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「転生-古代エジプトから蘇った女考古学者」 著ジョナサン・コット より抜粋
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もっと身近な世界についても、ウィリアム・ジェイムズは一八六九年に、「非日常的な意識状態」についての抗議の中でつぎのように述べている。「われわれは健康と病気の間に、普遍的な区別をもうけている。しかし、実際は両者の間に明確な区別はつけられない。ある症状は、それ単独では病的ではない。症状が、どの部位に起きるかによって、それが病的かどうかが決まるのである。・・・われわれは睡眠がどういうものか知っている。しかし、もし何も知らなければ、睡眠は恐ろしい病気である。同様にわれわれが夢を病的なものだと見なしていないのは、それが習慣だからである。しかし、もしそうでなければ,大変な医学的脅威ということになるだろう」
ジェイムズは、どんな人間の中にも「同時並行的な二つの意識があり、その一つは二次的な潜在意識下の自我」であると指摘する。ジェイムズは、ある八歳の少年のケースを紹介している。この少年は木から落ちて激しい脳腫瘍に苦しんだ後、複数の人格の間を行き来するようになったふしがある。ジェイムズはまた、三歳の時から、夢遊病に悩まされている女性のケースにもふれている。「彼女の人生は、現実の歴史というより、途方もないロマンスのように思われる」と彼は述べている。
ジェイムズにとって、健康とは基本的にバランスの問題である。彼は次のように述べて抗議を締めくくっている。
完全に健康であることを示す純粋に客観的な基準はない。いかなる異常も、本人にとっては有益ならば正常と見なすことができる。ある面では人を健康にする働きかけがあるものでも、別の面においては、その人に害を及ぼすことがある。さらにいえば、われわれはみな社会の役に立つための道具だといえる。もし、感覚過敏や強迫観念や精神異常などが、そのほかの気質と結びつくことができるならば、われわれは社会においてよりいっそう役立つ存在になりうる。そうした観点から見れば、異常があるからといって不健康と呼ぶべきではない。むしろ、その逆である。
問題は、ノルダウのような作家が、異常に対する個人的な嫌悪感に客観的な権威を与えようとして、たんなる方便として症状に説明的な名前をつけて使っている事にある。医学用語が、人を裁く為の、ただの権威ある物差しになっているのだ・・・。
たとえ自分が感覚過敏だったり、激しい衝動や強迫観念をもっていたとしても歓迎すべきである。それによって自分たちの経験の地平がいっそう広がり、人類の遺産をよりよいものにする貢献をなしうるのであれば、それは歓迎に値する。健康という概念を狭めるのではなく、逆に拡大し、どんな弱点も致命的ではないと見るべきである。要するに、人生を恐れるべきではないのである。
このような見解を知った事がきっかけで、私は二人の心理学者を訪ねることにした。二人とも、自分自身を知るとは,自分の持っているダイモン(守護神)の存在に気づき、それをはっきり認識する事であり,妄想の産物として片付けてしまうべきではないと理解している人物だった。心理学者のジェイムズ・ヒルマン博士は記している。「人間の存在論と、その真理や本質や性質の根に下りてゆくためには、虚構という様式や詩的な手段を用いなければならない。・・・詩的で、劇的な虚構こそ、実際のわれわれの精神生活のあり方である。われわれの魂の人生とは、想像力からなる人生である」
このジェイムズ・ヒルマン博士こそ、私がインタビューを行うために最初に訪ねた人物だった。私は博士に、ダイモン、多神教、既往暦に見られる虚構性,「黄泉の国」としての夢の世界などのテーマについて話を聞く事にした。博士には、これらのテーマについて「分析の神話」、「夢とよみの国」、「内的な眺望」、「ヒーリング・フィクション」などのすぐれた著作がある。
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以上抜粋おわり
何故かこの本をレジに持っていってしまった私は仕方なく購入してここに手書きで転載迄しているのだ
何故だ?
気まぐれに違いない
そのきまぐれでここに来た事は偶然ではなかった
私はここで同じ経験を持つ自分と出会った
それが隠されてきた本来の目的であった
互いを伝え合う為に我々は個々に在り
サインだけを携えて
混在する感情の波をくぐり抜けて正確に出会い
絆を確かめ合う
エネルギーは保存されている
一度信じれば信じ続けるのにあとは力はいらないはずだが
人の常なれば疑う事には神経を使わずにどこまでも疑い続ける事が出来るのだ
さぁまやかしに惑わされない諸君
いよいよ大衆のお気に召す"魅力的"な紙面作りにいそしんでくれたまえ