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最近「いじめ」というものを考えている。
仮に「お前、一度、死んだ方が良いんじゃない?」というような言葉を言ったという行為があったとする。
それで「相手が本当に死んでしまった。(自殺によって)」とする。
これ、どちらが加害者で、どちらが被害者だろう?
最近の「取り決め」では「いじめられた者がイジメと感じたらイジメ」なのだそうであるが、オイオイという気もする。
多分であるが「死ね!」という言葉で「本当に死んでしまう者」では、この先「厳しい世間を生き抜く力はない」
神は「耐えきれない試練を与えたりしない」という事も聞くが「仮に、単発(長期的な連続したものではない)の過激用語」でアッサリと逝くような者には「根本的に生きる能力がない」と推測できる。
これで「誰々が死ねと言ったので死にます。」というような遺書でも残されたなら、たまったものではない「交通事故にあった」ようなものであるかもしれないが、このような事例を「地雷を踏んだ」というのだろうと思う。
仮に「遺書」がないにしても、「死ね!」と言った者の心には「大きな傷跡が残る」という可能性が高い。
極端に言えば「死ね!と言われて簡単に死ぬような者の存在」が「根本的な間違い」であり、歩く地雷のごとき「大迷惑」なのかもしれない。
「イジメ」においては「簡単に、状況判断などできない」だろうと思う。
もちろん、イジメはないに越した事はない。
しかし、日本という国は「集団主義」「グループ主体」に大きく傾いた価値観を有している。
例えば「リレー」という競技があるが、仮に「ドン亀のような者とチームメイトになったら、その時点で栄光から遠ざかる。」
価値観の問題でもあるが、その時点で「地雷を踏んだ」と諦めるか、ドン亀を鍛えるという方法論に「希望を見いだす」という事になるだろう。
後者を誰が責められるであろう?
でも、これは「傍目から見れば、イジメ」に見えるだろうし、実際に「ドン亀本人もイジメ」と感じる可能性が高い。
「イジメ」というのを根絶するためには「地雷と思ったら回避(無視)する自由」を保証するという事が必要かもしれないが、これも「イジメの一種」と思われている。
では、イジメに値するような「低能力の者を抱えているリスク」を世間が認めるのか?というと「決して認めたりはしない成果主義が蔓延している」
「いじめられる側に責任はない」という意見があるが、本当にそうなのか?
多分であるが、本来的には「いじめられる者」に責任はない。
しかし、現実の世間においては「自由競争の弱肉強食の世界」にもなっている。
理想と現実の乖離がある中で、いじめられるような者は「地雷」なのだろう。
この偏見がイジメを呼ぶのである。