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(回答先: 投稿者 金十字架 日時 2008 年 3 月 10 日 20:59:17)
幼少のころ、わたしは与えることを学んだ。
文明化されるにしたがい、
この恵みを忘れてしまった。
自然のなかで暮らしていたのに、現在は人工的な環境のなかで暮らしている。
昔は、小石のひとつひとつがわたしには大切であった。
成長する木々の一本一本が、崇敬の対象であった。
今、わたしは白人といっしょに、風景画の前で礼拝する。
その絵は金銭的価値があるのだそうだ!
このように、インディアンは作り変えられてゆく。
自然の岩を細かく砕いてブロックを作り、
近代社会の建物の壁の一部にするように。・・・・・・・・・・・・
最初のアメリカ人(訳注=先住民族を指す)は謙虚な自尊心を持っていた。
その性格にも教えにも霊的にも傲慢さは見られなかった。
言葉をみごとにあやつるものは語らぬ被造物より優れている、
などと考えたりはしなかった。
それどころか、それはわざわいをもたらす才能と思われていた。
最初のアメリカ人は沈黙を深く信じていた。
沈黙は完全な平衡のあかしであるから。
沈黙とは、体と精神と魂が完璧な釣りあいをとっていることである。
自己を保っている人は、葉の一枚たりとも動かぬ木のように、
小波ひとつ立たない輝く池のように、つねに静かで、
実存のあらしに揺すぶられることがない。
無学な賢者の考えによれば、
もしあなたがその人に「沈黙とは何か」と尋ねるならば、
その人は、「沈黙とは大いなる神秘!」「聖なる沈黙はそのお方の声!」
と答えるであろう。
もしあなたが「沈黙のもたらすものは」と問うならば、
その人は、「自己抑制、真の勇気、堅忍不抜、尊厳、そして崇高。
沈黙は人格にとって隅の親石である。」というであろう。・・・・・
宇宙と一体化して
男は自分のティピ(訳注=北アメリカ先住民族のテント小屋、円錐形の天幕)
のなかで、地べたに座り、生命と人生について、またその意味について
瞑想している。
男は、あらゆる被造物から仲間としての愛を受け取っている。
もろもろのものが構成するこの宇宙と自分が一体化するとき、
自分の存在の深みのなかに文明の神髄が吸い上げられることを知っている。
自然とともにいる人が、このような発達の仕方を捨ててしまってからは、
立派な人格形成はむずかしくなった。・・・・・・・・・・・・・・・・
昔、人々は文字どおり大地を愛するためにやって来た。
母なる大地の力を近くに感じようと、
土の上に座りこみ、身を横たえる。
大地に触れることは肌にいい。
だから昔、人々はモカシンを好んで脱ぎ捨て、
裸足で聖なる大地の上を歩いた。
ティーピーを大地の上に建て、土で祭壇をしつらえた。
空を飛ぶ鳥は、羽を休めようと大地に降りてくる。
そこはすべての生きものが最後にたどりつく場所。
そこで魂は安らぎ、勇気づけられ、清められて、癒される。
だからこそ年老いたインディアンは、
命の源から離れて動きまわることはせず、いまだに土の上に座る。
土の上に座り、横たわることで、
より深く考え、より鋭く感じることができるから。
生の不思議がよりくっきりと見え、
生きとし生けるものを、より身近に感じることができるから。
「風のささやきを聴け」より引用