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(回答先: 関連投稿 投稿者 ブッダの弟子 日時 2008 年 9 月 19 日 11:25:46)
自分が出したが、精神の存在を無視し、薬で治そうと考える人は、矢張り、精神の病に掛かった精神病患者である。之が、理解しないと分からないでしょう。犯罪とは何か、正義とは何かという問いに、矛盾が激しい国では、精神的にストレスが溜まるから、精神的病が起こす人が出てくるでしょう。其れを直すのに、何故薬で治るのか。現実を逸らす訳には行かないから薬で治るわけではない。つまり、患者の精神を破壊する事にして、社会の現実の問題を無視させようとするでしょう。つまり、社会には犯罪の温床となる。
精神医者は、自分が、裁判官になって、患者に電気治療を施すのが正しいのか。倫理上の問題があるでしょう。寧ろ、之は精神医者の、人間の尊厳性を無視した犯罪行為であると。何の為に、裁判所があるのか、そして、検察だけの答弁だけではなく、弁護人の内容まで吟味して、善悪を判断させなければならない裁判所の権威を無視して、どこの権威で、患者(患者かどうか、本当の真相が分からない。勝手に患者と見立てているかもしれない)として裁く権利を与えられたのか。基本的に精神の自由を奪う、人権侵害であると。裁判官だって、本来は神と良心に従がって、間違いを犯しているのか悩みながら裁く内容でしょう。今の裁判官はどうかしらないけれど、本来は悩んで裁く内容である。今の裁判官は、神と良心に従がって裁いているよりも前例に従がって裁いているような感もあるが。これも可笑しい内容であるが。だが、全てそうとは言い切れないし、本当に良心的な裁判官もいるかもしれないから、この発言は未だ暴言かもしれない。
分からないのは、精神病院で精神病と名付けたら、裁くことが出来ないというのは、異常に可笑しい。精神病院の病室も、基本的に監獄の中の社会ですから。普通の病院とは違うですから。つまり、精神病院に入れさせる事は、監獄社会に入れさせる事で社会に隔離させる目的がある。この社会の隔離とは、何を意味するのかというと、昔の権力者は、自分の不都合な情報を、世に伝えないように、感化させない目的で、精神病と名付けて、裁判なしに人権弾圧を行い、薬や体罰、強制労働、電気ショック、脳神経弾圧。自殺と見せ掛けた暗殺等を行なってきて、不都合の内容を隠そうとして来た歴史的な事実を忘れてはならない。旧ソ連もそうだけど、アメリカもよく言われている内容である。日本も、精神病院は、監獄であると、其れに畏れて、警察権力の恐ろしさに、権力にとって都合の悪い事は話さないようにしている。話すと監禁される畏れが今の社会はある。政治家の怪死も言われている内容である。無名で無実の人間がどれだけ、精神病を名付けて監獄に入れさせているのか分からないのである。裁判を掛けるのに、人間を拘束するのに、裁判の手続きを取らなければならないのに、そこには弁護人等がいて、良心的に裁かなければならない人間を、一人の言葉で何も調査をしないで、そのまま精神病院に行かせる事は異常であり、更に裁くように精神分裂症等を名付けること自体が、「己高し」と「高慢」の人間の態度であると。
「癇癪」のある問題児は、普通の親ならば、愛情を持って、自宅で治めるとか(この治めるとは、口で言って治るものではない。「子供の態度は、親の鏡である」と子供がやった内容は、自分がやった内容であると反省し、日頃から自分から治す事であり、子供の時代の時からの反省も含めて、自分を見直す事が先決であると。そして心正しく愛情を持って育てる事が大切であると、これは昔から言われている言葉だけど、今の親は、子供の態度は自分とは関係が無い思っている親が多いのでは。その自己反省がない親が多い事も影響もあるし、子供の成長が自分の楽しみだと覚える親が少なくなったのでは。家庭の崩壊だと言われている時代ですから。そして、自分では治せないと思ったならば、精神病院ではなく、自分が尊敬する大人(本来ならば、自分の親に相談する内容だけど、これも親子関係が薄れている時代には、難しい態度であると、おじいさん等の地元の家族思いの長老に相談するべきであると、決して薬で治そうと考える病院には、普通の親には行かせない。本来の親ならば、病院に行かせるならば、一緒になって死ぬ道を選ぶでしょう。子供将来を考えて、不憫だと思い一家心中の道を選ぶでしょう。其れが普通の親の態度であり、どんな事があっても、精神薬を与える病院には絶対に行かせないのが本来の態度である。普通は、神を求めて、教会やお寺に求めるのである。勿論、其れを利用して悪徳の教会や寺もあるけれど、それでも真面目に神の良心を基づいて修行している人もいる。病院に行かせるならば、人づての話を聞いて、神の導きでお寺か教会に行かせるでしょう。普通の親は。そこで修行させるでしょう。この辺り「ブッダの弟子」様が説明している。普通は、精神病という精神関係を直すのは、神の権威を与えているのは、薬で治す病院ではない。普通はお寺と教会である。そして、裁きが必要ならば、司法関係であり、正しき裁判に基づいて刑務所に入って矯正させるのである。勿論、精神薬ではない。労働と健全な生活によって規則正しき生活を身に付けて矯正させるのである。そして、無事に刑務所に出たならば、社会の責任者に後見役に任せて、就職活動させて健全な生活に戻させるのである。後見役は、社会に対して、神が認める長老が良いでしょう。重大な罪を犯した人は、死刑は仕方がないけれど、冤罪もあるし難しい問題でしょう)、後見役は、普通、精神病院の医者ではないでしょう。社会の長老とか名士でしょう。つまり、上から見ても、精神病院の存在の必要性は全くないのである。
考えて見ても分かるでしょう。大学卒業した若造等が、人の「精神の尊厳性」の部分を治そうと考えるのか。普通は、それは思い上がり以外意味がないでしょう。精神病の医者になる事を希望する事自体が異常である事を気付くべきでしょう。
其れを気付かない現在は、精神病院の問題点、そして公権力の犯罪の隠蔽の砦としての精神病院の存在、不当の人権弾圧の温床になりやすい場所として、注視するべき場所ではないのか。サディストで、人をロボットだと思わない限り、精神病院の医者はなれない。
異常に危険な場所であり、社会に不必要な場所である事を早く気付くべきだろう。