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本日のNHK日曜討論、サンデープロジェクトを見たところでは、棚橋泰文氏と山本一太氏は「非常に危ない」と感じた。
多分であるが、この両氏は合流して候補者を1本化するような気がするが、いずれにしても「小泉総理の郵政民営化路線が正しい」と思い込んでいる。
2人の意見は共に「郵政民営化選挙における民意が改革路線に賛成だった。」というものである。基本的には「間違ってはいない。」と言える。しかし、間違っていないからこそ始末に悪いとも言えるだろう。
「小さな政府」という方向性は確かに存在し、それを国民が選択するのなら、そのリスクを「国民が負う覚悟をしたことが前提になって」だが、それは選択肢として成立する。
しかしながら、リスクの説明をしないで選択された方向は「その選択自体が無効」というのが「現代の考え方」である。例とすると消費者保護法などが挙げられるが、この考え方は「選択選挙」においても同様である。
小泉氏が、郵政選挙において、「小さな政府への構造改革として郵便局を民営化します。これによって全国ネットワークは崩壊するかもしれません。」と説明したのなら、郵政選挙は妥当性を有する。要は「税金を投入しても郵便全国ネットワークを維持すべきか?否か?」というのは「国民の選択」として「税負担と国の事業」を国民に問うべき対象である。
しかし、「将来の税金投入の危険性を回避するために、郵政を民営化します。民営化すればサービスが向上します。」というのが実際の説明であった。
ここでのポイントは「将来の税金投入の危険性」である。これ、良く考えていただきたいのだが、「現在の累積財政債務に対する効果のためではない」と言う事である。
少し勘違いされる恐れがあるので念のために触れておくと「財政投融資制度の入り口改革」という意味における改革は「橋本内閣時に行われ、一応終了していた。」ので、小泉氏の郵政選挙においては意味がない。つまりは郵政選挙は「小さな政府への方向の選択選挙だった。」のである。よって、郵便局については「民間活力に任せた上で、赤字なら廃止も仕方がない」という結論しか導き出してはいけなかったのである。
それを「田舎の郵便局は減らさない」という「その場しのぎの事を言って」の選挙では「リスクを説明しない詐欺的行為」と言えるだろう。
棚橋・山本両氏は「その点を全く理解していない。」
郵政選挙の結果のみを最重要視して、それが民意による「天の声」としているわけである。
更に両氏は「徹底的な歳出削減」を先行させると言う。
「民間企業なら、人件費カットが当然為される」というのが、その理由である。
公務員の事業は基本的に、利益が出る事業ではない。これは赤字が当然と言う事であり、採算性は度外視されているような「民業が手を出さない分野の事業をしている」という事である。つまり、赤字だから即、人件費削減というのは「民間の手法であり、官業では不適切」と言う事である。
極論してしまえば「税収に見合った福祉事業範囲に収めるのが、政治家の仕事」であり、従業員たる公務員には「何の罪もない」のだから、そこに「リスクを押しつけるのは間違い」という事である。
責を負うべきは「税収を考えずに支出のある事業計画をした者(=政治家・財務官僚)」であろう。
現実問題として「歳出削減」は、福祉の切り捨て、公務員の整理縮小・給与カットによって行われるだろう。極論してしまえば「国がやるのは、国土防衛と治安維持だけ」というのが究極の方向性であり、そこに達すれば「税金は最小限で済む」と言う事になる。更に推し進めるなら「徴兵制などを導入して、自衛隊と警官・裁判員などは国民の義務的オテンマ活動にして、人件費を極限まで抑制」すれば、プライマリーバランスはプラスになってお釣りが来るだろう。
理屈だけを考えるのなら、それは「国家財政をあずかる経営者として間違ってはいない。」しかし、会社の社長が会社社員を「人間としてではなく、駒もしくは部品をして捉える」ようだと「その会社はブラック企業」だと言えるだろう。仮にも与党の総裁候補者が「公務員(=自分の企業の社員)の人権を考慮しない」のなら、これは大変危険な存在である。
そもそも、縮小経済(=歳出削減)というのは「不景気にしかならない愚策」である。
浪速の商人は「損して元取れ」という商売理念を持っている人もいるが、そのあたりが全く分かっていないようである。
しかし、主張は一見すると「正しく聞こえ」、真面目さと清心さが印象に残るのも確かである。多くの人が「それに惑わされる。」と思う。
両氏は十分に善人で使命感に燃えているのは確かだろう。それは「今の閉塞感漂う社会を変えてくれそうな雰囲気を醸し出している」
その期待感は「ある意味では間違いではない。」
しかし、期待の先にあるのは「小泉氏の暴走の再現だけ」である。残念ながら、両名は一生懸命に頑張っているが「方向性がずれている。」のである。
ものが分かっていない者が「善意で頑張っても、それは風車に立ち向かうドンキホーテにしかなり得ない」と言う事である。