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株式日記と経済展望
http://www5.plala.or.jp/kabusiki/kabu183.htm
http://blog.goo.ne.jp/2005tora/
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東大生は「真面目で、新しい物にも関心を持たず、理解力と記憶力が
いい」、だから成績が良かった人は30才までにつぶれてしまう。
2009年1月12日 月曜日
◆『「超」勉強法』でも丸暗記を提唱しているが・・ パンネーションズコンサルティンググループ
http://www.pan-nations.co.jp/column_002_005.html
ベストセラーになった『「超」勉強法』の中で、野口悠紀雄・東京大学教授は自らの学習体験をもとに、英語上達のコツは文章を丸暗記することだ、と次のように述べている。
「私は、学生時代を通じて、英語の勉強は少しも苦にならなかった。方法は全く簡単で、教科書を最初から丸暗記したのである。このために特別の努力はいらない。単語の意味をひととおり辞書で調べたのち、朗読する。その際、難しい文法のことは考えず、また丸暗記しようと特別の努力もしない。単語帳も作らない。ひたすら朗読するのである」(同書48〜49ページ)
野口教授は、教科書丸暗記法は楽なだけでなく、単語を覚える際にも便利であるし、英文和訳や和文英訳にも応用できて、英語の成績は目立って上がると主張している。
この野口教授に限らず、英語学習のコツとして文章の暗記を勧める先生はかなり多いし、実際この言説を信奉してせっせとこれ丸暗記に努める学生も数多い。
だが、私が言っておきたいのは、野口教授のようなセンスのある人は、むしろ稀だということである。
多くの人はそれができなかったために、今でも英語が苦手なのだ。そういう人が、また英語を学習し直そうとするとき、学生時代ですらできなかったテキストの丸暗記などできるはずがない。もっと別な方法、もっと効率的な方法があるはずなのである。
(私のコメント)
グローバルな時代を迎えて外国語の習得の重要性は増してきているのですが、日本人の外国語能力は逆に落ちてきているようだ。テレビのニュースキャスターですら英語でインタビューできる人は希であり、ジャーナリストなどは外国人へのインタビューは必要不可欠であり、テレビや新聞社などの採用試験では英語能力などが重要な選抜基準だろうと思うのですが、それでも多くのアナウンサーは通訳任せなのはどうしてだろう?
政治家や文部省の役人が英語教育が重要だと認識するのは分かるが、自分が出来ないのに子供たちに無理やり教え込んでも英語が出来るようになるわけではない。語学学習では文章の丸暗記が必要不可欠であり、記憶力のいい生徒はマスターできるが、記憶が苦手な人には手も足も出ないだろう。「ローマ人の物語」の塩田七生氏は好奇心からラテン語とギリシア語を勉強したそうですが、秀才タイプにはそのような人はいない。
私も小学校の時から勉強嫌いであり試験勉強などしたことが無い。だから進学するときなども浪人になりかけたりして、英語の試験さえなければ東大にも入れただろうと思うくらいだった。英語は丸暗記と記憶力の科目だから普段から一生懸命にやらないと一夜漬けではどうにもならない。漢字の書き取りなども普段からやっていないといい成績は取れない。
つまり記憶力のいいがり勉ほど進学競争には有利であり、東大などで優秀な成績を取るのも記憶力のいい秀才タイプで、独創性や想像力のあるようなタイプの学生は排除されてしまう。もちろん学問には記憶力は非常に重要な要素ですが、それ以外にも創造力などがある。しかしペーパーテストだとどうしても記憶力だけが試されて、他の能力はペーパーテストでは選考できない。
だから東大を優秀な成績で卒業しても社会に出たらぱっとしない人がたくさんいる。マニュアルに書かれた事は記憶して出来るが、実社会にはマニュアル化されたものは少なく、その都度問題解決する創造力が試される。英語などは記憶力オンリーの教科であり、だから英語に偏った入試選抜は間違っている。野口悠紀雄氏が英語を丸暗記で覚えたというのは野口氏が記憶力型の秀才であるからだろう。
大東亜戦争に負けたのも陸軍大学や海軍大学を優秀な成績で卒業した人物が大将になったからであり、戦争はマニュアル通りには進まない。むしろ臨機応変な創造性が要求されるのであり、そのような人物は陸軍大学や海軍大学を優秀な成績では出られない。現在の中央官庁も同じ事であり、政府日銀官僚がバブル崩壊を防げなかったのも経済学の教科書には今のバブル崩壊の事など書いてはいないからだ。
実社会で活躍する人は記憶力のいい秀才タイプよりも、創造力のあるタイプであり、そのような人材は実社会の中から見つけ出すしかないだろう。だからグローバル時代だからといって英語力だけで会社の幹部を登用したら会社は傾くだろう。むしろ英語がダメでも新規事業などを立ち上げて成功させた人材を登用すべきだ。
文章を書くという事は記憶力と創造力の両方が必要であり、能力を見分けるには記述式のテストなどがいいと思うのですが、入学試験で記述式のテストはほとんど行なわれていない。○×テストなら採点は楽だが記述式テストだと採点が難しいから採用されない。入試など1点2点が合格不合格の成否を分けるのだからどうしてもマークシートや○×テストになってしまう。
閉塞感に満ちた現在社会においては記憶力のいい東大型の秀才でななくて、創造力型の天才タイプが求められている。天才タイプというのは自分の好きな分野は非常に努力して記憶出来るが他の分野は全くダメな事が多い。だから中小企業の社長などにこのようなタイプが多いのですが、日本がこれだけ経済発展してきたのも戦後の中小企業から大企業に発展させてきた本田宗一郎や井深大のような天才型の人物が活躍できたからだ。
だからグローバル時代だからといって英語学習にばかり力を入れるのは間違いであり、英語は英語屋に任せればいいのではないかと思う。しかし現実には英語屋がキャリア官僚になり大学教授になり大企業経営者になっているから日本は閉塞状況に追い込まれてしまったのだ。
◆境野勝悟の講演 「東大型か日大型か」
http://www.d1.dion.ne.jp/~masehts/2message/kioku.html
近年、受験競争が激化して全教科の試験成績が平均して良くないと東大には入学できなくなってしまった。そして、教員生活をつづけているうちに、栄光学園から毎年、東大にストレートで入っていく生徒の特徴、記憶力の権化のような生徒の特異性に疑問を抱くようになった。
私は教育の理念は「努力」、勉強は努力だ!といってきた。そして、確かに努力して勉強すれば、5段階評価で、1の人は努力すると2に上がる。2の人は3に、3の人は4になる。
ところが、4の人は努力してもやはり4で、5にはなれない。記憶力抜群の連中が5を独占しまっている。4の人が5に登ってもすぐ落ちてしまう。4の人は努力の人、5の人は生まれつきの人なのだ。
本当にこれでいいのか。記憶力の権化だけが東大に入っていく今の教育はどこか間違っているのではないか。そう考えて、「長所だけの人間がいるはずがない。記憶力の権化のような生徒にも短所、能力欠点があるはずだ」と観察を続けて、東大型生徒の欠点を明らかにすることができた。
それは、栄光学園の観察からわかったことで、『誰でも持っている2大基本能力、すなわち、記憶力と創造力には「たして10」という性質がある』ということ。したがって、記憶力の権化のような生徒は記憶力が10だから創造力は0、創造力をもっていない。だから、教えられたことしか記憶できないし、新しいことを工夫することができない。そして、この記憶力抜群の生徒の特徴は笑わない、笑えないということである。
世の中に出ると、教えられないことを自分で考えて処理していかなければならない。教えられたことしか考えられない、正解のあることしかできない人間では、生きている問題の処理ができる筈がない。
記憶力型の人間は、「十で神童、十五で才子、二十歳過ぎれば並の人」ということわざ、そのものなのだ。
大抵の人は記憶力と創造力をバランス良く持っている。だから、社会で仕事ができる。社会に出て、本当に活躍している人、組織のトップに立って成功している人は記憶力型ではなくて創造力型の人間なのだ。
今、世の中で、営業の場で活躍しているのは日大型といわれる人。営業活動は相手の気持ちを受け取れなければ成立しないものだ。どんなスポーツでも、相手の気持ちを考えられなければ、自分だけがどんなに頑張っても絶対に勝てない。相手の気持ちなど誰も教えられない、相手本人が教えてくれることなどまずありえない。相手の気持ちは自分で読む必要があるのだ。そんな場に置かれる営業活動だから、相手の気持ちを考えられるスポーツ選手が社会で活躍できるのだ。
ところで、創造力10の人間に記憶力がないわけではない。創造力型人間の記憶力には、大きな特徴がある。それは「記憶力の志向性」ということで、自分が興味を持ったものはさっと覚える、興味を持たないものは全然覚えない。
この創造力型人間は中学時代に、何かを夢中になってやるようになる。夢中になってやると、中には二十歳になる頃には大人の中にはいっても一流といわれる力をつけるものもでてくる。昔のエリートといわれる人はこういう人たちだった。一芸に秀でた人、抜群だった人がエリートとなったのだ。
記憶力型の人間は、「十で神童、十五で才子、二十歳過ぎれば並の人」ということわざ、そのものなのだ。
ある保険会社で聞いた話。昔は「今年の東大出はあれとあれだ」ということは、「何かあったら奴に聞け」という意味だった。最近では「今年の東大出はあれとあれだ」ということは、「何かあっても奴に聞いても無駄だ」という意味に変ってしまった。今、わが社で、金の卵だと言われている学生は「日大運動部の卒業生」なのだ。
人間は長所がそのまま短所になる。短所はそのまま長所になる。小中学校時代に長所だった「真面目で、新しい物にも関心を持たず、理解力と記憶力がいい」、だから成績が良かった人は30才までにつぶれてしまう。とても経営者として成功するはずがない。
自分の興味のあることしか勉強をしようとしない人、創造力型の人は他人の細かい異議には目を貸さず自分のやりたいことを強力に押し進めることができるので、大きな仕事をやり遂げることができるのだ。
こうした創造力型の人が30代になっても花が開かない条件が一つだけある。それは青少年時代に、「お前はダメだ」といわれ、「俺はダメだ」と劣等感、コンプレックスを持ってしまった創造力型の人は30代になっても花は開かないのだ。
◆塩野七生の講演 「演題:21世紀にどう入っていくか」(98/6東京)から
http://www.d1.dion.ne.jp/~masehts/2message/kioku.html
疑いを持たない秀才よりも成績が悪くても疑いを持ったほうがいい
私の出た高等学校は東京都立の日比谷高校です。今は知りませんが、私がいた頃の日比谷高校には、日本中の秀才が集っていたんです。私は秀才ではありませんでしたけれど。中にはノーベル賞を受賞した利根川進さんもいました。
それで、そういう秀才たちが今どういうところに就いているのかというと、大企業の大変いいところか、それとも官庁のずっといいところにいる人が非常に多い。そして、最近は不祥事なんかが起きると、しばしば名を連ねています。
そういう中にいて、少女時代の私は成績が悪かったものですから、どうして彼らは成績がいいんだろうと考えたんです。彼らがみんな記憶力がいいという事実は、やはり認めざるを得ませんでした。
でも、記憶力というのは、今やコンピュータなどがあるわけですから、もう絶対に必要な能力だとは言えません。
そして、次にわかったのは、そういう成績のいい人たちは、みんな、先生の話に疑いを持たない人たちだということでした。疑いを持たないから、先生の話がすうっと耳に入ってくるわけでしょう。
ところが私を始めとする成績の悪い生徒は先生が言った一言がびゅっと頭の中にくると、その刺激で連想につながって、すっかりほかのことを考えてしまうんです。そのため、その後の先生の話は一切頭に入ってこないようになってしまう。
ですから、当時は、疑いをもたないことが秀才になる一つの要因だ、なんて思っていたくらいです。
しかし、そうではないんですね。やはり疑いを持ったほうがいいんです。何にでも疑いを持つということは、後々まで役立つことだなと、今はつくづく思っています。たとえ、学校の成績がよくなくても、疑いを持ったほうがいいということですね。
16歳の頃にはまったことに今もはまったままでいる
はっきり言うと、先生の話に刺激を受けてほかのことを連想することは、決して欠点ではないのです。そういう刺激を受けた途端にそれに反応するというのは、好奇心が強いという証拠なのです。この好奇心だけは、私はやはり人並みにあったような気がします。
16歳の頃、ある本を読んで、それでたちまち私は地中海世界にはまってしまいました。もうその年にはギリシャ語とラテン語をはじめました。当時はどこにも教えてくれるところがなかったので、独学で始めたんです。
大学でも、ギリシャ語とラテン語を学びたいと思いました。それを教えている先生が東京大学にいらっしゃるので、私は東京大学を受けました。そうしたら、ものの見事に落ちちゃいました。
当時の日比谷高校では、最初の3分の1はそのままストレートに東大へ行き、次の3分の1は一浪して東大へ行くという学校だったのです。一浪するぐらいは何でもなかったのですけど、私の場合は「どうも一浪してもは入れないなあ」と見極めをつけてざるを得なかったわけです。
東大でギリシャ語を教えているという先生は、呉茂一という方でした。東大を諦めざるをえなかった私はどうしたかというと、その先生がほかに何処かの大学に出張講義をしておられるのだろうかと探したんです。そうしたら学習院大学でも教えていらした。で、学習院大学なら入れるだろうと思って受けまして、先生の指導を受けることができたんです。
考えてみれば、私は16歳の頃にはまっちゃったことに、今もまだ、はまったままでいるんですね。それがよかったか、悪かったかは別として。
しかし、本当を言うと、私の高校時代は孤独でした。ギリシャ、ローマなんていっても、同級生の誰一人として関心を持つ人がいなかったからです。誰にも理解してもらえなかったんですから。あの当時を思い出すと高校時代の同期会にはあまり行きたくない気もするのです。
好奇心が文明というものを生み出した
好奇心を働かせることで他者から受けた刺激をもとにして何か新しいものを創造するという現象は、文明の発祥にしばしばつながります。
一つの例が地中海です。なぜあそこで三大宗教のうちの二つまでが生まれ、哲学が生まれ、民主主義体制までふくめたすべての政体が生まれたのか。それは、舟で行き来する程度の交通手段しかなかった時代にとって、ちょうどいい大きさだったからだと思うんです。異分子がぶつかり合うのにちょうどいい広さだった。
だからギリシャでも、ギリシャ文明の最初はアテネから始まってはいません。現在ではトルコになりますが、小アジアの西岸地帯のイオニア地方というところから始まりました。
あの一帯には良港が沢山ありまして、オリエントのものとオチデント(西洋のこと)各地方からの物産が集ってきたんです。
そうやって商品が運ばれてくるということは、人間が運ばれてくるということでもあります。人と物の往来が激しいということは、別の考えも入ってくるということです。
そういうところには刺激があります。刺激を受けそれに反応することによって、始めて新しいものが生まれるのです。新しい物が生まれるというのは、つまり、いろいろの刺激というものを好奇心でフォローして、それを自分の中で耕すことによって成されるからでしょう。
それは、例えば、饅頭一つ作るのでも違ってくるのです。小豆の代わりにクリームを入れてみたらどうだろうかというように。そういう小さいことにまで、何か違った要素が入ってくるのです。
そうして、新しいものが作られていくわけです。この意味でも、好奇心というのは大切なんです。
(私のコメント)
役所にある提案をしても役人たちは「前例が無い」ということで提案は却下されてしまうのは、彼らが教科書に疑いを持たない秀才だからであり、だから正解のない問題にぶち当たると彼らの能力は全く生かせなくなってしまう。野口悠紀雄氏は類希なる記憶力で東大教授になれたのでしょうが、彼らのような秀才タイプの学者の書いたものは要するに受け売りばかりだ。
彼らは、「真面目で、新しい物にも関心を持たず、理解力と記憶力がいい」。それに対して塩田七生氏のような好奇心が旺盛であり、新しいものに対する関心が高いのは学校では必ずしも優秀ではないようだ。グローバル時代だから英語ばかりやるのも秀才たちの意見なのでしょうが、ラテン語やギリシア語こそ古代のグローバル言語だった。
私の小学生時代のあだ名は「天才」であり、興味のあるものはとことん勉強するが、興味の無い英語などはまるで出来なかった。塩田氏が言うようにこれからは記憶力よりも創造力が問われる時代であり、記憶力はコンピューターに任せてグーグルで検索すれば膨大なデータベースが手に入る。英語なども英語のウェブサイトは翻訳ソフトで読めるようになってきたから、貴重な学生時代を英語の記憶で使ってしまうのは才能の持ち腐れになるだろう。