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Kは思うのですが
「他人の施しは受けない。俺は乞食ではない」というのは正しいとは思わない。
やせ我慢をするくらいなら、人の好意は「ありがたく受け止めるべき」だろう。
しかし、「受けた恩」は返さなくてはならない。
ただし、返すのは「必ずしも、恩を受けた人個人に対してでなくとも良い」
例えば、親から受けた恩は「全てを親に対して返す事は事実上不可能である。」
だから、親から受けた恩は「子孫に同じ事をしてあげる」というように考えるべきである。
もちろん、親に対しても出来るだけの恩返しはするべきであるが、親は子に対し生きている限りは愛情を与えただろう。それは、生きている時間にズレが生じているのであるから、返しきれないが、親が死んでしまったら、その分は「自分が自分の子供に対して、生きている限りは愛情を与え続ける」と言う事で巡回していくのだろう。
Kは人から親切にされた事が結構ある。
旅先で困っていた時に「一面識もない人に助けられたりする。」
「ありがたい」と感じても、その人に恩を返す事は出来なくなっている。
「名前も知らない行きづりの人」だ。
人から受けた好意が「ありがたい」と思ったのなら、自分も人が困っていた時には同じ事をしてあげる。
社会の中で受けた恩は、社会に返すと言う事で、上手く連鎖がされれば、社会全体が「優しい社会になっていく」
それで良い。
Kの個人的な「損得帳」を見れば、圧倒的に「受けた恩」の方が多いという気がする。
「人の施しは受けない。俺は乞食ではない」という意地を見せるのも良いが、苦しい時の人の好意はありがたく受け取る代わりに「受けた恩は、社会に還元して帳尻が合えばいい」と考えた方が「優しい社会」になる。
しかし、「他人の物は自分の物、自分の物は自分の物」という人もいる。
このような人には「優しさを与えても、連鎖しない」
「もらった物はもらうだけ、絶対に人に物をあげたりはしない」
基本的には「人は自分の食い扶持は自分で稼ぐ」と考えるべきである。
しかし、人には病気もあるし、家族の病気で働きたくとも働けないような時もある。
その場合には「助けを受ければ良い」
しかし、その分、自分に余裕のある時には困っている人がいたら助ける。
生涯の終わった時「損得帳は帳尻が合っている」くらいでないと「乞食の生涯だった」と思うくらいの意地は持ってほしい。
生涯の損得勘定が「大幅な得」で終わった人がいたら、その分「損で終わった人がいる」のである。
「得で終わった人は、その分、他人を不幸にした人生を送った」と言う事である。
人間としての尊厳を持ち、意地があるのなら、損で終わるくらいの生涯を目指すべきではないだろうか?