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kanonです。
以前にですが、自立について考察した際に医学的リハビリテーションの最先端の治療法を紹介しました。
リハビリテーション医学
http://www.asyura2.com/08/idletalk30/msg/162.html
投稿者 kanon 日時 2008 年 2 月 10 日
一部抜粋して引用します。
>リハビリテーションとは、語源的にはRe(再び)habilis(適する)ation(にすること)で、人間に適した生活状態を取り戻すことを意味しています。大辞林によると『身体に障害を受けた者などが、再び社会生活に復帰するための、総合的な治療的訓練。身体的な機能回復訓練のみにとどまらず、精神的、職業的な復帰訓練も含まれる。本来は社会的権利・資格・名誉の回復を意味し、社会復帰・更生・療育の語が当てられる。リハビリ』と解説しています。今のリハビリ医学の現場に目を向けると、リハビリ医療の診療日数の制限で必要な治療が受けられなくなるという「リハビリ打ち切り問題」が取りだたされているのはご承知のことかと存じます。
今回は医学的リハビリテーションの歴史的な歩みと概要について話をします。現代におけるリハビリテーションの意義や役割を掴むために、過去にさかのぼることは決して無駄な作業ではないはずですし、むしろそこから学ぶことで正確な理解が得られると考えたからです。
さて、リハビリテーションが医学的な治療法として確立していった背景には、人間同士の争いである戦争が大きな役割を担っていました。争いで負傷した軍人が治療・回復のために受けた治療法のひとつがそれであります。まことに近代的なリハビリテーション医学の端緒が、戦争の影響によるものであるというのは何とも皮肉な結果だと申せましょうか。とにかくそういった背景の中でリハビリテーションは進化・発展を遂げていくことになりました。
ところで、医学において障害者を対象とする場合、その障害の程度を考える必要がありましょう。また、単なる失われた機能の回復だけが問題なのではなく、本来的には、その障害者の「人間らしく生きる権利の回復」(全人間的復権)までも包括したものであると仮定したとします。すると、これは、現代医療が単なる疾病の治療だけに終始している有り様をあたかも現代的な意味合いで批判している表現だとも受け取ることができるでしょう。ただし一般的には治療して完治すれば、その目的は果たされたとひとまずはそのように考えるわけですが。では完全に治癒しない場合においては医学的に何をすればいいのか?あるいは、完治しなくても残存機能に着目しながら障害を克服していく別のアプローチの仕方を模索する必要があるのではないかなどと疑問を呈することは大切なことだと思われます。
とにかく障害の概念はそういった位相の中で試行錯誤を繰り返しながら、徐々にではありますが身体機能面以外の環境面や個人的な要素を取り込むことで、その裾野が広がっていく過程を経ていきました。結論から申上げますと、障害者のみを対象とした捉え方から全ての人を対象とした捉え方への変換があり、そのようにツールを改変することによって、より普遍的な次元での理解に近づくことが可能となりました。ただ視点を改良したことで、これまでの偏見や差別などを助長してきた見方に対してどのように影響するのかは、これからの成果を見てみないことには判断できません。また、こうした捉え方によってリハビリテーションの語源的な意味である全人間的復権を彷彿させるという利点もあります。ちなみに、元々のリハビリテーションの意味は、中世ヨーロッパにおいて、国王が臣民の権利を剥奪した場合やキリスト教に属していた者が破門された場合に「身分・地位・資格の回復」あるいは、宗教的に「破門の取り消し」という意味で用いられたことや、さらに、近代では「公民権の回復」「名誉の回復」等の意味にも使われていました。言葉の意味づけは時代とともに変化していきますが、リハビリテーションの語源的な意味である「人間を再び適した状態にする」という内容が、木の根のように見えないところで脈々と息づいていることがここからも理解できるかと思います。
既に述べましたように、現代的な意味での医学的リハビリテーションが発展していったのは、戦争の影響であることを指摘したわけですが、ここで詳細を述べますと、第一次世界大戦で戦傷を負った傷痍軍人に職業復帰をするための更生への取り組みがアメリカで確立したことがきっかけでした。つまり、第一次世界大戦後のアメリカにおいて、戦争で傷病を負った軍人が社会復帰できるようにと医学的な機能回復訓練が取り入れられたことが始まりです。当時、戦傷者を多数抱えたアメリカでは戦傷者の社会復帰が社会問題化し、これを国家の責任で対処する必要性に迫られていました。こうした社会の動向に対して、政府がある施策を講じる必要性に駆られていた内情が存在したことからリハビリテーション的な取り組みが本格化したといえます。さらには、リハビリテーションが傷痍軍人の機能回復訓練に対する医学面でのアプローチはもとより、疾病者の職業訓練や教育訓練に関しても社会復帰できるようにと医学方面以外の多方面にもリハビリテーションが広く行き渡っていきました。そして、それらが周知のように職業的リハビリテーション、教育的リハビリテーションあるいは社会的リハビリテーションと呼ばれました。ゆえにリハビリテーションには広い概念形成を伴ったものであることが、ここからも改めて分かるかと思います。
ところで、戦後復興に当たっては、当時の生産技術の向上だけでなく、医療技術の進歩も目覚ましいものがあり、杖や車椅子、義足(手)も改良・開発され進歩していきました。ハード面の充実もさることながら、戦傷者がなんとか一人前の人間として社会に復帰できるようにと、医学的リハビリテーションの需要も高まっていきました。また、当初の医学的リハビリテーションは、主に職業復帰を中心として行われていた治療・回復の手段でした。具体的には、運動療法、電気刺激、マッサージ、温熱療法などの治療が施されていました。それが、次第にアメリカ国内で広がり社会的にもその効用が認められると、その過程でリハビリテーションの治療法である作業療法や理学療法の意義が確立していくことになりました。つまり、ここの歴史的経緯の中での重要な点は、医学的リハビリテーションが疾病兵以外にも「障害者の治療において重要」だと認識されたことがひとつのポイントになったかと思われます。
医学的リハビリテーションの定義の推移を詳しくみますと、アメリカでは1942年に全国評議会において『リハビリテーションとは、障害者を、彼のなしうる最大の身体的、精神的、社会的、職業的、経済的な有用性を有するまでに回復させることである。』と定義されました。その後、1968年にはWHOが『リハビリテーションとは能力低下の場合に機能的能力が可能な限り最高の水準に達するように個人を訓練あるいは再訓練するため、医学的、社会的、職業的手段を併せ、かつ調整して用いる。』と定義づけしています。さらに、1982年に国連の総会で、「障害者に関する世界行動計画」が決議されたのですが、そこでは『リハビリテーションとは、機能障害者が、身体的・精神的・社会的にもっとも適した機能水準を達成できることを目的とした、目的志向的かつ時間を限定した過程を意味する。すなわち、それは、彼らに、自らの人生を変革するための手段を提供することを目的とする過程である。これには、(例えば、補助具などの)機能の喪失や機能上の制約を補うための手段ならびに社会的適応あるいは社会的再適応を可能にするための方策を含む。』とされました。
端的にいって、リハビリテーションは機能障害などを補填する役目を担っているわけですが、WHOの障害の定義づけによって、障害の概念を3層に分類し階層化して把握することで対象者が明確化されてきました。そして、障害者の分類を明確化するのに必要なツールとして使用されたのが、WHOの国際障害分類でした。(1980年にWHOは国際障害分類(ICIDH)を発表しました)3つの障害レベルとは、impairment(機能障害、形態障害)、disability(能力障害)、handicap(社会的不利)のことです。Impairmentとは障害を生物学的なレベルでとらえたものであり、たとえば片麻痺や、下肢切断などです。また、Disabilityとはimpairmentのために生じる能力面での障害で、たとえば文字が書けなくなることや箸が持てなくなることなどです。3つ目のHandicapとは、社会的な存在としての人間のレベルでとらえ、disabilityが社会生活の上でどの程度不利であるかを問うものとされました。
先に述べましたようにICIDHの意義は、障害を3つに階層化したことなのですが、これに
よって障害者の捉え方がより明確化できるようになりました。しかし、ICIDHでは障害を捉える上で障害のマイナス面のみに注目しているという批判が残りました。それから、障害を時系列的に捉えているという批判も起こりました。それらの批判が元でICIDHの見直し作業が始まり、ICF(国際生活機能分類)に改変される機運に繋がっていきました。
ICFについては、またの機会があれば書きたいと思っています。
ここでまとめに入りますと、リハビリテーションが動かなくなった身体機能の回復であるとしますと、障害に対する正確な理解が必要となり、障害の内容を分類・整理しなければならなくなり、そこで使用されたツールがWHOによる分類法でした。整理・分類していく過程で気づいたことは、障害をひと括りにして議論することは、障害を異端視することに繋がる危険性があるということです。障害者とは、こういうものだと単純に答えを出すのは思考停止を招いてしまいますし、偏見を伴った見方を固定させることにもなりかねません。また、目の前の現実に対して分かった(障害者とは何か)フリをして、何をなすべしと決め付けること自体が驕りの表われに他ならないと思います。当事者意識からすれば、囚われた観念を振りかざすことはいたずらに「障害者」という語の言葉遊びをしているように見えるでしょう。それよりも中身のないうわべだけの理解だけで自己満足しているよりも、多元的な視点から見直し作業をすべきでしょうし、そのように自省を促した方が効果的だと考えています。