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kanonです。
硬いお話に入る前にアニメの話題から始めさせていただきます。
先日、予約注文しました実写版の「キャプテン」(室賀 厚監督2007年、原作 ちばあきお)のDVDが手元に届き自宅にて鑑賞しましたので、それを少し紹介させていただきます。
当時、私はこの作品をリアルタイムで読んでおり、主人公の谷口少年の姿にすっかり魅せられた記憶がございます。口下手で人前に出ると上がり癖のある谷口少年が、当初、決してリーダー的な逸材とはいえず、どちらかと言えば、のんびり屋タイプの少年で人の上に立つタイプではなかったのですが、ひょんなことから野球部のキャプテンを引き受けたことで、のんびり屋ではいられなくなったのですから、さあ大変。このようにして、「キャプテン」のドラマの幕が開かれます。さて、チームメイトの誤解でキャプテンに指名された谷口少年は、それを断わり切れずにキャプテンを引き受けたことを後悔し、自分の力量とその置かれた立場の狭間で何度も挫折しそうになるのですが、両親の支えもあり、何とか立ち直るきっかけをつかみました。それからは、ひたむきに野球に取り組むようになり、陰の努力を続けることで、野球の技術はもとより精神面でも次第に実力をつけていく過程が映画では描かれています。谷口少年を通して「努力とは何か」を行動で示すことの重要性が問われている映画だと思いました。
努力しないで、口ばかりの人はいただけませんね。(笑)
少年ジャンプ誌に掲載されたのが1970年代の前半でしたので、それから約35年を経て実写化され映画となった名作でございます。
映画『キャプテン』のオフィシャルサイトには、以下のような紹介文がありましたので、一部省略して紹介させていただきます。
『谷口、丸井、イガラシ、近藤と代々の墨谷二中野球部キャプテンを主人公にしながらチームを追い続ける独特の作風で、青臭い中学野球のリアリズムを追求した本作品は「月刊 少年ジャンプ」(当時は別冊少年ジャンプ)で連載をスタートさせて以来、現在に至るまで、様々な世代を超えて愛され続けている。』
『本作は、なかでも特に人気の高い「谷口キャプテン時代」にスポットを当て、谷口の転入から、神社での父との猛特訓、ナインの成長過程から宿命のライバル・青葉学院との死闘までをこと細かに描写する!! 』
繰り返しになりますが、人の見えないところで、汗水を流して努力する谷口の姿勢がナインの共感を誘うことになるわけですが、この作品で私が共感したのは「普通の人でもひたむきに努力すればきっと報われる」という至極当然の出来事が肯定的に描かれているところです。そして、谷口は決して地位や名誉のためにキャップテンになったのではないことを申し添えておきます。
閑話休題。
個人の怒りを社会に対しての諸矛盾の怒りにまで高めることは、是非とも必要な作業だと思っています。自分の身の丈に合ったところから考えを巡らせることで、今ある限界を乗り超え、違った視点にまで辿り着けれればと自身との挌闘を繰り返しています。
身近なところを巡らすと、ある人に地位や名誉があるからと言って、その人に媚びる必要性はないのですが、世の常としてどうしても下手にでてしまい自分を押し殺してしまいます。そういった必然性はないのにもかかわらずです。
では、社会的な地位や立場の違いで人の優劣の度合が違ってくるのは、果たして普遍的な命題といえるのでしょうか?答えは否です。例えば、ある一定の地位を得た人間が、報酬に対してのイニシアティブを握ることで、汗水を流さずに高い報酬を得るのは決して望ましい形態ではないでしょう。
しかし、個人の努力によってある資格や技能を取得し、ある特殊な能力を有するようになった場合において、その人がそれらの資格や技能に関係する仕事に従事している限り、常人に備わっていない技量を有するということで、ある一定の報酬を約束されるのは当然のことですし、また、それに携わる人の数が限られれば限られるほどその資格の価値は増大していくでしょう。
努力で培った技能を労働力としてみた場合、その労働力は他に比べて価値を有するといえましょう。それで、社会的な関係から人間の価値を推し量った時に、個人的なものは、一旦、蚊帳の外に置かねばならないのですが、それこそが人間の物象化に他ならないのです。だから、ある人間が社会的に優遇されているのは、その人の個人的な資質に向けての尊敬の念ではなく、本来的には社会にどれだけ有用な技量を有するか否かで判断されると考えても間違いないでしょう。ゆえに、個別的に人間の度量がいかに優れていようとも、その能力が社会に還元されるシステムの中に組み込まれていないならば、それは通俗的に述べますと、その人は社会的に評価される可能性が極めて薄くなるのが実社会での現実といえるでしょう。
社会的に評価される資格や地位を得ることが、真に人間性を高めたり自己啓発を促したりすることに結びつくことになるのでしょうか?これについても、残念ながらそうとは言い切れません。汚職による腐敗や規律違反、賄賂や談合など、枚挙にいとまがいほどに利権や金権が蔓延るのはその地位に昇った者が犯しやすい過ちですし、それは疑いもなく自己保身によるものだからでしょう。
人間の精神がそこで立ち止まると、その地位を死守しようとする働きが生じ、現状のルールの変更を拒む傾向へと向かいます。しかし、その流れに沿った言動を行ったとしても、社会的な評価はその傾向を読み取ることができません。つまり、世論も同様に保守化の傾向を備えているからと思いますゆえに、そのような評価は表層面での理解にとどまざるを得ません。
一方、人間精神を総合的に評価する側から見た場合ですと、現状追認型の人間は既にその場に停滞しているとみなされるので、固定化された観念を抱く危険性を伴ったものと判断できるでしょう。したがって、地位や名誉のみに執着しないこと、つまるところ深層面でのある構えを身につけることが人間理解の本質に接近することに繋がり、そこにこそ、私憤から公憤への転機の訪れが宿っていると考えます。さらに、そこから生成変化する現実を肯定し理解しようと努力を傾けること。言い換えれば、困難な思考を繰り返し続けていくことが、建て前に捉われることのない物事の確信を突いた判断を養うことになるのではないかと思っています。