や、南アフリカの土着のアフリカ黒人と同様の第二級市民の地位に従属させられた。実際、イスラエルと南アフリカは、イスラエル建国の初期から始まる密接な関係を維持してきた。南アフリカは、そのユダヤ系市民に対して南アの市民権を失うことなくイスラエル軍に入って戦うことを認め、最初の十年間の主な輸出品が切削ダイヤモンドだったイスラエルは、南アのダイアモンド原石の主要な購入国だった。一九六七年の六日間戦争の時の外相だったアバ・エバンは南アの出身だった。 南アフリカのアパルトヘイト制度は一九九四年に終わったが、それはイスラエル国家で今日も続いており、アラブ人は検問、水の制限、さらには住む家も破壊されるという状態を強制されている。トリニティー・ユナイテッドキリスト教会のメンバーであるバラク・オバマがこの状況を知らないはずはない。彼が知っていながらイスラエルは「信頼できる同盟国」だという不適切な声明を発することができるのならば、彼はイスラエルの行動を支持していると結論づけることができるだろう。 ライト牧師と オバマの違い
もしバラク・オバマが大統領に選ばれたならば、彼は当然にも約束した「変革」をもたらすかもしれない。しかし国内でも国外でも勤労人民の利益にかなう変革ではないだろう。それはアフリカ系アメリカ人、ラティーノ、あるいはアメリカ先住民の利益のための変革ではない。彼が語っている変革とは、大企業が利益を上げる能力を擁護するために政府をより効率的にするための変革である。彼が追求している変革は、労働者が低い生活水準を受け入れ、有色民族が権利と「国益」――それが真に意味するのは多国籍大企業の巨額の利益なのだが――への機会の平等をあきらめて階級と「人種」間の平和をもたらすようなものである。 二〇〇八年の選挙で真に討論されるべきは、オバマと同様にジョン・マケインやヒラリー・クリントンが支持するようなたぐいの変革ではない。現実の問題は、資本家に利益となる変革をもたらすことができるにはどの候補がベストなのか、ということではないのか。そしてバラク・オバマがフィラデルフィアで行った「人種」についての演説は、彼がそれにふさわしい候補であることを示す好例なのだ。 ジェレミア・ライトは、数十年間にわたって米国の最も抑圧されたコミュニティーの一つのために、貧困、犯罪、警察の暴虐、ドラッグ中毒、HIV―エイズのような恐ろしい病の影響に苦しんできた人びとのために教会を運営してきた。彼は、一貫して見てきたことの真実を説教してきたし、個人と家族のレベルでの公共サービスのために献身してきた。すべてが語られ、なされ、帳簿に記録された時、バラク・オバマよりも多くの奉仕を行ったのはライト師であるという事実が他の人びとに対して示されるだろう。たとえオバマがすでに大きな権力に上り詰め、さらに地球上で最も強大な政権の座に上ろうともである。 イエス・キリストの言葉とされる「マルコによる福音書」8:35―36は次のように述べている。 「自分の命を救おうとする者はそれを失い、私のため、また福音のために自分の命を失う者は、それを救うであろう。人が全世界をもうけても、自分の命を損したら、なんの得になろうか」。 ライト師はこのモラル的原則に立ち返り、彼が見てきたことの真実を告げるために最善をつくした。彼は善き人として記憶されるだろう。 (「レイバー・スタンダード」ウェブサイトより)
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