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kanonです。
下記の投稿からの自己レスです。
リハビリテーション医学
http://www.asyura2.com/08/idletalk30/msg/162.html
投稿者 kanon 日時 2008 年 2 月 10 日 12:15:52: FUgy0.1v81/ao
自立について、これまで「経済的自立」、「身体的自立」と視点を変えながら拙論を綴ってきたわけですが、最後に「精神的自立」について述べてみます。これを本気で語るには、既成の自立の考え方にもメスを入れる覚悟が必要になってきます。(笑)デカルト的にいえば「すべてを疑え」ということになるでしょうが、ここでは格式ばらずに気持ちに余裕を持たせながら自分の考えを提示していきたい所存です。といいましても、自分の思考を働かせるには、何事にも二元論的な単純思考に走らずに、曖昧なままで思考を停止せず、また、短絡的に結論を導くことのないよう、絶えず自己反省を促す意識を自身に強いていく作業を伴ったものでなければならないと考えています。
さて、「精神的自立」とは何かと問われると、一般的には「自分のことは自分で決めることができる能力」と応えることができるでしょう。また、自立は一方で自律(autonomy)と呼ばれることもあります。自立が主体的に自分の足で立つことに対して、自律は自己をコントロールしたものに従う要素(判断)が加味されるかと思います。ちなみに自立と自律を辞書で調べてみると下記の違いがありました。
「自立」…他の助けや支配なしに自分一人の力で物事を行うこと。ひとりだち。独立。
「自律」…他からの支配・制約などを受けずに、自分自身で立てた規範に従って行動すること。
また、既に述べたように「身体的自立」では社会福祉援助の方法論から眺めた場合ですと、自立、自律のいずれの援助も効果をもたらすものとして位置づけされています。それで、ひとまず「精神的自立」が自己決定する能力に関係しているので、自立よりもむしろ自律に重きを置いた考えた方と受け止めて話を進めさせていただきます。まず、自律(autonomy)の語源を探っていたのですが、立岩真也の自己決定(自律)の捉え方が分かりやすかったので紹介します。
それによりますと、『A:近代社会の人間のあり方の基本にある原理である。だが同時に、B:この社会の中で自らの存在と決定を認められてこなかった人々の権利として、新たに主張された。日本で、医療や福祉の提供者側の倫理原則としてではなく、生活する自らのあり方に関わる原則として主張され出すのは1970年代、言葉として多用され出すのは1980年代に入ってからになる。そしてこの語は、翻訳語というより日本語としてわかりやすくもあったのだろう、よく使われるようになり、様々な主張の中に入ってきた。』(立岩真也「自己決定」の項、『応用倫理学事典』、2007予定、丸善)と述べられています。
つまり、自己決定が英語のautonomyに対応するものとして、A・Bの二つの意味合いが自律に流れ込んできたと見ることができるかと思います。まず、Aで述べられた自己決定とは近代法の基礎原理である私的自治を彷彿するものでありましょう。autonomyのAuto は self すなわち 「自主的な」、nomy は nom を語源としたcontrolなので、自主的な管理となります。そこで、私的自治と自己決定の違いについて考えた場合、例えば民法の中で契約自由の原則がありますが、そこで当事者同士が契約したことに関しては、原則として国家の介入が認められませんが、自己決定で扱う決定権の範疇というのは、そういった法に縛られないものをも射程しているものと考えられます。だから、Aでいうところの自己決定とは、法的に整備された国民主権を包含した内容であり、その範囲内においての権利・義務を取り扱った内容で、どちらかといえば私的自治思に近いかと思います。次にBの自己決定についてなのですが、これは説明するまでもないことなのでしょうが、日本の文脈を中心に読み解けば、マイノリティ側からの権利実現に向けた生存権の確立が発端で、その後、社会保障などの法律が整備され、社会福祉施策の拡充に繋がった動向と読めるでしょう。
そこで、現今の段階で問題になりつつあるところを足早に指摘いたしますと、A・Bの自己決定を阻むものとしてパターナリズムの台頭が上げられるかと思います。(ここで、いうパターナリズムとは家父長制度ではなく、新国家主義に基づく、教育現場における日の丸、国歌の強制、あるいは監視・管理社会の強化や適者生存思想につながる新自由主義観などがあげられる)本論から話が逸れますが、2004年に成立した国民保護法や市町村で成立している生活安全条例の動向などに留意しますと、例えば、国民保護計画では、既存の地域での様々な計画や取り組みの蓄積を活用できることが明記されていて、もしこれが地域に浸透すれば、今まで住民主体であった地域福祉計画はトップダウン的なものに摩り替わるでしょう。極論になりますが、もし、行政や警察主体の云わば官僚制のヒエラルキーが導入されてしまえば、戦前、戦中の「隣組」に類似した、思想統一と相互監視のシステムが、個人の生活の中まで侵食することになりかねない恐れがあることです。また、共謀罪の法案や憲法の改正論議なども、それらの類だと思っています。
話を戻しますが、日本は、90年代に入ってから新自由主義のイデオロギーを採用し、「自己決定=自己責任」の図式が強調されるようになっていったのですが、この自己決定を多様性の選択(自由)として世間に認知させたことにより、当人の意思による決定権が重視されるようなったと世論が錯覚して受けとめることになりました。つまり、自立した個人を重んじることは、社会のあらゆる場面で個人の自己選択に委ねる方向へ進みはしたのですが、その結果についても全て本人に帰属する方向で片付けられることに繋がっていきました。そして、今の現状ですが、周知のように、その結果や代償としての「貧困」までも自己責任で総括することで、個人の責任に帰せられることになったのです。しかし、自分で決めたものが真の多様性からの選択に染められぬままに、陳列台に配置された中から選び出すしかない選択だったとしたら、それは表面上だけの自己選択になっていたのでは、と疑問を呈することもできましょう。
それでは、なぜ表面上だけの自己決定(自律)に陥っているのか?ここを考えるにあたって、柄谷行人の「倫理21」(平凡社ライブラリー)を織り交ぜ、自律における自由の意味を掘り下げながら、テーマである「精神的自立」から逸脱しないように概説してみます。さて、柄谷は『自由とは、他に原因がなく純粋に自発的・自律的な行為』と述べます。そのことを踏まえた上で自律の意味を追求すると、純粋に自由な行為というものは存在せず、自発的と思われた行為も既にあるパターンをなぞっているだけの行為であり、自律的な行為も本当のところは他律的な行為だったと解せることになるでしょう。その根拠を柄谷は『原因に規定されない行為は主体がない』として、行為の主体性を退けます。要約しますと、行為の結果を遡及的にさかのぼると、何かの原因があるわけで、究極的には自発的な行為は消滅するということです。では、自律した行為とは一体どういった行為をさすのでしょうか。柄谷はここで、カントの考えを紹介しながら自説を展開します。それは、当人が「自由であれ」(至上命令)と規定することによって生ずるものであるとしています。例えば、人が盗みなどのある犯罪を犯したとしたら、その人は当然その罪に対しての何らかの責任が課せられることになりますが、ここで、もし、その犯罪を行ったであろう原因をさかのぼって考えた場合、そうしなければならなかった諸原因が顕在することになるでしょうから、罪の原因は自己の外ということになるでしょう。しかし、その人はそのことで罪を免れることができるでしょうか?否、たとえ原因が見つかったとしても、その人が罪として選択した行為については、責任が生ずるでしょうし、それが「自由であれ」(ここでは犯罪)と規定することで生ずる自己責任と呼ばれるものだと思います。ちなみに柄谷は、原因と結果を認識することと、その行為の良い悪いを判断するのを区別しています。
ここで、強引にまとめに入らせていただきますが、カント的な「精神的自立」とは自律に関わる内容であり、自己決定を至上命令として自分に課すことになるのですが、それは「今」「ここ」に限定されずに普遍妥当性をもった世界市民的な視野でとらえた至上命令でなければならないといえます。最後に、カントの「啓蒙とは何か」の中から冒頭の有名な言葉を記して「自律/自立」の話を締めくくることに致します。
『啓蒙とは、人間が自分の未成熟状態から抜けでることである、ところでこの状態は、人間がみずから招いたのであるから、彼自身にその責めがある。未成年とは、他人の指導がなければ、自分自身の悟性を使用し得ない状態である。・・・この状態にある原因は、悟性が欠けているためではなくて、むしろ他人の指導がなくても自分自身の悟性を敢えて使用しようとする決意と勇気とを欠くところにあるからである。それだから、「敢えて賢こかれ!」、「自分自身の悟性を使用する勇気をもて!」これがすなわち啓蒙の標語である。』(カント「啓蒙とは何か」岩波文庫)