制御不能な官僚の汚職と腐敗 株式市場と不動産のバブル全国的に広がる人民の闘い 労働者と無縁なオリンピック 半年後、北京オリンピックが「ひとつの世界、ひとつの夢」というスローガンの下で開催される。しかし官僚たちの「世界」と「夢」は、普通の庶民たちの「世界」と「夢」と一致するのか。それは考察に値する。 北京オリンピック組織委員会のウェブサイトには、「五つの堅持」という運営方針が示されている。その中のひとつに「倹約を堅持してオリンピックを運営する」というものがある。「倹約」だと? 豪華な会場施設を建設するために、すでに三十八億ドルも使い、史上最もお金のかかっているオリンピックになっているにもかかわらず! 八年前のオーストラリア・シドニーオリンピックでの費用は十五億ドルだが、その二倍以上もかかっている。 なるほど、北京オリンピック開幕式の一番高価なチケットが一万元(一元約十四円)もすることにもうなづける。政府は、普通の競技のチケットは百元ほどであり、これなら普通の消費者も負担可能だと言っている。 だが月給一千元前後の一億五千万人にも上る出稼ぎ労働者にとっては、それとて購入できる価格ではない。だが政府の言っていることもすべてでたらめである、ということではない。というのは官僚たちにとって、出稼ぎ労働者は、都市部に導入された労働マシーンでしかなく、都市部の消費をまかなうことは期待されていないからだ。四千万人のレイオフされた国有企業労働者もまた同じである。これらの人々は赤貧の「世界」に生き、オリンピックを観戦して「団結、友情、進歩、調和」を実感するのではなく、安定した職を探し、ふつうの生活を送ることが「夢」になっている。改革・開放30周年の決算 折しも、今年のオリンピックは「改革・開放」政策が始まって三〇周年にあたる。政府系メディアは、急速な経済成長が労働者と環境を犠牲にしてきたことを今になって渋々ながら認めざるを得なくなっている。しかし「改革・開放」が実際には資本主義への道、しかも極めて暴力的で略奪的な資本主義への道を歩んできたことは決して認めようとしない。 中国では、一九九〇年代から三度にわたって私有化の荒波が打ち寄せられた。それは正式に宣言されることはなく、政府の政策という煙幕のもとで進められてきた。最初は、おもに中小の国有企業が売却されたり、大型の国有企業が株式会社に再編されたりした。この時は労働者をだまして株式を保有させたり、住宅改革と称したりして、労働者がこれまで蓄えてきた資金を市場に投入させた。 第二波の私有化の対象は、国有企業の敷地を含む都市部の土地であった。第三波の私有化の対象は、農民が請け負っていた農地である。商業目的の土地強制収用はそれまでも行われてきた。しかし従来と異なるのは、官僚やブルジョアジーの胃袋がますます貪欲になり、それが農民たちの反乱をいっそう激しいものにしているということである。 この十年来、土地収用により農地を失った農民は四千万人にのぼり、第十一次五カ年計画の期間中(二〇〇六年から一〇年)、毎年三百万人ずつ増加するという予想もある(原注1)。土地収用から農民が得る利益もわずか五〜一〇%であり、残りはすべて官僚や資本家の懐に入る(原注2)。労働者と農民は略奪され、官僚とブルジョアジーは大金持ちになっている。国内総生産に占める賃金の割合が下降しつづけていることを見るだけでもその一端を知ることができる。この割合は一九八〇年には十七%であり、すでに低水準であった。しかし資本主義市場化改革の全面的な展開にしたがって、二〇〇四年には一一%を下回っている。世界銀行が二〇〇七年二月に発表した「季刊中国経済」でもこの点に触れている(原注3)。 労働集約型産業が依然として主導的な地位を占めている中国のような国にとって、これは明らかに不正常な状態である。貧富の格差の度合いを示すジニ係数も、近年すでに〇・五にまで達しており、中国の貧富の格差は、この三十年で格差の少ない状態から格差の極めて大きな社会になったことを示している。富はどこへ消えてしまったのか。それはいうまでもなく官僚とブルジョアジーの懐のなかである。また同時期の国内総生産に占める利潤の割合は増加し続けている(原注4)。これこそが官僚と資本家たちの「世界」であり「夢」なのだ。 労働者農民は貧しく、個人消費は脆弱で、国内市場は限定されている(富裕層の消費だけでは過剰な供給を支え切れない)。 前述の世界銀行の報告でも次のように指摘されている。国内消費の長期的下降は、経済に占める賃金の割合が長期的に下降しているところからも説明できる、と。また、巨額の富を蓄積してきた官僚と資本家は、富を自分たちの豪奢な消費に使う以外には、資本の蓄積にまわしてきた。それゆえ、国民所得に占める個人消費の割合は減少し続ける一方で、資本形成率(GDPに占める投資の割合)は上昇し続けてきた。近年においてはそれは四〇%を超過している。この数字はアメリカの二〇%足らずの二倍を上回っており、すべての主要なアジア諸国のトップに位置する(原注5)。 蓄積と消費の不均衡は、製造業の長期的な供給超過をつくりだしている。過剰生産である。中国の労働者と農民が購入できないとすれば、海外に売ってしまえ、ということである。これが二十年来にわたり汗だくで輸出してきた理由の一つになっている。中国の貿易依存度(GDPに占める貿易額の割合)は近年七〇%にまで達しており、人口超大国としては極めて不正常な状態である。 それだけにとどまらない。富裕階級の富がますます蓄積されてくると、モノの輸出だけでは過剰資本の問題を解決することができなくなってきた。過剰資本の輸出が必要になる。中国政府が対外投資戦略を進める原因の一つがここにある。過去数年間の中国の対外投資はダブルスコアで成長してきた。巨額の中国の資本は、合法および非合法のルートを通じて海外に流出し、暴れまわっている。 一九九六年には、中国は債務国であり、千二百三十億ドルの対外債務を抱えており、それは国際総生産の一五%に等しかった。二〇〇四年、中国は純債権国となり、千三百十六億ドルもの対外資産を保有し、それは国際総生産の八%に値する。同じ時期のインドは一貫して純債務国であり、保有する対外債務は国内総生産の一〇・九%に等しかった(原注6)。 中国の膨大な対外投資は、まず香港に流れる。香港の株式市場と不動産市場は大陸からの資金に支えられなければ暴落するしかない。マカオも同様である。中国の農村において、資本投下が不足し、破産的状況に陥っているなかで、そして中国の西北部と西南部でも同様の状況に陥っているなかで、中国の官僚と資本家は争って資本を海外に輸出しようとしている。 ボトルネックに達した経済発展 官僚と資本家にとって、労働者農民に対する抑圧を代償とした輸出代替型の発展モデルは、過剰資本のはけ口であり、汚職による不法所得を合法的に海外の銀行預金や不動産に転換することのできる通用門でもある。しかしこのモデルの代償は、民衆生活の一層の困窮化だけでなく、経済、社会、そしてエコロジーにおける巨大な危機の醸成である。 各種一次産品の供給不足から、中国の急速な経済発展を維持することは難しくなっている。石油や銅から農産物に至るまで、これまで以上に輸入に依存するようになっており、輸入価格は高騰している。農業が直面する状況にはとりわけ関心が集まる。食の問題は人びとの最も敏感な問題であるからだ。 政府の長期にわたる不作為によって、農業投資は驚くばかりの少なさであり、七億の農民に対して、全国の投資額のわずか二〜三%しか分配されていない。これが農業生産の後進性と農村破たんの主要な原因のひとつである。村や郷の役人による搾取にあえぐ小規模農業生産では、ますます急速な資本主義的工業発展を支えることはできなくなっている。 食糧もまた同様である。中国の食糧自給率は近年九五%の警戒線を突破し、九一%にまで低下し、残りは輸入に頼らざるを得なくなっている。中国のような人口大国が、ますます輸入食糧に深く依存していくことは、中国にとっても外国にとっても良いことではない。なぜなら中国の一年間の穀物消費量はすでに国際市場における一年分の貿易量の二倍に達しているからである(原注7)。食糧輸入の増加によって、インフレと国内外の穀物価格の大幅な変動が不可避となる。そしてそれは実際にもう始まっている。 もうひとつ、重要な「生産要素」が不足している。労働力である。多くの専門家が中国の労働力過剰局面はまもなく終了するだろうと考えている。これまで政府の統計では、農村には一・五億から二億人の余剰労働力があると言われてきたが、去年九月の世界銀行の経済四半期レポートは、何人かの専門家の言葉を引用して、農村の余剰労働力は四千万人しかないと指摘している。労働力不足は近年頻発する名目賃金の引き上げの主な理由の一つである(原注8)。この状況は労働者の権利意識に対する確信を高めてもいる。 中国共産党も危機が蔓延していることは知っている。しかし、自らの短期的な利益のために、官僚たちはこれまでの方法(輸出志向、略奪的な経営の放任)に依拠し、そして危機的局面へと進むだろう。世界経済は冷え切っているにもかかわらず、中国経済だけが業火のごとく熱を帯びている。株式市場と不動産は、まさに巨大なバブルを醸成しつつある。中央政府も危機感を募らせており、何度も経済の過熱化を抑えようとしてきたが、「政策は中南海を出ず」と称されるように、効果はなかった(中南海とは、中国共産党本部と中華人民共和国国務院、政府要人の居住区で、中国の権力中枢を指す:訳注)。 中国共産党は人民のあらゆる面をコントロールすることができたが、あるひとつの事柄だけはますます制御不能になっている。他でもない共産党自身である。官僚自身の汚職腐敗はますます制御不可能になっており、さらには、官僚たちが蓄えた資金の持ち逃げの衝動は一層避けがたいものになっている。いま、党内の高級官僚たちは、資本規制の緩和を必死に中央政府に迫っている。 昨年、中南海に対して「資金の自由往来」を求める動きが続いた。それは、合法的に資産を国外に、とりあえずは香港に移転することができるような要求であった。だが実際には、すでに資本規制は大きく緩和されている。地下銀行では日々、何億ものカネが、中国、香港、マカオ、台湾の間を非合法に往来しており、投機や空売買などが行われている。もし中南海が最終的に「資金の自由往来」を開放したら、中国の金融危機は爆発しないかもしれないが、それがいったん爆発した際には制御はきわめて難しくなるだろう。深刻な経済危機のもとで、労働者農民の抵抗を弾圧することも容易ではなくなるだろう。これは官僚が最も恐れるシナリオでもある。 いま、珠江デルタでは、出稼ぎ労働者たちによるストライキを見ない日はない。農地の強制収用に対する「不公平を糺す」農民の行動もますます熾烈になっている。もし経済危機が発生した場合、官僚と資本家は危機を労働者農民に転嫁しようとするだろう。だがその時、労働者と農民たちは素直にそれを受け入れることはないだろう。 胡錦濤・温家宝の新しい政治? 胡錦濤の新指導部はこのような危機を感じ取っており、これまでの労働者と農民からの過分な略奪政策を多少なりとも調整しようとしている。去年の中国共産党十七回大会の報告の中で、都市と農村の収入を増加させ、一次分配における労働報酬の比重を引き上げることなどが語られた。労働政策において、当局は労働契約法と最低賃金の引き上げを進めている。どちらも労働者を保護する施策と考えられている。農村政策においては、農業税の廃止、農村における義務教育の実施(何十年も前に実施すると約束していたものである)、そしていわゆる「社会主義新農村の建設」という国家による農村投資の増加などの改良政策を進めてきた。 しかしこれらの措置はすべて従来の発展モデルにおける若干の修正にすぎず、何ら根本的な改革ではない。そして労働者や農民にとっては「焼け石に水」でしかない。中国の最低賃金水準はそもそも極めて低い。海外の最低賃金は少なくとも平均賃金の四割から六割の水準がある。アメリカでは五割、フランスでは六割などである。しかし中国の最低賃金は、一般的に平均賃金の二割しかない(原注9)。それゆえ、ここ数の間に年最低賃金が引き上げられたが、それはせいぜい物価の上昇を後追いしたものでしかなく(しかも物価上昇に追いついていない)、労働者にとっては顕著な改善になったとはいえない。 農村への投資については、かつては二千数百億元だったものが、二〇〇六年には三千三百九十七億元に、二〇〇七年には三千九百十七億元に増加し、比較的大幅な増加率であることには違いない。しかし農民一人当たりにすると六百元にも満たない。それは全国の投資にしめる割合のほんの数ポイントにしかならない。 さらに重要なことは、中央の政策が地方の政府において確実に実施されるのかということだ。それについては労働者農民はとっくに承知している。昔から農村では次のような言い回しがある。「二千億もの財政で農民を支援しても、農民が得る利益はほんのわずか」。 民主的規制の不在によって、農村への投資は往々にして汚職腐敗に使われるか、地方官僚自身の成績につながる公共事業に使われるだけである。出稼ぎ労働者も、労働者を保護するという法律がどれだけ作られようとも役に立たないことを知っている。地方政府はそもそもそのような法律を適用する関心を持っていないからだ。かれらは、労働者の公民権を制限するときにだけ、法を執行することに興味を持つのである。資本家による過酷で不当な搾取に耐え切れずストライキやデモに訴えざるを得なくなった労働者に対して、現地政府が速やかに機動隊を導入して弾圧する理由はここにある。 労働者農民への富の分配は極めて限定的である。富の分配の多少については、最も悲惨な搾取に抵抗する権利さえも剥奪されていることからも説明ができるだろう。 中央政府はこの事実を知らないのだろうか。当然知っている。そして労働者農民の政治的自由を抑圧することは一貫した国策なのである。言論、出版、集会、結社、デモなどの人民の公民権は、紙の上の権利でしかない。 労働者のストライキ権は一九八二年に憲法から削除されてから、紙の上ですらも認められなくなった。労働者農民は声を上げる根本的な権利を奪われてた。これは自衛の権利を剥奪されたことに等しく、官僚と資本家のなすがままに任せるしかなくなっている。耐え切れずに自発的な抵抗に立ち上がった労働者農民は、国家システムの鉄靴によって踏み潰される。 鋼の鉄靴だけでなく、ソフト面でも制度的な差別が待っている。中央政府は一九五八年に新戸籍制度を採択し、農民から移動の自由と平等な公民権を剥奪した。それは現在に至るまで完全には回復されてはいない。もし中央政府が心から労働者や農民に関心を寄せているのであれば、まず最初にかれらの平等な公民権を回復させなければならない。 一部の「新左派」――実際には民族主義者である――は、胡錦濤と温家宝の「新政」に喝采を贈っている。しかしこの「新政」の限界は一目で見破ることができる。「新政」はせいぜいのところ経済的利益におけるごくわずかな改善でしかない。しかもそれが実施されるときには大いに割引されてしまう。労働者農民がもっとも切迫して必要としている政治的権利については、何ら回復されることはない。このような政策をなんと呼ぶのだろうか。「飴と鞭」とはまさにこのことである。奴隷主が急に改心して奴隷に多くのパンを与えるが、決して奴隷からは解放しない、ということと同じである。 「新政」に喝采を贈る人びとは、自らの奴隷根性を払拭することもなく、人民がたらふく食えれば、それで徳政が行われていると考え、政権を褒め称えている。そしてこのような人々がいまだ社会主義者を自称している。かれらにはかれらの「社会主義」があるのだろう。だがそれは家父長的社会主義であり、丸抱え社会主義とも言う。このような「社会主義」においては、共産党は「人民に奉仕する」が、人民自身が人民のために奉仕することは決して許さない。人民はただ黙っておとなしく「党を信じ、政府を信じ」、指導者の奉仕を受け入れることしかできない。「社会主義計画経済」の時代においてもそうであったし、「社会主義市場経済」の時代においても、あいもかわらず同じなのである。 指導者が自分のために奉仕するのに忙しく、人民に奉仕する時間がないときには、黙っておとなしく待ってろ!というわけである。このような社会主義者たちは、支配者がもっとたくさんのパン屑を労働者人民に与えないことに苦言を呈することはするが、憲法で付与された人民の政治的権利が剥奪されていることを批判することはまれであるし、労働者人民が自らの運動を通じて自らの権利を奪回するべきである、と主張することはさらに稀である。それは単に中国国内での発言が難しいということだけで説明できるものではない。なぜならこのような社会主義者たちは、国外にいても同じような誤りを犯しているからである。 棍棒政策と権利のための闘争 官僚たちは、どのような主義であろうと、どのような時代であろうと変わることなく権力を握っているが、労働者農民の考え方は以前とは違ってきている。党を信じ続けて数十年、そして最後の最後で「苦難の道を数十年も歩んできたのに、いつの間にやら解放前へ戻ってしまった」。すべてを剥奪されてしまった中で、さらに党を信じ続けることができるだろうか。 我慢の末に、過酷な搾取をともなう仕事にありつき、汗水をたらして稼いだ賃金をも騙し取られる。これほどまでに追い詰められたかれらの怒りは爆発する。いまかれらは徐々にその消極性から目覚めつつある。輸出加工区においてはストライキはすでに珍しいニュースではなくなっている。「大きく騒げば大きく取れる、小さく騒げば少ししか取れない、騒がなければ何も取れない」というのが、労働者が自らの闘争の中で得た教訓である。 だが、組織化されない自発的なストライキは、どれだけ多発したとしても、官僚資本主義体制に脅威を及ぼすことはできない。中国の南方では、官僚たちはかつてのように自発的なストライキを恐れなくなっている。恒常的な組織がないゆえに、自発的なストライキは起こっては消える。「そうさ、組織化さえできなければ、労働者を恐れることはない。憎たらしいのは、うろちょろとあれこれに顔を突っ込んでくる活動家や労働者の権利などを宣伝するグループだな。だからやつらは棍棒で叩きのめさなくてはならない」。 ここ数年、労働関係のNGO組織に対する政府の弾圧のレベルは高まる一方である。過去二年間、広東省ではすでにいくつもの労働者サービスセンターが閉鎖に追い込まれた。 そのほかにも、以下のような事例がある。 一、中山大学で発行されていた労働者に同情的な雑誌が停刊に追い込まれた。 二、北京の「中国発展簡報」という極めて穏健な新聞が昨年停刊に追い込まれた。 三、百姓雑誌ウェブサイトと中国詩歌ウェブサイトが閉鎖された。 四、新左派と見なされていた雑誌「読書」の主任編集者の汪暉が職を追われた。 暗雲立ち込めるこのような社会には「彩り」が必要であったようだ。昨年末、香港の団体が支援してきた「深 労工サービスセンター」事件が鮮血の彩りを添えることになった。センターの中心的メンバーが、正体不明の暴漢に襲われ足に切断寸前の重傷を負った。現地の警察は、現場にいたにもかかわらず制止しなかった。同センターは、労働契約法を積極的に宣伝し、資本家に騙されないよう労働者に訴えてきたが、それに対する報復ではないか、と同センター職員は推測している。事件の後、同センターは今回の暴力事件を公然と批判するよう、現地警察に要求したが、何ら回答は得られなかった。 もし共産党が本当に「権力を人民のために行使する」のであれば、労働者農民の最低限の公民権と一切の政治的自由を回復させ、人権を侵害する悪法と勢力を一掃し、労働者農民が自衛のための公民的権力を行使することを保障しなければならない。しかし彼らにその考えはないだろう。 だが、だからどうしたというのだ。たとえ共産党がストライキを禁止しても、労働者は断固としてストライキを打っているのだ。三十年にわたる全面的な資本主義化はすでに新たな段階に到達した。経済、社会、エコロジーの全面的危機の段階である。労働者農民はいま覚醒しつつある。かれらはますますこの世界が自分たちの世界ではないと、そして共産党の夢が自分たちの夢と同じではないと感じている。かれらは、自らによる集団的闘争、自らの運動、そして社会的にブルジョアジーと自由に闘争することによって、はじめて富の分配が完全にブルジョアジーに偏っている現在の局面を転換することができ、労働者が搾取されない世界を獲得できることを、早晩理解するだろう。 労働者農民の経済的要求は、政治的自由を求める要求と車の両輪である。もちろん労働者農民の強力な社会運動の発展は容易ではない。一九八八年のソウルオリンピックで見られたような光景――会場の中ではオリンピック競技が行われ、街頭では民衆と権力の激しい衝突があった――を北京オリンピックの期間中に期待することはできないだろう。労働者農民の運動には時間が必要である。だが地中にあるその萌芽はすでに成長しつつあり、いままさに固い地表を破って飛び出ようとしている。昔からの常套句にあるように、それは人の意思から独立したものなのである。 二〇〇八年一月二十八日 原注 注1 新華網2006年7月24日 注2 地方政府は不動産利益の分配の二〇〜三〇%、デベロッパーは四〇〜五〇%を占める。南京市国土資源局ウェブサイト参照。 注3 http://www.worldbank.org.cn 同報告では、GDPに占める賃金の割合は一九九八年の五三%から二〇〇五年の四一・四%に下落しており、アメリカのそれは五七%に達していることを指摘している。この数字は本文で引用したものとは異なる。世界銀行の報告でいうところの「GDPに占める賃金の割合」とは、「GDPの増加額に占める割合」であり、それが一般的な方法である。しかし世界銀行のレポートでは一九九八年までしかさかのぼれず、改革開放政策の時期全体を包括していない。本論考では、改革開放政策の全期間における経済に占める賃金の割合の下降を検討するために、そしてまたGDPの増加額における利潤と賃金の割合の直接統計データが不完全であることから、国内総生産に占める賃金総額という計算方法で、長期的な下降傾向を表した。 注4 「2007年企業青書」によると、一九九〇〜二〇〇五年のGDPに占める企業利益の割合は二一・九%から二九・六%に増加した。星島環球網www.stnn.cc 2007-11-23。 注5 Rebalancing China’s Economy, He and Kuijs, World Bank China Research Paper No.7 注6 The External Wealth of china: An Investigation from the International Balance Sheet Perspective, by Andrew Sheng and Allen Ng, Jan 2008. Hong Kong Institute for Monetary Research Working Paper, P.4. 注7 「糧食価工資飆、令通脹持続」明報二〇〇八年一月十四日 注8 「季刊中国経済」二〇〇七年九月、十七頁、世界銀行中国代表事務所 注9 「サウスチャイナモーニングポスト」二〇〇三年十二月八日によると、一九九三年の深 の最低賃金は平均賃金の四割であった。その後、物価上昇に伴う調整が行われなかったことから九九年には二三・八%にまで下落した。近年、最低賃金の引き上げが見られるが、それでも平均賃金の三割未満の状態である。 (先駆社ウェブサイトより)
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