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http://business.nikkeibp.co.jp/article/topics/20080310/149475/?P=1
危機感駆動型ニッポンの危機!?【ネガティブなニュースの濁流に流されるな】---(日経NB)
2008年3月12日 水曜日 竹中 正治
2003年、米国ワシントンDCに赴任し、DCに隣接するメリーランド州のカーディーラーで自動車を買った時のことである。
購入してから2〜3日後に自動車メーカーから顧客満足度アンケート(Customer Satisfaction Survey)にご協力くださいと電話がかかってきた。
販売店のサービスに対する購入者の満足度を調査するものである。
諸項目について「素晴らしい(Excellent)」「とても良い(Very Good)」「良い(Good)」「普通(Fair)」「不満足(Unsatisfactory)」の5段階評価で選べと言う。
普通に満足していたので「とても良い」と「良い」を中心に「素晴らしい」も少し交ぜて回答した。
○褒める米国、けなす日本
1〜2週間してから、販売店の営業担当者から私に電話があり、「買った車に何か問題がありますか?」と聞かれた。
「問題ないよ。新しい車を楽しんでいるよ」と答えると、「それじゃ、満足度調査でどうしてあんなに悪い評価をくれたのですか?」と言う。
「悪い評価なんて回答してないよ。おおむね“とても良い”と“良い”で答えたよ」と言うと、「あんた! そりゃひどいスコアってことだよ」と愚痴られた。
「素晴らしい(Excellent)」以外は「問題あり」のバッドスコアなのだそうだ。
だが、日本人はよほど感動でもしない限り「素晴らしい」なんて言わない。
これは顧客満足度調査に限った話ではない。
学校で先生が生徒を指導する時も米国では「Excellent! Great! Perfect!」の連発である。
ゴルフ練習場でもお父さんが小学生の息子にクラブを振らせて、ちょっとでもボールが前に転がれば、「Excellent! Great! Perfect!」を連発している。
日本人だったら上手にできても「よくできた(Well done.)」でおしまいだ。
米国で数年育った帰国子女が日本の学校でよく感じる不満は、「学校の先生が全然褒めてくれない」ことだという。
これは企業でも同じであり、海外の日系企業で日本人上司と部下の米国人の間で相互不理解の原因によくなる。
日本人上司は米国人スタッフの勤務態度や実績に特に問題を感じていない場合でも、米国人スタッフは「日本人上司が自分のことを全く評価してくれていない」と感じて不満を鬱積させる。
○「危機感が足りないぞ、おまえ!」と子供に言う異様さ
要するに米国人は相手のパフォーマンスを評価する立場にある場合、ポジティブな表現に気前が良く、日本人は極めて禁欲的である。その反対にネガティブな表現を米国人はあまり使わない。
最悪でも「OK」であり、それ以下の表現は相手と喧嘩する(あるいは部下ならクビにする)つもりでなければ普通は使わない。
米国映画を見ていると頻繁に「fuck you」なんて台詞が出てくるので、米国人は気軽に罵り合うようなイメージを抱いているとすれば、それはちょっと違うのだ。
一方、日本人の方が職場や教育現場でもネガティブな表現を気軽に使う。
学校の先生が勉強の足りない受験生に「危機感が足りないぞ、おまえ!」なんて言うのは常套句だろう。
表現に関する文化的な違いと言ってしまえばそれまでであるが、どうも根がもっと深いのではないだろうか。
日本人の某教育アドバイザーがある雑誌で、生徒の親と面談した時のことをこう書いていた。
「自分の子供の良いところを3点挙げてくださいと言うと、困ってしまって真剣に考え込む母親が多い。反対に良くない点を挙げてくださいと言うと、自信あり気にスラスラと答える。 困ったものだ。お母さんにはもっと子供をポジティブに見る眼と言葉を持って欲しい。それが子供の内発的な動機を高め、向上感、有能感、他者受容感、自尊感情を育てることになる」
○「危機」「崩壊」の文字で溢れ返る日本の経済誌
最近の日本の経済誌の表紙を思い出してみていただきたい。「危機」「崩壊」などの見出しがなんと多いことか。
そこで実際に数えて比較してみた。
日本の週刊経済誌(エコノミスト、東洋経済、ダイヤモンド)と米国のBusiness WeekとTIMEの2007年1年間の表紙の見出しから、明らかにポジティブ、ネガティブと分類できる用語を拾った。
日本の雑誌からはネガティブ用語が73、ポジティブ用語が23で、割合は76%対24%となり、圧倒的にネガティブ用語に傾斜している。
一方、米週刊誌からはネガティブが32、ポジティブが25で、割合は56%対44%となり、ネガティブ用語がやや優勢だがおおむねバランスしている。
日本の雑誌で最も頻繁に登場したネガティブ用語は、「崩壊」が9つ、「バブル」が8つ、「危機」が8つである。
一方、米国では「crisis」が3回登場したほかには、頻繁に繰り返されるネガティブ用語は見当たらなかった。
もちろん「危機」も「crisis」も2007年に顕在化した米国のサブプライムローン(信用力の低い個人向け住宅融資)危機に絡んで用いられている場合が多い。
おっと、うっかり! 肝心の日経ビジネスを数えるのを忘れていた。
数えてみて驚いた。日経ビジネス(本誌)だけは、ネガティブ用語36%、ポジティブ用語64%で比率が逆転している。
ポジティブトーン、私は好きだ。しかし日本のカルチャーの中では一歩間違えると「能天気」と言われかねない。
日本のメディアは「危機」や「崩壊」などのネガティブ用語を多用して世間の雰囲気を悲観的な方向に傾斜させている──などと言うつもりはない。
私はメディアの編集者らが日本人読者の強く反応しそうな用語を選んでいる結果に過ぎないと思う。
日米を問わず、一般にメディアは良いニュースよりも悪いニュースに紙面を割き、センセーショナルに報道する傾向がある。
これはメディアの偏向と言うよりも、ある程度までは、良いニュースよりも悪いニュースにより敏感に反応する傾向が人間(読者、視聴者)にある結果だと思う。
○悪いニュースを求めるのは生き延びるための本能?
行動ファイナンスの研究によると、人間にとって「損」と「益」に対する感覚は対称的ではない。
損が生じる苦痛は同額の益が生じる喜びを上回ることが実験で確認されている。
これから類推すると、悪い情報と良い情報についても、同様に人間の感覚は非対称的のように思える。
これは、進化──淘汰と適応──の結果生じた人間の性向だと考えると納得できる。
特定の場所に「実をつけた木がある」という情報(良いニュース)と「捕食動物がいる」という情報(悪いニュース)のどちらに強く反応する性向の方が生き延びる確率が高くなるだろうか。
「木の実情報」を聞きもらせば、食べ損ねるだろうが、すぐに餓死するわけではない。一方、「捕食動物情報」を聞きもらせば、今にも襲われて死ぬ確率がぐんと高くなる。
しかし、米国人より日本人が「危機」に代表されるネガティブ表現を好むのはどうしてだろうか。
○「危機感駆動型」の日本と「希望駆動型」の米国
この違いを類型化すると、日本人に多い類型は「危機感駆動型」であると言える。
「このままではお前(日本)はダメになる!」「危機だ!」と言われると強く反応して動き出すわけである。
一方、米国人に多い類型は「希望駆動型」である。
「できるじゃないか!」「ステップアップできるぞ!」と励まされると強く反応して動く。こうして考えると、日米の様々な違いが説明できる。
例えば、米国のエコノミストには毎度楽観的な見通しを言う連中がなぜこうも多いのか。
反対に日本のエコノミストには、どうして「危機の預言者」みたいな連中がわんさといるのか。
日本の歴代首相や政治家は、まず危機感の強調から始まるタイプが多い。
「日本はこのままではダメになる!」方式だ。一方、米国の大統領、政治リーダーたちはどんな困難な状況でもまず希望を語ることから始める。
「私のリーダーシップを受け入れるならば、難局は打開できる」と、まず希望を語るのが米国のリーダーの資質だ。
「危機・没落に直面しているのだから構造転換(改革)しないと日本はダメになる」なんて議論は、戦後を通じて何度も形を変えて繰り返されてきた。
1960年代から70年代初頭に東京大学のマルクス経済学者らによって編集・発刊された代表的なシリーズは「日本資本主義の没落」である。
高度経済成長の真っ只中で「没落」を強調する感性はピント外れを通り越して、超先見性とでも呼んだらよいのか。
○臥薪嘗胆、富国強兵、輸出立国に共通する危機感のエートス
なぜ日本で「危機感駆動型」が主流になったのか。
実証的に語ることは難しいので、これは筆者の空想的な仮説に過ぎないが、日本のたどった現代の歴史的な環境、「生い立ち」に負うところが大きいのかもしれない。
幕末、明治の日本人を駆動したのは危機感だった。
幕末の攘夷論に始まり、明治には「臥薪嘗胆、富国強兵で欧米列強に伍していかねば、日本は立ち行かなくなる」という強烈な危機感をバネに展開してきた。
「臥薪嘗胆」や「富国強兵」は中学の歴史の教科書で習い、私自身の心にも深く刻まれた。
戦後の日本経済の「輸出立国」もやはり危機感駆動型を下地にしたものだ。
「日本は天然資源の乏しい小さな島国。だから資源を輸入して高品質の製品を製造、輸出して外貨を稼がなくては経済が立ち行かなくなる」
これは戦後の日本人の多くが共有した一種の「教条化された危機感」である。「臥薪嘗胆、富国強兵」は「輸出振興、高度成長」に代わったが、下地にあるエートスは同じ「危機感」である。
一方、米国は欧州で食いはぐれ、あるいは宗教的に迫害された人たちが「新大陸での希望」に賭けて移民してできた社会だ。
16世紀には北米の植民者の半分ほどが最初の厳しい冬を越えることができずに死んだと言われるが、それでも彼らを突き動かしたのは「危機感」ではなく、「希望」だった。
東海岸地域であぶれた人たちも、西部・フロンティアへの希望に導かれて西海岸まで広がった。
カリフォルニアのゴールドラッシュは、そうしたフロンティアでの希望の実現を象徴する出来事だったのだろう。
地理的なフロンティアが消滅しても、新ビジネスや技術開発がもたらすフロンティアの希望に駆られて走り続けてきた。
現在でも、毎年不法入国も含むと100万人近い移民が「職を得る希望」に導かれて米国に流入する。
○「危機感駆動型アプローチ」では日本は良くならない
ともあれ、危機感をバネにすることでしか変革できない性分ならば、「危機」や「没落」を強調する今日の風潮も、日本的な変革志向の一環ということになるのだろうか。
しかし、どうも今日の日本で語られる「危機論」や「このままでは没落する論」は変革機運に結びついているというよりも、むしろ自己暗示的な自縛や閉塞を生んでしまっているような気がしてならない。
日本が今日直面している1つの問題は「危機感駆動型アプローチ」の限界それ自体なのではなかろうか。
危機感駆動型の限界は「喉元過ぎれば熱さを忘れる」ことにある。
幕末の西欧列強が武力で植民地獲得競争をしていた時代、あるいは戦後日本のほとんどの都市が空襲で焼け野原となった状態では、事態は切迫した危機そのものであり、危機感をバネにした変革も頑張りも長期に持続するものとなった。
ところが、なんだかんだ言っても豊かさを実現した今日、不良債権問題と不況が終焉するや大した改革もしていないうちに「改革疲れ」を語り、変革機運は後退してしまった。
財政赤字、年金不安、少子高齢化、地球温暖化──。今日の日本の諸問題は放置しておけばやがて大禍となろうが、何もしなくても今日、明日に困るものではない。
危機感駆動型アプローチが最も苦手とする代物なのだ。
アプローチを切り替えて希望駆動型にシフトし、個人レベルでは各人の弱点を強調、矯正するよりも、強みを伸ばす姿勢を取るべきではないだろうか。
組織や社会のマクロレベルでは長期的な将来の目標を掲げて牽引する方策の方がよいのではなかろうか。
そのようなビジョンを持った国政レベルのリーダーシップが不在であることは困ったことだが、各層でできることはあるだろう。
「お父さんの良い点を挙げなさい」。8歳と12歳の自分の子供に言ったら、まるで気乗り薄で「別に〜。働いていることかなあ」「まあ、お金ないと困るしね」とのご回答。
「じゃあ、お父さんの悪い点を挙げなさい」と言うと、急に目を輝かせて「ビール飲み過ぎ!」「ワインも飲み過ぎかも!」「暖房の温度上げ過ぎ」「冷房の温度は下げ過ぎ」などとポンポン飛び出してくる。
う〜ん、どうやら自分の家庭の意識変革から取り組む必要があるようだ。