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何でだか知らんが、「馬鹿を馬鹿と罵る事」はいけない事らしい。
Kはここが「どうしても納得できない」
無論、「侮蔑の言葉を吐きかける」のは出来れば避けた方が良い。
その「侮蔑の言葉」が憎しみから発せられる「根拠無き呪いの呪文」であるなら、止めた方が良いかもしれない。しかし、まあ、呪いの呪文であるならば「もう、冷静では無くなっているから理性のブレーキが効かない」
Kが問題にしているのは「冷静な論理思考から、馬鹿と結論付き」、それを伝えるのが「いけない事」か?という命題である。
昨今は「癌の告知」も増えている。
「癌を告知しなければ癌が治る」のなら別であるが「癌と知らない事で発生するリスク」もあり、「癌と知った事によって出来る対処法」もあるから、告知がされているのだろう。
「精神病が疑われる人」には「一度、専門家に見てもらった方が良い」というのが、本当の意味での一番の親切だろうとも思う。
それが、共産党を中心にしたエセ人権思想が「言葉狩り」を行った。
「聞きたくない言葉」を差別用語として「さも、そのようなものは存在しない」かのように体裁を繕って「イデオロギー的な満足を得た」のである。
屁理屈によって「本当に必要な言葉のやり取りに支障が出るようになった。」のである。
父親などが子供にさとす時は「言葉など選ばない」と言う事が多いだろう。
「馬鹿と思えば馬鹿と言う表現を使用するだろう。」
「愛情を持っているから使用できる言葉」と「聞きたくない言葉」は同一性を持っている。
その言葉に対して「拒否反応を示す」という事は「人間が腐っている」
自分には「他人のさとされる事はない」との思い上がり的思考の先に「その反応がある」
「良薬は口に苦し」ではないが、人間は誰でも間違いを犯す。
問題は「その時に他人の言葉に耳を傾けられるか?」である。
本当の意味で「心配をしてくれる人の言葉」こそ「耳に痛い」のだろうと思う。
「馬鹿に馬鹿と言わなければ、言葉など通じる事はない」
そうでなくとも「日本人のコミュニケーション能力は高くない」
無口(愚痴を言わずに)で、不言実行が美徳とされる「馬鹿な文化」を引きづっているいるから、言語能力が退化している。
馬鹿のドミノ倒しである。
(ドミノ倒し=連鎖反応で崩れ去っていく事)