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−−「アウシュヴィッツ『ガス室』の真実/本当の悲劇は何だったのか」−−
第3章 「ガス室」は実在したか?
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イスラエルのガザ空爆・侵攻から2か月が経とうとして居ます。
報道は減りましたが、医療状況の悪化をはじめとする現地ガザの民生の状況には、深い憂慮を抱かずに居られません。
−−報道の減少は、逆に、国際社会の関心の低下を招くのではないかと憂慮して居ます。
イスラエルのガザ侵攻と、それによって生じたおびただしい民間人の被害に対する私の抗議として、特に、何の罪も
無い子供たちの被害に対する私の講義として、私の著作である 『アウシュウィッツ『ガス室』の真実/本当の悲劇は何だったのか』
(日新報道・1997年)の一部(第一章)の全文をお送りします。
コピペによる転送、転載を歓迎します。以下の文章の一部分でも全体でも、自由に御利用下さい。ただし、文章の変更は
お断り致します。文献参照、写真、グラフ、図、などは、労力の問題と技術的理由から、割愛させて頂きましたので、
御覧になりたい方は、本の実物で御覧下さい。
イスラエルのプロパガンダである「ナチのガス室」をまだ信じて居る御友人、御知人などにメールとして転送される事や、
各種掲示板に貼り付けて下さる様、お願い申し上げます。−−イスラエルがガザで行なった民間人殺戮への抗議活動として、
そして、民生状況の劣悪化への抗議として、御協力をお願ひ申し上げます。
これは、私のインティファーダです。
http://spn05738.co.hontsuna.com/article/1059522.html
(この本についてのサイトです)
2009年2月23日(月)
西岡昌紀
(以下本文/転送・転載歓迎)
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(第2章 「ユダヤ人絶滅計画」は実在したか の続きです)
第3章 「ガス室」は実在したか?
−−ここまで読んできた皆さんの中には、「ドイツがユダヤ人を迫害したこと自体は認めるのならば、『ユダヤ人絶滅計画』があろうとなかろうと、大した違いではないのではありませんか」とおっしゃる方があるのではないかと思います。多くの人々が殺されたことに変わはないのだから、そんなことを論じても仕方がないではないか、というわけです。
これは、もっともなご意見です。私は、そういう見方に正しさがあることを否定はしません。しかし、そうした疑問を述べる方たちは、疑問を投げかける相手が間違っていることに気付いておられないのではないかと思います。即ち、「ユダヤ人絶滅」という計画があったかどうかに固執しているのは、私や見直し論者(リビジョニスト)の側ではなく、「定説」側論者の方なのです。これは非常に重要な点なので、強調しておきます。彼ら「定説」側論者たちの方こそが、「ユダヤ人絶滅」の実在に固執して、一歩も譲らないのです。仮に皆さんが、「ドイツがユダヤ人を迫害したことは事実なのだから、『絶滅計画』の有無など重要ではないではないか」とおっしゃったら、私は、「そういう見方もあるでしょう」とお答えすると思います。しかし、彼ら「定説」側の論者たちは、猛反発を示すはずです。それどころか、彼らは、皆さんに向かって、「あなたは、ナチスの弁護をする気か」などと言い出すかも知れません。びっくりしてはいけません。それほど、「定説」側論者たちは、「ドイツは『ユダヤ人絶滅』を計画した」という主張に固執しているのです。その理由が何なのかは後で論じますが、そこに極めて政治的な背景があることだけは、言っておきたいと思います。−
(西岡昌紀『アウシュウィッツ『ガス室』の真実/本当の悲劇は何だったのか』
(日新報道・1997年)88〜89ページより)
−−同様に、「ガス室」の有無についても、「さしたる違いではない」とおっしゃる方がおられるかも知れません。しかし、これも同じことで、皆さんはそう思ったとしても、「ガス室」があったと主張する「定説」側論者たちは、そうは思わないのです。だからこそ、「マルコポーロ」の私の記事についても、私は記事の中で、ドイツがユダヤ人を迫害したこと自体はあれほど明快に認めているのに、あのような反発が起きたのではないでしょうか。それでは、その「ガス室」は実在したのかどうか、検証したいと思います。−−
(西岡昌紀『アウシュウィッツ『ガス室』の真実/本当の悲劇は何だったのか』
(日新報道・1997年)89ページより)
−−先ほどもお話しした通り、これだけ「ドイツはガス室による大量殺人を行なった」と言われながら、その「ガス室」で殺された死体は、一体も確認されていませんでした。また、アウシュヴィッツでソ連軍が押収した膨大な書類や図面の中に、処刑用ガス室の設計図が結局見つからないことも既に述べました。この図面の問題については後でさらに触れますが、いずれにせよ、このように、「ガス室大量殺人」については、客観的な物証が決定的に欠如しているのです。しかしながら、私がそう言うと、皆さんは、「でも、アウシュヴィッツなどには、現に『ガス室』の実物が公開されているではありませんか」とおっしゃるに違いありません。当然の質問です。しかし、ちょっと待って下さい。それら現存する「ガス室」についてはこれから詳しくお話し致しますが、その前に、先ず気が付いて頂きたいことがあるのです。仮に私が皆さんに或る地下室を示して、「ここはガス室だった」と言ったとしたら、皆さんは、私のその言葉だけで、そこがガス室だったとお信じになるでしょうか。なさらないに違いありません。「ここはガス室だった」と言うだけでは、そこが「ガス室」だった証明にはなりようがないのですから。倉庫の一室でも地下室でも、それを「ガス室」だと言うだけなら誰にでもできます。ですから、仮にどこか或る建物が「ガス室」として公開されているなら、その建物が他でもない処刑用ガス室であったことの証拠は何なのか、と考え検証するのは、全く当然のことです。ところが、例えば次のような現実を、皆さんはどうお考えになるでしょうか。−−
(西岡昌紀『アウシュウィッツ『ガス室』の真実/本当の悲劇は何だったのか』
(日新報道・1997年)89〜90ページより)
−−「ガス室」があったとされる収容所は幾つかありますが、その代表とされるのは、何と言っても、ポーランドにあったアウシュヴィッツ(ポーランド名:オシュヴィエンチム)の収容所でしょう。アウシュヴィッツ収容所というのは、実は二つの収容所かに分かれているのですが、その両方を含めた意味での「アウシュヴィッツ」こそは、「ガス室大量殺人」が行われた場所として、誰もが耳にしたことのある収容所であるに違いありません。
ところが、そのアウシュヴィッツについて、アメリカやイギリスは戦後、ニュールンベルク裁判でドイツを裁いた時、実は何の実地検分もしていなかったのです。ニュールンベルク裁判は、言うまでもなく、戦後、連合国がドイツを裁くために開いた国際法廷ですが、連合国はここで、ドイツがアウシュヴィッツなどに「ガス室」を作って、ユダヤ人などの大量殺人を行なったという主張を展開しています。ですから、本来なら、この裁判が開かれた際、国際的な調査団がアウシュヴィッツを訪問して実地調査を行なうべきだったはずなのですが、驚くべきことに、当時の連合国はそうした調査を全く行なっていなかったのです。−−
(西岡昌紀『アウシュウィッツ『ガス室』の真実/本当の悲劇は何だったのか』
(日新報道・1997年)90〜91ページより)
−−このことについて、当時のアメリカ当局者は、「ロシア人(ソ連のこと)が許可しなかったので、調査ができなかった」等と説明していますが、それが本当なら、当時ポーランドを支配していたソ連は何故、ポーランドで第三国が実地調査することを許さなかったのでしょうか。また、「ロシア人が許可しなかった」という、そのアメリカ当局者の説明が本当かどうかも分かりません。いずれにせよ、アメリカやイギリスを含めた連合国は、当時、その理由はともかくとして、アウシュヴィッツなどに「ガス室」が本当に存在したかどうかの科学的または司法的調査を全くしていなかったのです。
これは、言ってみれば、殺人事件の通報が為された後、実地調査がなされないまま、関係者の「証言」だけで裁判が行われたようなものです。今日、ポーランド当局がアウシュヴィッツなどで公開している「ガス室」なるものは、こうした不可解な経緯の後、公開されているものだということを、先ずはご記憶頂きたいと思います。−−
(西岡昌紀『アウシュウィッツ『ガス室』の真実/本当の悲劇は何だったのか』
(日新報道・1997年)91〜92ページより)
−−それでは、いよいよ、その「ガス室」を検証してみましょう。先ず、第二次大戦中、ナチスドイツが、自国及び占領した国々に大小多くの収容所を建設し、ユダヤ人他の人々を収容したこと自体は、明白な事実です。(こんなことに疑問を投げかけている見直し論者はいませんので、決して誤解なさらないで下さい。)
問題は、それらの収容所で何が起きたかです。この点が論争の焦点なのですが、今日、「定説」は、ナチスがヨーロッパ中に建設したこれらの多数の収容所の内、ポーランド領内にだけ、「絶滅収容所」(英:extermination camps, 独:Vernichtungslager)という、他とは違った収容所が六つあった、と主張します。即ち、ポーランドを占領したナチス・ドイツは、何故かそのポーランド領内だけに、「始めからユダヤ人絶滅を目的にした収容所を六つ作ったというのです。「定説」側論者は、それら六つの収容所を「絶滅収容所」と一方的に呼び、それら「絶滅収容所」には大量殺人用の「ガス室」があった、と主張します。(日本語では、「絶滅収容所」を「殺人収容所」と記している本もあります)。そして、その「ガス室」によって、多くのユダヤ人他の人々が殺され、死体は焼却された、と主張するのです。
ここで重要なことは、「定説」側論者たちが、ドイツ本国には「絶滅収容所」がなかったと言っていることです。ドイツ本国には、先ほど話が出たダッハウや、ベルゲン・ベルゼンの他、ブーヒェンヴァルト、オラーニエンブルク、ラーフェンスブリュック、ザクセンハウゼンなど、幾つもの収容所がありましたが、これらドイツ本国の収容所は、「定説」によれば、強制収容所(英:concentration camps 独:Konzentrationlager)ではあったが、「絶滅収容所」ではなかった、と言うのです。これは大変重要な点なので、どうかご記憶頂きたいと思います。−−
(西岡昌紀『アウシュウィッツ『ガス室』の真実/本当の悲劇は何だったのか』
(日新報道・1997年)92〜93ページより)
−−このように、「定説」は、ドイツが、隣国ポーランドに「絶滅収容所」と呼ばれる、他とは違う収容所を六つ作ったと主張します。(その六つ以外にも、ドイツは、ポーランド領内に大小、多数の収容所を作っています)。そして、「定説」側の本を読むと、彼らの「教義」において、「絶滅収容所」と「ガス室のあった収容所」は大体、同義語であることが分かります。
これが何を意味するかと言うと、「ガス室」の存否に関する論争は、「定説」側が挙げるそれら幾つかの「絶滅収容所」に「ガス室」があったかどうかに集約されるということです。つまり、「ガス室」があったと主張する側が、「ガス室」があった場所を指定しているのですから、それ以外の場所に「ガス室」があったかどうか論じることは意味がない、ということです。
ただし、これらの「絶滅収容所」の他に、「定説」の側の説明自体がはっきりしない収容所その他が幾つかあることには注意していただきたいと思います。それらは、ポーランドのシュトゥットゥホフ(Stutthof)収容所やオーストリアのマウトハウゼン(Mauthausen)収容所等で、これらの収容所に関する「定説」の説明ははっきりしていません。即ち、「定説」側は、一応そこに「ガス室」があったと言うのですが、それでいて、これらの収容所を「絶滅収容所」には分類していないのです。ですから、彼ら自身、これらの収容所が、「ユダヤ人絶滅」のために建設されたと言うつもりはないらしいのですが、その反面、歴史家によって、全然違うことを言っていたりもします。ですから、この本では、「定説」側の説明自体が不明確なこれらの収容所については論じませんが、これらの内、特にマウトハウゼンの「ガス室」については、「ガス室」としての気密性がなく、青酸ガスを使ったガス室とは考えられない等、幾つもの不合理が多々指摘されていることだけは述べておきます。−−
(西岡昌紀『アウシュウィッツ『ガス室』の真実/本当の悲劇は何だったのか』
(日新報道・1997年)93〜95ページより)
−−そこで、「定説」が「絶滅収容所」と呼ぶその六つの収容所ですが、先ず、それら六つの収容所の名前をご紹介したいと思います。それらは、アウシュヴィッツ(Auschwitz)、マイダネック(Majdanek)、ソビボル(Sobibor)、ヘルムノ(Chelmno)、トレブリンカ(Treblinka)、ベルゼック(Belzec)ですが、これらの発音は、英語、ドイツ語、ポーランド語の内で、日本で定着していると思われるものを採用したものですので、これら三か国語の発音が混在しています(地名の発音など、「論争」する気はありませんので)。この中で一番有名な「アウシュヴィッツ」は、先ほども触れたように、実は、前後して作られた二つの収容所から成っています。
両者は、作られた順に、「第一アウシュヴィッツ」「第二アウシュヴィッツ」と呼ばれますが、後者は、その地名から「ビルケナウ(Birkenau)収容所」と呼ばれることもあり、そのために両方をひっくるめて「アウシュヴィッツ」と呼んで、一つの収容所のように数えることが定着しています。それで、先のようにこれらを一つに数えて「アウシュヴィッツ」としていますが、この後の説明でも、ただ「アウシュヴィッツ」と言った場合は、両者を一括した呼び名だというふうにご理解頂きたいと思います。−−
(西岡昌紀『アウシュウィッツ『ガス室』の真実/本当の悲劇は何だったのか』
(日新報道・1997年)95ページより)
−−このように、「定説」は、第二次大戦中、ドイツがポーランドに「絶滅収容所」を六つ作り、そこで「ガス室」による大量殺人を実行したと主張します。ところが、これらの収容所が存在したこと自体は事実ですが、それらの収容所が、「ユダヤ人絶滅」を目的に建設されたことを証明する文書はありません。前述のように、そもそも「ユダヤ人絶滅」を決定、命令した文書自体が存在しませんし、そんな計画の予算も計上されていないのですから。それでは、「定説」側論者たちは、一体何を根拠にそれらの収容所が「絶滅収容所」だったと言うのかと言えば、結局「証言」なのです。
特に、戦後、連合国に捕らえられ、ニュールンベルク裁判その他の裁判に出廷させられたドイツ人たちの「自白」その他が、「定説」側のそうした主張の根拠なのですが、こうしたドイツ人の「自白」は、非常に信用性が乏しいと言わざるを得ません。その理由は後で述べますが、例えば、皆さんは、連合国が戦後ドイツを裁いた際、多くのドイツ人被疑者に拷問を加え、「自白」を得ていたことをご存知でしょうか?もう一度言いましょう。連合国は、多くのドイツ人被疑者から拷問で「自白」を得ていたのです。−−
(西岡昌紀『アウシュウィッツ『ガス室』の真実/本当の悲劇は何だったのか』
(日新報道・1997年)96ページより)
−−もちろん、全ての自白がそうだったなどと言うつもりはありません。しかし、戦後、連合国によってドイツ人の「証言」が集められた時の状況がこのようなものであったことは、知っておかなければなりません。(この連合国による拷問の事実はアメリカの議会記録にはっきりと記録されており、日本では、国会図書館でこの記録を閲覧出来ます)。
とにかく、客観的証拠はないにも拘らず、「定説」側は、戦後の「証言」などに基ずいて、右に挙げた六つの収容所は、「絶滅収容所」であり、そこでは、「ガス室」によって、ユダヤ人などが大量に殺された、と主張します。ところが、先ず、今日これら六つの収容所の中で、本物かどうかは別として、とにかくそこに「ガス室」とされるものが「現存」するのは、アウシュヴィッツ(ビルケナウを含む)と、マイダネックの二か所だけなのです。後の四か所、即ち、ソビボル、ヘルムノ、トレブリンカ、ベルゼックの四つの収容所跡には、検証するにも、その対象である「ガス室」の「実物」自体が現存しないのです。「ドイツが隠滅した」と説明されていますが、「証言」以外には、そのような「隠滅」が為された証拠もありません。いずれにせよ、現にそこには「ガス室」が残されていないわけですから、「物証」としての「ガス室」を検証するなら、アウシュヴィッツ(ビルケナウを含む)とマイダネックに、戦後ポーランドの共産主義政権が公開し続け、今も展示されている「ガス室」が本物かどうかを検証する他はないのです。(マウトハウゼン等については、「定説」側はそれを「絶滅収容所」と呼んでいない)。しかしながら、初めに結論を言ってしまうと、アウシュヴィッツなどで今日も公開展示され続けるその数少ない「ガス室」の「実物」は、その位置や構造が余りに不合理で、本物の処刑用ガス室だったとは、到底考えられないのです。つまり、第二次大戦後、何者かが捏造したとしか考えようがないのです。−−
(西岡昌紀『アウシュウィッツ『ガス室』の真実/本当の悲劇は何だったのか』
(日新報道・1997年)96〜98ページより)
−−一方、「定説」は、それらの「絶滅収容所」で使用された「毒ガス」について、注目すべきことを述べています。前にも触れましたが、それらの「絶滅収容所」では、一酸化炭素と青酸ガス(シアン化水素)の二種類が使われた、というのです。これは、「ガス室」の原理に関わることですから、極めて重要な点と言えます。
「定説」側論者によると、六つあった「絶滅収容所」の内、先ず、ソビボル、ヘルムノ、トレブリンカ、ベルゼックの四か所では、「ディーゼル・エンジンで一酸化炭素を発生させるガス室」が使われたのだそうです。
ところが、車に詳しい方はすぐお気付きだと思いますが、これは非常におかしな話なのです。何故なら、ディーゼル・エンジンというものは、ガソリン・エンジンとは違って、一酸化炭素を極く微量しか排出しないことが、その工学的な特徴だからです。−−
(西岡昌紀『アウシュウィッツ『ガス室』の真実/本当の悲劇は何だったのか』
(日新報道・1997年)98ページより)
−−ディーゼル・エンジンで一酸化炭素を発生させる「ガス室」というのは、工学的、医学的に、不可能ではないのかも知れませんが、不合理極まりないものです。ガソリン・エンジンの方がはるかに多量の一酸化炭素を排出するのに、それを使わなかった、というのですから。そんなものを「大量殺人」の手段として選択したという話自体どうかしていますが、注目して頂きたいのは、この「ディーゼル・ガス室」の「実物」が現存しないということです。ソビボル、ヘルムノ、トレブリンカ、ベルゼックという、「ドイツがガス室を隠滅してしまった」場所にそれがあったというのですが、これは単なる偶然なのでしょうか?−−
(西岡昌紀『アウシュウィッツ『ガス室』の真実/本当の悲劇は何だったのか』
(日新報道・1997年)98〜99ページより)
−−一方、「定説」は、アウシュヴィッツとマイダネックでは、青酸ガス(シアン化水素)が使われたと主張します。しかし、ここが重要なのですが、その際、その青酸ガスを発生させる方法として、チクロンB(Zyklon B)という薬剤が使用されたと、「定説」側は主張するのです。この点に実は様々な科学的問題があるのですが、そのことについては後述したいと思います。−−
(西岡昌紀『アウシュウィッツ『ガス室』の真実/本当の悲劇は何だったのか』
(日新報道・1997年)99ページより)
−−では、具体的にそれらの自称「ガス室」を検証してみましょう。存在しない「ガス室」は検証の仕様がありません。ですから、現にアウシュヴィッツうやマイダネックで公開している「ガス室」またはその残骸について、検証を加えたいと思うのです。
先ずは、アウシュヴィッツです。アウシュヴィッツは二つの収容所から成るわけですが、先に作られた第一アウシュヴィッツにも後から作られた第二アウシュヴィッツ(別名ビルケナウ)にも、それぞれ「ガス室」があったと説明されています。より多くの人間が殺されたのは、後者(第二アウシュヴィッツ)の複数の「ガス室」においてだったと説明されていますが、先に作られた第一アウシュヴィッツ収容所にも一つ「ガス室」があったとされています。
その「ガス室」の実物とされる建物が第一アウシュヴィッツで公開されていますが、これは、火葬場と一緒に一つの建物の中にあるので、「第一死体焼却棟(Krematoruim 1)」と呼ばれるのが普通です。これは、アウシュヴィッツで最初に作られた「ガス室」ということになるわけですが、この建物は、マスコミなどで非常に頻回に紹介されてきたものです。つまり、二つあるアウシュヴィッツ収容所に点在する複数の「ガス室」またはその残骸の内、一番有名なものと言えるのですが、ここを管理するポーランド当局、即ちアウシュヴィッツ博物館は、この「ガス室」は初期に使われたもので、そこでは、前述のように、青酸ガスが使われた、と説明しています。というより、隣接する第二アウシュヴィッツを含めて、アウシュヴィッツ全体に複数の「ガス室」が存在し、それらの「ガス室」全てで青酸ガスが使われた、と説明されているのです。−−
(西岡昌紀『アウシュウィッツ『ガス室』の真実/本当の悲劇は何だったのか』
(日新報道・1997年)99〜101ページより)
−−青酸ガス(HCN)は確かに猛毒ですから、そのこと自体は不合理ではありません。しかしながら、問題は、その発生方法です。前述のように、ポーランド当局及び「定説」側論者たちは、チクロンB(英語でサイクロンB)という製剤を使って青酸ガスを発生させたと主張しています。このチクロンBというのは、猛毒の青酸ガスをパルプのかけらなどに吸収または吸着させたもので、当時のドイツでは、倉庫や船の害虫駆除にこれが使われていました(後述)。そうした青酸ガスを含んだパルプ片などが缶に入っていて、缶を開けると、そのパルプ片が徐々に遊離するというのが、この薬剤(殺虫剤)の仕組です。チクロンBからの青酸ガス遊離は加熱によって早まりますが、こうした問題については後ほどお話しましょう。とにかく、それを使ったというのです。
話を、第一アウシュヴィッツの「ガス室」に戻すと、この「ガス室」では、天井に開いた幾つかの「投入孔」から、そのチクロンBが投げ込まれたということになっています。つまり、天井(屋根)の小穴から投入され、「ガス室」の床に落ちたチクロンBが青酸ガスを発生することで、「処刑」が行われた、とアウシュヴィッツ博物館などは説明しているのです。しかし、そのようなことはこの建物の一室で行われたと信じるには、あまりにおかしなことが幾つもあるのです。−−
(西岡昌紀『アウシュウィッツ『ガス室』の真実/本当の悲劇は何だったのか』
(日新報道・1997年)101〜102ページより)
−−先ず、この建物(「第一死体焼却棟」)は、ドイツ人用の病院の真ん前にあります(前頁参照)。距離は、大体20メートルくらいです。こんな場所に「ガス室」を作ったのでは、「ガス室」での処刑後、内部を換気するために「ガス室」内部の青酸ガスを排気した時、一体どんなことが起こるか想像して頂きたいと思います。そうです。真向かいの病院にいるドイツ人たちが、生命の危機にさらされてしまうはずなのです。この建物が処刑用ガス室の建物だったとしたら、その位置はこんなにも馬鹿げたものなのですが、それにも拘らず、ポーランド当局は戦後ずっと、この建造物を「ガス室」と言い続けてきたのです。−−
(西岡昌紀『アウシュウィッツ『ガス室』の真実/本当の悲劇は何だったのか』
(日新報道・1997年)102〜103ページより)
−−また、先ほどの話に関係しますが、この建物の「ガス室」とされる部分の天井には、「投入孔」があります。つまり、ここから問題のチクロンBが投げ込まれた、というわけです。しかし、この「投入孔」を見ると、奇妙なことに気が付きます。この建物の屋根天井の内、これらの「投入孔」の周りだけが、コンクリートの質が違うのです(次頁参照)。つまり、これは、これらの穴が後から開けられたことを意味すると思うのですが、一体なぜ、後からこの穴が開けられたのでしょうか?その上、この「投入孔」は非常に粗雑なくり抜き方で開けられていることにも注目しなければなりません。これが何を意味するかと言うと、この穴には気密性がないということです。ところが、これは、処刑用ガス室の構造としては、決定的におかしいことなのです。即ち、青酸ガスによって処刑を行なうなら、その「ガス室」には極めて高度な気密性が要求されるはずですが、この「投入孔」を見れば、この「ガス室」(?)にそんな気密性がないことはあまりにも明らかです。
後で述べますが、アメリカには、「ガス室」が現実に死刑の一手段として使われてきた歴史があります。また、そおで使用されるガスも青酸ガスですが、こうした処刑用ガス室には高い気密性求められることが、例えば、『処刑の科学』(バート・ロンメル著/遠藤比鶴訳、第三書館)という本などに述べられています。それは当然でしょう。ガス室で処刑が行われる際には、ガス室周囲に処刑を行なう人員がいるのですから。彼らの生命が危険にさらされないためには、ガス室に高度の気密性が備えられていなければなりません。また、アメリカのガス室では、処刑後のガス室の換気も、周囲に危険を及ぼさないように、特殊な方法が採用されています(後述)。とにかく、このように気密性のない建物を処刑用ガス室として使用したら、処刑中に青酸ガスが外部に広がり、処刑に従事する作業員たちの生命が脅かされたことは明白です。一体これが、本当に、処刑用ガス室だったのでしょうか。−−
(西岡昌紀『アウシュウィッツ『ガス室』の真実/本当の悲劇は何だったのか』
(日新報道・1997年)103〜105ページより)
−−また、この第一死体焼却棟(「クレマ1」)の「ガス室」には換気装置の痕跡が見られません。そもそも、この「ガス室」はドイツ人用の病院の真ん前にあり、これでは、「ガス室」を換気する際、ドイツ人たちの生命に重大な危機を生じてしまうことは既に述べました。しかし、その点に目を瞑ったとしても、仮にこの建物のこの部屋が「ガス室」だったとしたら、処刑後、この「ガス室」をどう換気したのか、という問題は、全く未解決のままなのです。
ここで参考にしたいのは、アメリカの処刑用ガス室における換気の方法です。アメリカには、先ほども少し触れましたが、1924年以来、現実にガス室による処刑が死刑の一手段として行われてきた歴史があります(前出『処刑の科学』)。そして、そこで使われているガスは、アウシュヴィッツで使われたとされているのと同じ青酸ガスなのです。
死刑の話など気分の良いものではありませんが、これについては日本語でも前出の本のほか本が出されており、その技術的側面が記述されています(同書)。今お話ししている換気の問題について言うと、アメリカの処刑用ガス室では、処刑後、その青酸ガスを長い煙突(stack)を通して徐々に排気するという方法が取られているのですが、これは、青酸ガスが空気より軽いことに関係がある方法だと思われます。
即ち、青酸ガスは猛毒ですけれども、空気より軽いので、背の高い煙突を通して徐々に排気すれば、何とか周囲に危険を及ぼさずに、処刑後、ガス室の換気を完了できるということなのだと思われます。(余談かも知れませんが、青酸ガスは空気より軽いため散逸してしまいやすく、化学兵器として使われ難い、という意味の記述が、「定説」側の権威ある本に書かれてあります。ですから、青酸ガスが空気より軽いことが、アメリカの処刑用ガス室におけるこうした換気性と関係があることは確かと言っていいと思います)
ところが、このような背の高い煙突を含めて、「ガス室」を換気するための装置が、この自称「ガス室」にはないのです。「ガス室」出入り口の扉を開けて自然通風で換気するとか、天井の「投入孔」から排気するという方法はありますが、これにはこれで大問題があることは、後でお話しします。他にも、この建物には色々な不合理が指摘されていますが、例えば、この煙突はどうでしょうか。「ガス室」の隣の死体焼却室の煙突とされているものですが、この通り、建物とつながってすらいないのです(前頁写真=西岡撮影)−−
(西岡昌紀『アウシュウィッツ『ガス室』の真実/本当の悲劇は何だったのか』
(日新報道・1997年)105〜107ページより)
−−このように、その位置といい、気密性が欠けていることといい、換気装置の痕跡がないことといい、この「ガス室」はおかしなことだらけなのです。しかし、もっと決定的なことをいいましょう。最近、この「ガス室」が偽物だということを、何と「定説」側論者が言い出したのです。それは、エリック・コナン (Eric Conan)という、「定説」側の論者ですが、彼は、もちろん第二アウシュヴィッツ(ビルケナウ)にある「ガス室」については何ら疑問を投じてはいません。しかし、ことこの第一アウシュヴィッツの「ガス室」に限っては、「そこにある全ては偽物である(Tout y est faux)」と、アウシュヴィッツ解放50周年を特集した、フランスの週刊誌レクスプレス(l'Express)誌上の記事で、ついに認めているのです。
この驚くべき記事が出た背景には、アウシュヴィッツを巡るユダヤ人とポーランド人の間の対立があります。即ち、二つあるアウシュヴィッツ収容所の内、この第一死体焼却棟がある第一アウシュヴィッツは、「ポーランド人受難の地」として語られる傾向が強まりつつあるため、コナンを含めたユダヤ人にとっては意味が薄れつつある、という背景です。しかし、これはややこしい話なので、後述することとして、ここでは、その「定説」側論者コナンがそれを認めざるを得なくなったもう一つの背景と思われる問題についてお話ししたいと思います。それは、この「ガス室」に関するアウシュヴィッツ博物館の説明に一貫性がないということなのです。−−
(西岡昌紀『アウシュウィッツ『ガス室』の真実/本当の悲劇は何だったのか』
(日新報道・1997年)107〜109ページより)
−−何度か触れている通り、今日アウシュヴィッツを管理しているのは、ポーランド政府の意向を反映した、アウシュヴィッツ博物館という組織です。この組織は、二つのアウシュヴィッツ収容所を共に管理していますが、博物館それ自体は第一アウシュヴィッツにあり、その収容所の建物の中で、色々な物品を展示したり、アウシュヴィッツに関する資料を管理したりしています。その第一アウシュヴィッツに今お話ししている「第一死体焼却棟」があるわけですが、二つのアウシュヴィッツ収容所に「現存」する複数の「ガス室」(またはその残骸)の内、最も良く建物の形態が「保たれている」のは、この第一死体焼却棟の「ガス室」なのです。
ところが、この第一死体焼却棟に関するアウシュヴィッツ博物館の説明には、根本的な問題があるのです。それは、この建物が当時そのままのものなのかという点について、博物館側が矛盾する説明をしてきたという事実なのです。つまり、先に挙げた様々な不合理全てに目をつぶったとしても、この建物が当時そのままの状態になければ、この建物に「物証」としての価値などありません。当然、と言うべきでしょう。アウシュヴィッツ博物館は永年、この第一死体焼却棟はドイツ人がアウシュヴィッツにいた頃のままの状態にある、と説明し続けてきました。
ところが、そのアウシュヴィッツ博物館は、この建物が持つ様々な不合理について追及されると、「この建物(第一死体焼却棟)は復元されたものです」等と言って弁明することを繰り返してきたのです。一体、この「ガス室」は当時そのままのものなのか、それとも後から「復元」されたものなのか。この根本的な問いに対するポーランド当局自身の答えが、こんなものなのです。−−
(西岡昌紀『アウシュウィッツ『ガス室』の真実/本当の悲劇は何だったのか』
(日新報道・1997年)109〜112ページより)
−−そして、1990年代には、博物館側の責任者がはっきりと、この「ガス室」は「再建されたもの」だと言い、戦争中そのままのものではないことをはっきり認めるようになっています。しかし、かつては、「当時のままの状態にある」と言っていたのですから、これは、話が変わったとしか言いようのない変化です。譬えて言えば、再建された金閣寺を京都市が「当時のままの建物」と説明していたようなものです。そして、それを観光客に問いつめられて、「実は再建したものです」と認めたようなものですが、こんな「説明」をしたら、誰であれ、信用されなくなることは、当然です。その上、この建物の場合は、その「再建」が信用できるという保証は何もないのです。それどころか、戦争直後の写真を見ると、明らかに現状と違うことが分かるのです。例えば、前頁の写真をご覧下さい。これは、「定説」側のプレサックという論者の本に載っている、1945年のこの建物の写真(上)ですが、私が94年に撮った写真(下)と比較して下さい。あの煙突は、戦争直後には立っていなかったではありませんか。−−
(西岡昌紀『アウシュウィッツ『ガス室』の真実/本当の悲劇は何だったのか』
(日新報道・1997年)112ページより)
−−次に、この第一アウシュヴィッツから2キロほど離れた第二アウシュヴィッツ(ビルケナウ)収容所の「ガス室」について考えてみます。前述のように、この収容所は後から建設されたものですが、その面積は第一アウシュヴィッツよりはるかに広大なものです。そして、その広大な収容所敷地内及び周辺に複数の「ガス室」は存在したと、「定説」側は主張します。そうした「定説」の主張を要約すると、ビルケナウ収容所の敷地内には、「ガス室」を備えた建物が合わせて四つ、加えて、収容所外部にも、ガス室を備えた家が二つ、或る時期、収容所に隣接して存在していたというのです。−−
(西岡昌紀『アウシュウィッツ『ガス室』の真実/本当の悲劇は何だったのか』
(日新報道・1997年)112〜113ページより)
−−ここでまず、重要なことを言います。ビルケナウには、このように、複数の「ガス室」が存在し、稼働していたというのですが、それら「ガス室」の「実物」は、それぞれ程度は違いますが、皆、破壊された状態にあり、「そのままの状態」で存在しているものは一つもないのです。「ドイツが破壊したからだ」と説明されていますが、これらの建造物を破壊したのがドイツだという証拠は何もありません。「ヒムラーが隠滅を命じた」という意味のことを書いている本もありますが、これはただ、戦後そういう「証言」があるというだけのことで、そんな命令文書が残っているわけではないのです。−−
(西岡昌紀『アウシュウィッツ『ガス室』の真実/本当の悲劇は何だったのか』
(日新報道・1997年)113ページより)
−−そこで、それらの「破壊されたガス室」について考えてみます。先ず、今日、ビルケナウ収容所の敷地内には、前述のように、処刑用ガス室を内部に持っていたとされる建物の残骸が全部で四つ存在するわけですが、これらは、建てられた順に、「第二死体焼却棟」「第三死体焼却棟」「第四死体焼却棟」「第五死体焼却棟」と呼ばれています。(「第一死体焼却棟」は、第一アウシュヴィッツにある)
これらの建物については順にお話ししますが、ここで一つ重要なことを指摘しておきます。それは、その内部に「ガス室」があったかどうかは別として、これらの建物は当時明らかに存在していたということです。ですから、これらの死体焼却棟を見た人々は、当時たくさんいたのです。ですから、仮に「私はガス室を見ました」という元被収容者がいたとしても、その証言の意味は、これらの建物を外から見たという意味かも知れないのです。
ビルケナウには、第一アウシュヴィッツよりも多くの人々がいたこともあり、戦争中そこにいた人々の証言はマスメディアなどに非常にしばしば登場します。しかし、後で述べますが、そうした証言の主たちは本当は何を見たのか、きちんと検証されているとは到底言えないのが、「アウシュヴィッツ」を語ってきた戦後のマスメディアの現実です。こうした「証言」の問題については、後述したいと思います。−−
(西岡昌紀『アウシュウィッツ『ガス室』の真実/本当の悲劇は何だったのか』
(日新報道・1997年)113〜114ページより)
−−では、そうしたビルケナウの死体焼却棟を検証してみましょう。ビルケナウの死体焼却棟は建設された順に番号が書いてあるので(116ページ参照)、その順に検討を加えてみたいと思います。
先ずは、第二死体焼却棟(Krematorium 2)です。ドイツ人たちが、第一アウシュヴィッツに第一死体焼却棟を作った後、隣のビルケナウに最初に作った火葬場が、この第二死体焼却棟です。重要なことは、この建物には地下室があったことですが、そのことは、現場からも当時の図面からも明白です。
この建物の地下部分は全体でL字形をしていて、そのLの字が、火葬場の地下から東西と南北に伸びて走っているわけですが、問題は、「定説」側が、これらの地下室の一つが処刑用ガス室として使用されていたと主張していることです。その真偽についてはこれから論じるとして、先ずは、「定説」側が、この建物についてどのような説明をしているかから、お話ししたいと思います。そこで、118ページをご覧下さい。これは、ポーランドのアウシュヴィッツ博物館が、この建物がどのように使われていたかを「説明」するために描いたイラストです。
ご覧のように、彼らは、この建物の地下室の一つが「ガス室」だったと主張し、そこで青酸ガスによる処刑が行なわれたと主張します。そして、処刑された死体は、隣接する部屋からエレベータで地下の火葬場に運ばれ、焼却された、と「説明」するのです。これは、アウシュヴィッツ博物館のみならず、この「ガス室」に関する「定説」側の一致した「説明」と言えます。
この説明の信義についてはこの後で論じますが、その前に重要なことを言っておきたいと思います。それは、この「ガス室」は、或る意味で、「定説」の命運を決定するほどに重要な「ガス室」だということです。何故なら、「定説」の言うところによれば、ビルケナウ収容所は、第一アウシュヴィッツと違い、作られた当時から「ユダヤ人絶滅」を目的に建設された収容所だったとされ、かつ、そのビルケナウに最初に作られた「ガス室」が、この第二死体焼却棟の「ガス室」だったとされているからです。つまり、この「ガス室」は、初めから「ユダヤ人絶滅」のために作られた収容所の最初の「ガス室」だったとされているのです。ですから、この地下室は最初から「ガス室」として設計されていなければおかしいのであり、もし、そうでなければ、ビルケナウ収容所の建設目的それ自体が、「定説」の説明とは違うものだったということにもなりかねません。この点については後でお話ししますが、重要な点なので、もう少し説明しておきます。−−
(西岡昌紀『アウシュウィッツ『ガス室』の真実/本当の悲劇は何だったのか』
(日新報道・1997年)114〜118ページより)
−−「定説」側の説明によれば、第一アウシュヴィッツの方は、最初は普通の強制収容所だったものが、途中から「絶滅収容所」に切り替えられた収容所だった、とされています。しかし、この第二アウシュヴィッツの方は、その第一アウシュヴィッツが「ユダヤ人絶滅」を遂行するには手狭なので、増設された収容所だとされているのです。ですから、それは、第一アウシュヴィッツとは違い、初めから「ユダヤ人絶滅」を目的に建設されたはずなのです。ところが、仮にこの主張が本当だと仮定すると、既に第一アウシュヴィッツで「ガス室」という処刑法が採用されていたのですから、新しく作られたビルケナウ収容所には、建設当初から「ガス室」を作ることが計画されていたと考えるのが妥当なはずです。ところが、そのビルケナウに作られた最初の処刑用ガス室がこの第二死体焼却棟の地下室だったというのですから、この建物の地下室は、初めから処刑用ガス室として設計されていなければおかしいのです。この点にご注目下さい。この点について、「定説」側論者の一人が、重大なことを述べているのです(後述)。−−
(西岡昌紀『アウシュウィッツ『ガス室』の真実/本当の悲劇は何だったのか』
(日新報道・1997年)118〜119ページより)
−−そのことについては後でお話しするとして、この建物の地下室が「ガス室」だったという説明の不合理を指摘したいと思います。先ず、地下の「ガス室」を処刑後どうやって換気したのか、という問題があります。地下室ですから、気密性を確保するには良いかも知れませんが、人間が一杯に押し込められたその地下室を換気し、死体を搬出するには、大変な時間が必要とされたのではないか、という問題があるのです。青酸ガスは猛毒ですが、猛毒であるからこそ、処刑後、作業員が「ガス室」内部に入って死体の搬出作業をするためには、徹底的な換気が行われなければなりません。しかし、問題の地下室は、隣室との間に出入り口が一つあるだけなので、三方は地中に囲まれている細長い地下室なのです。
換気扇を使おうと使うまいと、猛毒の青酸ガスを隣室に排気したら、今度はその隣室の徹底的な換気が必要になります。しかし、これは、あまりに非効率かつ不合理なことです。では、地上に排気したというのでしょうか?しかし、そのような装置が存在していた痕跡はなく、戦争中の写真からも、そんなものはなかったらしことが窺えるのです。−−
(西岡昌紀『アウシュウィッツ『ガス室』の真実/本当の悲劇は何だったのか』
(日新報道・1997年)119〜120ページより)
−−もう一つの疑問は、処刑後、どうやって死体を搬出したのか、という問題です。今述べたように、この地下室には出入り口は一つしかありません。ところが、そんな地下室の中に、人間を多い時は3000人も(!)入れて処刑したと、「定説」側は主張しています。そんな多数の人間をこの地下室に押し込め、処刑し、そして、死体で満杯の地下室を換気したという話自体が驚異です。しかし、さらにその後、そうした多数の死体をたった一つしかない狭い出入り口から搬出して、隣接するエレベータで地上の火葬場に運んだ、というのです。こんな作業がどれほどの人手と時間を要するか、想像して頂きたいと思います。特に、この地下室に出入り口が一つしかないということは、この作業にとって、非常に大きな障害になったに違いありません。医療関係者の方なら、人間の体を運ぶことの大変さを良くご存知と思いますが、こんな話をお信じになれるでしょうか?そもそも、この「ガス室」とされる地下室の面積は210平方メートルなのです。その中に、3000人もの人間が入ったという話自体を、皆さんはお信じになれるでしょうか?−−
(西岡昌紀『アウシュウィッツ『ガス室』の真実/本当の悲劇は何だったのか』
(日新報道・1997年)120〜121ページより)
−−こうした不合理が、第二死体焼却棟の地下室(の一つ)が「ガス室」だったという説明には、つきまとっています。そして、この建物のすぐ隣にあった第三死体焼却棟は、この第二死体焼却棟と同じ構造の建物ですから、これと同じ不合理をかかえているわけです。
それなのに、「定説」は、この二つの建物の「ガス室」で最も多くの人々が殺された、という説明をしています。つまり、「定説」にとって、この二つの建物の意味はそうした機能の面においても、非常に大きなものなのです。その上、先ほど述べたように、この第二、第三死体焼却棟は、ビルケナウ収容所で最初に作られた火葬場ですから、はじめからその地下に「ガス室」を作ることが計画されていなかったなら、そもそもこの収容所は何のために作られたのか、という問題が生じるという意味でも、この二つの建物は重要な意味を持っているわけです。ところが、そこに次のような問題が存在するのです。−−
(西岡昌紀『アウシュウィッツ『ガス室』の真実/本当の悲劇は何だったのか』
(日新報道・1997年)121ページより)
−−前にも触れましたが、このアウシュヴィッツ=ビルケナウに関しては、ドイツ人が作成した書類や図面が多数残され、ポーランドやロシアに保存されています。それらの中には、例えば、この第二、第三死体焼却棟の設計図もあれば、建設業者との間でやり取りされた手紙なども多数残されているのですが、それらのアウシュヴィッツ関連文書や図面をロシアとポーランドで収集し、自分の解釈とともに出版した「定説」側論者に、プレサック(Pressac)というフランスの研究者がいます。
このプレサックは、1989年と93年に、それらの文書や図面を収録した著作を発表していますが、特に、その89年の著作()は、この第二、第三死体焼却棟の図面を含めて、そうした図面や書類が多数掲載されたぶ厚い研究書です。ところが、この二冊の研究書を発表した「定説」側論者プレサックが、この第二、第三死体焼却棟についてどんな結論を述べているかというと、何と、これら二つの建物は、当初は単なる衛生施設として設計された、と結論付けているのです。即ち、これらの建物は、設計段階では、その地下室を処刑用ガス室として利用する計画などはなかった、それを途中から処刑用ガス室に転用したのだ、というのが、彼がたどり着いた結論だったのです。最終的にこの第二、第三死体焼却棟の地下室が処刑用ガス室として使われた、ということはもちろん譲らないわけですが、少なくとも設計当初にはそこをガス室として使用する意図はなかった、ということを「定説」側論者が認めたことの意味は重大です。しかも、それは、ロシアやポーランドにある膨大な図面を、彼が「定説」側論者の目で検証した結果なのです。−−
(西岡昌紀『アウシュウィッツ『ガス室』の真実/本当の悲劇は何だったのか』
(日新報道・1997年)122〜123ページより)
−−これが何を意味するかというと、先ず、ビルケナウ収容所が建設された当初、この収容所に処刑用ガス室を作る計画はなかったということです。仮に、彼が主張するように後からこれらの地下室が「ガス室」に転用されたとしても、収容所の建設当初には処刑用ガス室を作る計画がなかったということなのです。ですから、これは、ビルケナウ収容所が「ユダヤ人絶滅」の目的で作られたという命題そのものに疑問を投げかける結論を意味するのです。−−
(西岡昌紀『アウシュウィッツ『ガス室』の真実/本当の悲劇は何だったのか』
(日新報道・1997年)123ページより)
−−実際、プレサックが自著に掲載しているこの第二、第三死体焼却棟の多数の図面を見ると、問題の地下室には、Leichenkeller(死体安置室)という書き込み以外の名前は与えられていません。つまり、これらの地下室は、火葬に先立って病死者などの死体が安置された、霊安室のようなものだったということです。当時のアウシュヴィッツ=ビルケナウでは、チフスなどによって連日多くの人々が生命を落としてしまいましたが、そのチフスの拡大を予防する目的で、これらの地下室と火葬場は作られ、使用されていたということなのではないでしょうか。それが「ガス室」に転用されたというなら、その証拠を示すべきですが、結論から言うと、プレサックはそのような証拠を提示していないのです。−−
(西岡昌紀『アウシュウィッツ『ガス室』の真実/本当の悲劇は何だったのか』
(日新報道・1997年)123〜124ページより)
−−こうした様々な不合理に加えて、もう一つ、「決定的」とも言える問題が指摘されています。言われている「定説」側の説明によれば、「ガス室」だったとされる第二死体焼却棟の地下室の天井に小穴が四つあり、その小穴から例のチクロンBが投入されたという話になっています。ところが、この点について、見直し論者の一人であるフランスのフォーリソン(Faurisson)教授は、驚くべきことを指摘しているのです。それは、現在ビルケナウ収容所に現存する第二死体焼却棟に足を運んでその実物を見ると、「ガス室」だったはずの地下室の天井、即ちその地上部分に、肝心の小穴が一つしかない(!)ということなのです。しかも、その一つしかない小穴も、フォーリソン教授によれば、非常に新しいもので、戦後開けられたものだとしか考えられない、というのです。穴がなければ、チクロンBを投げ込めないではありませんか!(私もここに足を運んでいますが、その時は、不覚にも、このことには気付きませんでした。これは、フォーリソン教授に電話で指摘されたことです)そして、フォーリソン教授によると、ビルケナウを管理するアウシュヴィッツ博物館はこのことについて何も説明をしていないということですが、これは、説明できないからなのではないでしょうか?−−
(西岡昌紀『アウシュウィッツ『ガス室』の真実/本当の悲劇は何だったのか』
(日新報道・1997年)124ページより)
−−次は、同じくビルケナウの第四、第五死体焼却棟についてです。この二つの建物は、ビルケナウ収容所で第二、第三死体焼却棟よりも後に建てられたもので、こられについても当時の図面や写真は残されています。それらによると、この二つの建物は構造が同じで、地下室はありませんでした。第二、第三死体焼却棟と同様、第四、第五死体焼却棟も煉瓦作りで、内部に火葬場があったことは間違いありません。問題は、ここでも、「定説」が、これらの建物の中に、火葬場のみならず、処刑用ガス室があったという主張をしていることです。
しかし、先ず、この二つの建物は破壊がひどく、煉瓦の礎石が残されているに過ぎません。ですから、第一アウシュヴィッツの第一死体焼却棟は言うに及ばず、同じビルケナウの第二、第三死体焼却棟ほどにも建物の形態は保たれていないわけで、その意味では、そもそも物証としての価値は初めからないと言わざるを得ません。
それでは、当時の図面はどうかと言うと、やはり、これらの建物の内部に処刑用ガス室が存在したことを示す記載はないのです。ただ一つ、図面ではありませんが、建物が作られていた当時の建設日誌の中に、Gaskammer(ガス室)という単語の出て来るものがあります。これは、「定説」側論者であるプレサックが、1989年の自著の中で、他の複数の文書(後述)とともに提示しているものですが、この日誌に出てくるGaskammerというドイツ語は、確かに処刑用ガス室も意味し得ますが、衣服などを燻蒸、駆虫するための殺虫用ガス室をも意味する単語なのです。(日本語で「ガス」と言ったら、毒ガスとは限らないのと同じです)むしろ、それが普通の使われ方なのですから、それが処刑用ガス室だったというのなら、そういう側の人々は証拠を提示するべきです。現に、ビルケナウには殺虫用のガス室が存在し、被収容者の衣服をシラミ退治の目的で消毒するために使われていました。そのことを考えると、これなども、そうした設備を示す言葉と解釈する方が全く自然だと思うのですが、いかがでしょうか。−−
(西岡昌紀『アウシュウィッツ『ガス室』の真実/本当の悲劇は何だったのか』
(日新報道・1997年)125〜126ページより)
−−アウシュヴィッツ=ビルケナウの死体焼却棟については、このプレサックが、先の自著の中で、その他にもGasの付く単語(Gaspuefer、Gastuerなど)が出て来る当時の文書を複数、提示しています。しかし、結論だけ言うと、「ガス」という単語が「毒ガス」を意味するとは限らず、単に「気体」を意味することもあれば、他の気体を意味するがあることから理解できるように、それらの単語が、処刑用ガス室に関係していたという証拠はありません。例えば、プレサックは、Gaspruefer(ガス探知器)という単語の出てくる業者宛ての手紙がアウシュヴィッツに残されていることを挙げ、それをアウシュヴィッツ=ビルケナウに処刑用「ガス室」があった証拠でもあるかのように引用しています。しかし、当時、販売されていた青酸ガス探知用のキットには別のドイツ語の単語が使われていたことが、見直し論者であるマットーニョによって指摘されています。それどころか、このGasprueferという単語は、燃焼工学の分野で、焼却炉の排気ガスに関して使われていた技術用語であったことまで指摘されています。つまり、このGasprueferという単語が出て来る業者宛ての手紙は、「毒ガス」の探知に使われたものではなく、焼却炉で使われた器具のことらしいということです。このように、ただ「ガス」の付く単語が出てくる領収書や手紙を集めて提示しても、それらの単語が「毒ガス」や処刑用ガス室に関連したものだという証明がなければ、ガス漏れ警報器の領収書があるからその家にはガス室があると言わんばかりの話にもなりかねません。
プレサックが提示したこれらの文書の問題については、見直し論者の側から複数の反論が出されているので御参照頂きたいと思います。なお、このプレサックが発表した二冊の研究書は、現在絶版になっています。そのため、私も入手に苦労しましたが、プレサックのその二冊の本は、見直し論者に対する反論として、鳴り物入りで発表されたものだったのです。それなのに、これら二冊の本を、彼(プレサック)の出版社は何故、絶版にしてしまったのでしょうか?−−
(西岡昌紀『アウシュウィッツ『ガス室』の真実/本当の悲劇は何だったのか』
(日新報道・1997年)126〜127ページより)
−−それから、ビルケナウ収容所を西に出た野原に、「ブンカー」と呼ばれる、「農家を改造したガス室」があったと、「定説」側は主張しています。しかし、これらの「ガス室」は、戦後の「証言」で語られただけのもので、これまでお話しした五つの死体焼却棟(Krematorium)と違って、建物の実物もなければ、図面すら残っていないのです。他の死体焼却棟については多数、図面や書類が残っているのに、この二つの建物(「ブンカー」)については何も残っていないということになりますが、これはおかしくないでしょうか。そして、肝心の建物がないのですから、まるで雲をつかむような話です。
二つあったとされる「ブンカー」の内、その一つについては、家の礎石のようなものが野原の中にありますが、それがただの農家などの礎石ではなく、「ガス室」を備えた建物だったという証拠は皆無です。そして、もう一つの「ブンカー」は、礎石すらなく、ただ「あった」という戦後の証言があるだけなのですが、一体、その存在はどうやって証明されるというのでしょうか?
そもそも、農家を「ガス室」に改造した、という話自体がおかしいのです。「ガス室」というものは高い気密性を備えたハイテクなのであって、当時のポーランドの農家を改造してそんな目的に転用できたという話自体、到底信じがたいものです。そんなことが本当に行われたのでしょうか?−−
(西岡昌紀『アウシュウィッツ『ガス室』の真実/本当の悲劇は何だったのか』
(日新報道・1997年)128〜129ページより)
−−こうした多くの問題も勿論、重要ですが、実は、もっと決定的な科学的事実があるのです。それは、アウシュヴィッツ(ビルケナウを含む)に現存するこれら五つの「ガス室」付きだったとされる死体焼却棟の破片を化学分析したところ、予想されるような多量のシアン化合物がまるで検出されなかったという、重大な化学的事実です。
即ち、アウシュヴィッツ=ビルケナウには、お話ししたような処刑用ガス室が幾つかあり、そこで、青酸ガス(シアン化水素)を使った処刑が頻回に行われたという話になっています。ところが、その「ガス室」があったとされるこれらの建物(死体焼却棟)からその破片である煉瓦やモルタルを採取し、化学分析した結果、予想されるような多量の青酸化合物(シアン化合物)は検出されなかったのです。これでも、そこに処刑用のガス室が存在した、というのでしょうか?−−
(西岡昌紀『アウシュウィッツ『ガス室』の真実/本当の悲劇は何だったのか』
(日新報道・1997年)129ページより)
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(参考サイト(木村愛二著『アウシュヴィッツの争点』より))
↓
http://www.jca.apc.org/~altmedka/aus-53.html
−−このことを報告したのは、ウィリアム・ロス(William Roth)博士という、アメリカの化学者です。博士によるこの化学分析の結果は、フレッド・リューシュター(Fred Leuchter)氏という、アメリカで処刑用ガス室に関する仕事をしてきた人物による調査報告書(通称「ロイヒター・レポート」)に収められています。
これは、リューシュター氏(日本では、ドイツ語式に「ロイヒター」と発音することが多い)が、アウシュヴィッツ=ビルケナウから持ち帰ったサンプルについて行なった分析で、対照(コントロール)として、戦争中チクロンBによる衣服などの青酸燻蒸が行われていたビルケナウの殺虫用ガス室(delousing chamber)の破片が採られています。この殺虫用ガス室については既に少し触れていますが、皆さんは、そんなものには全くなじみがないに違いありません。これは、当時ドイツや東欧で、チフスなどを予防する目的で汚れた衣服を消毒する際に広く用いられていたもので、当時DDTを持たなかったドイツが、チフスを媒介するシラミを駆除する目的で、広く使っていた設備だったのです。その殺虫用ガス室がビルケナウに残っているので、その断片を対照にしたわけですが、その殺虫用ガス室の断片からは、戦後43年を経ていたこ報告の時点にも、高濃度のシアン化合物が検出されたのです。ここに示すのはこの測定のグラフですが、右端の殺虫用ガス室の断片からはこのように高濃度のシアン化合物が検出されています。ところが、その左に並ぶグラフをご覧下さい。Kremaというのは「死体焼却棟(Krematorium)」の略ですが、第一、第二、第三、第四、第五死体焼却棟(Krema T、U、V、W、X)のグラフはどうでしょうか。殆どゼロなのです(ごくわずか検出されるシアン化合物は、当時行われた青酸燻蒸の名残りだと考えられます)。これは一体、どういうことなのでしょうか?
この報告をまとめたリューシュター氏は、アメリカのマサチューセッツ州で、処刑用ガス室に関連したコンサルタントを営んできた人物です。氏は、1988年に、カナダで見直し論の出版物配布を巡って起きた裁判に弁護側の依頼を受けてポーランドを訪れ、アウシュヴィッツ=ビルケナウ、及びマイダネックの「ガス室」をガス室専門家の目で現地調査した人物ですが、その現地調査の際、これら「ガス室」があったとされる建物の断片をポーランドからアメリカに持ち帰り、前述のロス博士に分析を委託しました。(この裁判はツンデル裁判と呼ばれ、「ガス室」論争に大きな影響を残しています。この裁判については、「注46」をお読み下さい)。
その結果がこれなのですが、頻回に使われたはずの「ガス室」跡からはシアン化合物が殆ど全く検出されず、対照として採取した殺虫用ガス室の断片からはこのように高濃度のシアン化合物が検出されるのです。これは一体、何故なのでしょうか?そこに「ガス室」などなかったからなのではないでしょうか?−−
(西岡昌紀『アウシュウィッツ『ガス室』の真実/本当の悲劇は何だったのか』
(日新報道・1997年)129〜132ページより)
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(参考サイト(木村愛二著『アウシュヴィッツの争点』より))
↓
http://www.jca.apc.org/~altmedka/aus-53.html
−−この報告書(「リューシュター・レポート」)が書かれた経緯については、「注46」で別にお話ししますが、この報告書が88年に発表されると、当然と言うべきか、「ガス室」の存在を主張する側から、強い反発が生まれました。
そうした「反発」には、感情的なものや政治的なものが圧倒的に多かったのですが、解釈は別として、この「リューシュター・レポート」の分析値自体が正しいことは、皮肉にも、この報告書を批判したポーランド・クラクフの法医学研究所の論文によって裏付けられています。即ち、この報告に反論しようとしたポーランドの法医学者たちが、同じようにアウシュヴィッツ=ビルケナウの色々な場所からサンプルを採って化学分析をしたのですが、彼らの報告は、データの解釈において「リューシュター・レポート」に反駁してはいるものの、ロス博士が報告した「リューシュター・レポート」の分析値自体は、結局、肯定する内容になっているのです。−−
(西岡昌紀『アウシュウィッツ『ガス室』の真実/本当の悲劇は何だったのか』
(日新報道・1997年)133ページより)
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(参考サイト(木村愛二著『アウシュヴィッツの争点』より))
↓
http://www.jca.apc.org/~altmedka/aus-54.html
−−死体安置室から極く微量のシアン化合物が検出されるのは、前述のように、当時、チフス予防の目的で行なわれたシラミ駆除のための青酸燻蒸の痕跡と考えられますが、これは、対照に比較して、余りにも微量な数値です。この分析値については、解釈のレベルでの反論として、永い時間が経っているから青酸化合物が検出されないのだ、というものが予想されますが、それでは、対照とした殺虫用ガス室から高値のシアン化合物が検出された理由が説明できません。
それから、「ガス室」の方は雨にさらされて水で流されたので微量の青酸化合物しか検出されないのだ、という反論がありますが、分析の対象となった五つの建造物(第一アウシュヴィッツの第一死体焼却棟、第二アウシュヴィッツの第二、第三、第四、第五死体焼却棟の断片)の内、第一死体焼却棟は、その構造からして、雨にさらされるわけがないのです。ところが、その第一死体焼却棟からも、予想されるような多量の青酸化合物は全くもって検出されていないのです。 また、青酸化合物が、煉瓦などの鉄と結合して、シアン化合物を形成した場合、その化合物が雨水で容易に流されることはないという反論を、この分析をしたロス博士は述べています。そして、同じ指摘がロス博士以外の専門家からも為されていることをつけ加えておきます。一体、こうした結果と論争の経緯をどう考えればいいのでしょうか。
このように、アウシュヴィッツ=ビルケナウの「ガス室」については、多くの不合理と証拠の欠如に加えて、化学的痕跡が認められない、という問題が指摘されているのです。これが、アウシュヴィッツ=ビルケナウに、ポーランド当局が、「ガス室」という触れ込みで公開している建物もしくはその残骸の実態なのです。−−
(西岡昌紀『アウシュウィッツ『ガス室』の真実/本当の悲劇は何だったのか』
(日新報道・1997年)133〜135ページより)
−−それから、ポーランドには、アウシュヴィッツ以外にもう一か所、マイダネック収容所跡という所に、やはり、当時の「ガス室」とされる部屋が幾つか公開されています。しかし、ここにも、おかしなことが幾つもあるのです。
先ず、そこで公開されている「ガス室」の一つは、シャワー室の横にあります。つまり、シャワー室の隣に「ガス室」があった、というわけです。ところが、驚くべきことに、戦後かなり永い間、ポーランド当局は、そのシャワー室の方を「ガス室」として公開、展示していたのです(!)つまり、「ガス室」とされる部屋が変更された、ということですが、これは言い換えれば、「ただのシャワー室」が、1960年代前半までは「ガス室」として公開されていた(!)ということです。一体、これはどういうことなのでしょうか?−−
(西岡昌紀『アウシュウィッツ『ガス室』の真実/本当の悲劇は何だったのか』
(日新報道・1997年)135ページより)
−−ここにお見せするのが、そのシャワー室(1994年8月25日、西岡撮影)です。今日、この部屋はこうして、「シャワー室」として公開されています。しかし、ここを管理するポーランド当局は、今述べた通り、今日彼ら自身がシャワー室として公開していたこの部屋を、かつては、「ガス室」として公開していたのです(今日「ガス室」として公開されている隣の部屋が、当時、何と説明されていたかは分かりません)。
一体、こんないい加減な説明をしてきたポーランド当局が「ガス室」ですというものを、「物証」と見なしていいのでしょうか?
ついでながら、私は、このシャワー室の映像が、「ホロコースト」を取り上げた日本のテレビ番組で、「資料映像」として使われていたのを二回は見ています。「ガス室」のつもりで流しているようですが、このシャワー室の映像を見て「ガス室」と錯覚した視聴者は、相当の数に及ぶのではないでしょうか?日本のテレビ局が、外国から貰った「資料映像」を無批判、無検証に垂れ流していることの一例ですが、これは、あの湾岸戦争の黒い水鳥の手法と何ら変わらないものではないでしょうか?−−
(西岡昌紀『アウシュウィッツ『ガス室』の真実/本当の悲劇は何だったのか』
(日新報道・1997年)135〜137ページより)
−−このような、ここ(マイダネック)を管理する当局の説明の一貫のなさを別としても、このマイダネックで公開されている「ガス室」には、不可解なことがたくさんあります。このマイダネックには現在、全部で四つ「ガス室」が公開されていますが、そのどれにも奇妙なことが色々見られるのです。
先ず、位置です。マイダネック収容所は横断するのに20分くらいかかる広大な収容所ですが、現在のバス通りに面した収容所入口から向かって手前に、今述べたシャワー室その他がある細長い建物があります。この建物には、Bade und Disinfektion(風呂および消毒)と書かれた戦争中のものらしい文字が見られますが、この中に前述のシャワー室があり、それに隣接してやや広い自称「ガス室」が一つ、そして、さらに二つ、4X4平方メートルの「ガス室」が公開されています。(この建物を、以下「シャワー棟」と呼びます)。つまり、この細長い建物の中に、大小合わせて三つ「ガス室」が公開されているわけです。ところが、この建物は被収容者たちのバラックに隣接しており、また、近くに死体焼却棟(火葬場)がありません。これが先ず、奇妙なことと言わざるを得ません。何故なら、先ず、この収容所には火葬場がちゃんとあるのですが、その火葬場から、この広い収容所を殆ど横断するほど離れた場所にあるのです。私がその火葬場からここまで歩いたところでは、軽く20分くらいはかかっています。「大量殺人」をやって死体を焼却するのに、何故、こんなに火葬場から離れた場所を選ばなければならなかったというのでしょうか。そして、この位置では、死体を搬送するのに、被収容者たちのバラックの真ん前を通らざるを得ません。しかし、それでは、彼らに死体の搬送が丸見えなった可能性が極めて高かったはずで、どうしてこんなにおかしな場所を選んだというのか、全く理解できません(それでは、「ガス室」を隠す意味がないのではないでしょうか?)−−
(西岡昌紀『アウシュウィッツ『ガス室』の真実/本当の悲劇は何だったのか』
(日新報道・1997年)137〜138ページより)
−−マイダネックには、その遠い火葬場の隣にも「ガス室」があるのですが、先ずは、この「シャワー棟」内部の三つの「ガス室」についてお話ししたいと思います。この「シャワー棟」内部には、前述の通り、マイダネックにある四つの「ガス室」の内、三つがありますが、その一つは、この「シャワー室」の隣にある「ガス室」です。ここは、L字形をした倉庫風の部屋で、マイダネックで公開されている「ガス室」の中では一番広いものですが、先ず、非常におかしいことは、この部屋にガラス窓があることです。それも、金網で保護されているわけでもなく、本当に、ただのガラス窓がそこにあるのです。
考えてもみて下さい。青酸ガスによる処刑が行なわれている時、「ガス室」の中にいる犠牲者たちがそのガラス窓を割ったら、一体どんなことが起こるでしょうか?言うまでもありません。周囲にいる作業員たちの生命に危険が及ぶことは必定です。一体、ドイツ人たちは、何のために、処刑用ガス室にガラス窓を付けたりしたのでしょうか?
また、前述のリューシュター氏は、マイダネックを訪れ、この「ガス室」を処刑用ガス室の専門家の目で視察した際、この「ガス室」に前述した排気用の高い煙突がないことなどを指摘し、これが処刑用ガス室だったとは考えられない、という意味の評価を下しています。−−
(西岡昌紀『アウシュウィッツ『ガス室』の真実/本当の悲劇は何だったのか』
(日新報道・1997年)138〜139ページより)
−−それから、前述した火葬場は、この「シャワー棟」からはるか遠い場所にあるわけですが、その火葬場の隣にも、「ガス室」とされる部屋が一つ公開されています。ところが、一見して分かることは、その火葬場とこの「ガス室」のコンクリートの質が全然違うことです。つまり、同時期に建てられたはずのものなのに、何故か「ガス室」だけが真新しいのです。ですから、この火葬場の方は、病死者などを火葬するために戦争中に建てられた建物だと考えられますが、その隣の「ガス室」は後から作られたものだと思われます。そして、この「ガス室」にも、処刑用ガス室に必要な気密性がないことを、リューシュター氏は指摘しています。
ついでながら、マイダネックに展示されているこれらの「ガス室」については、最近、何と「定説」側論者の間からも、その信憑性に強い疑問が上がり始めています。アメリカのマイケル・シャーマー(Michael Shermer)氏や前出のプレサック氏がそうですが、こういうことを日本の「定説」側論者たちは知らないのではないでしょうか?彼らは、「定説」側論者の中からもこういう声が出始めていることをどう考えるのでしょうか?−−
(西岡昌紀『アウシュウィッツ『ガス室』の真実/本当の悲劇は何だったのか』
(日新報道・1997年)140ページより)
−−「絶滅収容所」とされる収容所に「現存」する「ガス室」は、これが全てです。これまでお話ししたことから考えると、私には、アウシュヴィッツやマイダネックなどで公開されているこれらの「ガス室」は、誰かが戦後、捏造したものだったとしか考えようがありません。そして、そこを戦後、管理していたのは、ソ連に支配されたポーランドの共産主義政権だったのですから、それらを捏造したのが誰であったのかは、容易に想像できるのではないかと、私は思います。−−
(西岡昌紀『アウシュウィッツ『ガス室』の真実/本当の悲劇は何だったのか』
(日新報道・1997年)141ページより)
−−それから、オーストリアのマウトハウゼン収容所跡にも「ガス室」が展示されていますが、この「ガス室」も、ガス室に必要な気密性がないこと、及び「ガス室」内部から青酸反応が出ないことが、前出のリューシュター氏によって指摘されています。つまり、マウトハウゼンの「ガス室」も、本物の処刑用ガス室だったとは考え難いということです。また、この収容所は、「定説」側から「絶滅収容所」として挙げられておらず、マウトハウゼン収容所に関する「定説」側の主張自体が不明確であることは、既に述べた通りです。(イェフダ・バウアーという「定説」側歴史家は、このマウトハウゼン収容所で「ガス室」によって殺された犠牲者は一人もいない、と書いているそうですが、私は、まだこれを確認していません。「定説」側歴史家の中にこういうことを述べる人がいるのでは、議論自体が困難です)。−−
(西岡昌紀『アウシュウィッツ『ガス室』の真実/本当の悲劇は何だったのか』
(日新報道・1997年)141〜142ページより)
−−その他「定説」側の主張自体が不明確な収容所は幾つかありますが、前述のように、「ガス室」で殺された死体がどこの収容所でも確認されていなかったことを「定説」側の歴史家が公言しているのです。ですから、どこの収容所においてであれ、少なくとも、ドイツが、「ガス室大量殺人」を行なったという物的証拠はありません。また、他にもこれからさらにお話しするような理由があり、私自身は、現状では、ドイツの支配する場所で、「ガス室大量殺人」が行われて居いたとは、到底信じることはできません。
そうしたさらなる理由はこの後の私の話を聞いて頂ければ、と思いますが、ここで一つだけ、その理由を挙げておこうと思います。それは、ガス室による処刑が、極めて高価な処刑法だということです。即ち、アメリカでは、色々な歴史的経緯から、とにもかくにもガス室が他の処刑法とともに採用されてきたわけですが、そのアメリカでも、ガス室による処刑は、作業が煩雑な上、作業員にとって危険であり、そして、極めて高価なため、すたれつつあるというのが、現状なのです。
アメリカのガス室処刑との比較を絶対視するつもりはありませんが、世界でただ一国ガス室による処刑を行なってきたアメリカが、この処刑法に関して最も経験を持つ国であることは余りにも明らかなことです。ところが、そのアメリカですら、ガス室処刑が余りに高価であることから、この処刑法を捨てつつあるのです。全てが同じではないとしても、そんな処刑法を「民族絶滅」の手段として選んだという話は、根本的に不合理だと私は思うのです。皆さんは、そうお思いにならないでしょうか?−−
(西岡昌紀『アウシュウィッツ『ガス室』の真実/本当の悲劇は何だったのか』
(日新報道・1997年)142〜143ページより)
−−この章を終わるに当たって、或る単純な事実を指摘しておきたいと思います。それは、既にお話しているように、今日「定説」が「絶滅収容所」と呼ぶ収容所が、何故か、ポーランド領内にのみ存在したとされていることです。これは、単なる「偶然」なのでしょうか?
「偶然だ」とおっしゃる方もあるかと思います。しかし、ご存知の通り、そのポーランドは第二次大戦後、東からやって来たソ連にそのまま占領され、ソ連の衛星国になって、1980年代末まで、親ソ的な共産主義政権が続くという歴史を辿っています。つまり、「定説」が「絶滅収容所」と見なす六つの収容所は、第二次大戦末期にソ連がポーランドに侵攻してから80年代末期まで、一貫してソ連とその支配下の共産主義政権の管理下にあったということです。これは全く単純な歴史的事実ですが、この問題を考える時、看過し得ないことではないかと私は思うのです。
私はここで、思想としての共産主義を論じるつもりはありません。また、ソ連やその支配下にあったポーランドの共産主義政権について論じるつもりもありません。しかし、このように、「ガス室」の「実物」が公開されているアウシュヴィッツ(ビルケナウを含む)やマイダネックが戦後ずっとこうした政治的状況下にあったことの意味は、やはり、極めて重大ではないかと思うのです。−−
(西岡昌紀『アウシュウィッツ『ガス室』の真実/本当の悲劇は何だったのか』
(日新報道・1997年)143〜144ページより)
−−例えば、ここにお見せする新聞記事をご覧下さい。これは、ポーランドで民主化が進んだ90年7月の報道ですが、アウシュヴィッツの「犠牲者数」について、アウシュヴィッツを管理してきたポーランド当局が大きな変更を行なった、という内容のものです。
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−−「アウシュビッツ犠牲者数は150万人」−−
[ハンブルク17日=時事]ポーランド自主管理労組「連帯」系の「ガゼタ・ビボルチャ」紙が17日報じたところによると、第二次大戦中にナチス・ドイツの強制収容所アウシュビッツ(隣接のビルケナウを含む)で虐殺されたユダヤ人、ポーランド人の犠牲者数は多くて百五十万人で、これまで公式に主張されていた四百万人よりかなり少ない、と主張するポーランド歴史学者の調査報告がこのほど発表された。アウシュビッツ収容所跡にある博物館では既に、犠牲者四百万人という掲示は削除されたという。
この調査報告は、アウシュビッツ博物館のピーペル歴史部長によつもの。同部長はアウシュビッツへの鉄道輸送記録や欧州各地の当時のゲットー(ユダヤ人居住区)の記録を調べて、アウシュビッツに連行されたユダヤ人らの数を少なくとも百三十万人と推定。うち二十二万三千人が生き延びたか、他の収容所へ移送されたため、犠牲者は最低百十万人多くても百五十万人と結論ずけている。
(読売新聞 1990年7月19日)
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即ち、それまで、アウシュヴィッツの「犠牲者数」はおよそ四百万人とされていたのを、ポーランド当局を代弁するピペル博士が百数十万人に「下方修正」した、というのがこの報道の主旨に他なりません。これは、「アウシュヴィッツの犠牲者数」について、ソ連支配下のポーランドで言われていた数字とこの数字の間に250万人以上もの「誤差」があったことを意味します。250万人(!)です。250万人といえば、第二次世界大戦における日本の戦死者に近い数字ですが、そんあ「誤差」が一つの収容所の死亡者数について存在したということを、皆さんはおかしいとはお思いにならないでしょうか?これは大変な変更ですが、このような見解の変更が、ポーランドがソ連の支配を脱し、民主化が進んだ時点で行われたというのも、単なる「偶然」なのでしょうか?−−
(西岡昌紀『アウシュウィッツ『ガス室』の真実/本当の悲劇は何だったのか』
(日新報道・1997年)144〜145ページより)
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(参考サイト(木村愛二著『アウシュヴィッツの争点』より))
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http://www.jca.apc.org/~altmedka/aus-11.html
−−前述した様々な不合理に加え、戦後ポーランドのこうした状況を考えると、私には、アウシュヴィッツやマイダネックで公開されているこれらの「ガス室」は、ポーランドの共産主義政権か、或いは戦後この国を支配し続けたソ連が、何らかの政治的理由から捏造したものだったとしか考えようがないのです。彼らの動機が何であったかは、後で論じることとしましょう。また、私は、直接、捏造を行なった者たちが全てを握る者だったとも思いませんが、ここで私は皆さんに、或る歴史上の事件を思い出して頂きたいと思うのです。それは、あのカチンの森の事件です。−−
(西岡昌紀『アウシュウィッツ『ガス室』の真実/本当の悲劇は何だったのか』
(日新報道・1997年)145ページより)
−−「カチンの森事件」と言っても、ご存知ない方もおられるでしょう。そこで、この事件に関連した朝日新聞の記事(1990年3月25日)をここにお見せしたいと思います。「カチンの森事件」というのは、この記事でも説明されていますが、一口に言うと、第二次大戦中、ソ連が、大勢のポーランド人将校を秘密裏に殺害し、カチン(Katyn)という場所に密かに埋葬したという事件です。この恐しい事件の背景には、スターリンが反ソ的なポーランド人将校たちを抹殺しておこうと考えたのではないかとか、色々な推測がなされていますが、ここで注目して頂きたいのは、ソ連が戦後この事件についてどんな態度を取ったかです。この事件には、もちろん、殺されたポーランド人将校たちの死体という証拠があり、後年、ソ連自身が犯行を認めているわけですが、ソ連は戦後永い間、自分達がこの大量殺戮を認めず、この事件を「ドイツの犯行だ」と言い続けたのです。これが、ドイツによる犯行ではなく、ソ連による犯行だったことは、ゴルバチョフ時代になってソ連自身が認めたわけですが、この同じソ連が、アウシュヴィッツやマイダネックにおける、いわば「第一発見者」であったことに注目して頂きたいのです。つまり、スターリン時代のソ連には、このように歴史を偽造した「前歴」があるということです。(現にソ連は、戦後間もない時期、ニュールンベルク裁判に、何と「ドイツがカチンの森で死体を埋めるのを見た」という「証人」の「証言」まで提出しています)。
ところが、その同じソ連が、アウシュヴィッツやマイダネックの「第一発見者」だったのです。そして、そのソ連がポーランドに打ち立てた傀儡政権が、あれらの奇妙な「ガス室」を、アウシュヴィッツやマイダネックに公開し続けてきたのです。これを皆さんは、単なる「偶然」だとお考えになるでしょうか?−−
(西岡昌紀「アウシュウィッツ『ガス室』の真実/本当の悲劇は何だったのか?」(日新報道・1997年)146〜147ページより)
−−実際、ソ連に支配されていた時代、ソ連の傀儡だったポーランドの共産主義政権は、この「カチンの森」事件について完全にソ連に追随し、自国民の深い疑惑にも拘らず、この問題でソ連に事実を問い正そうなどとはしませんでした。そんな時代のそんな国家権力が「公開」してきたのが、アウシュヴィッツやマイダネックの「ガス室」であることに、日本人は気付くべきなのです。−−
(西岡昌紀「アウシュウィッツ『ガス室』の真実/本当の悲劇は何だったのか?」(日新報道・1997年)148ページより)
−−このように、「ガス室大量殺人」については、物的証拠と見なせるものは何もなく、あるのは、結局、「証言」だけという他はないのです。このことは、どれほど強調されても、され過ぎることはありません。しかも、そもそも「ガス室」というものは、アメリカの経験では、非常に高価で効率の悪い処刑法なのに、それをドイツは「民族絶滅」の手段として用いた、というのです。
初めにも述べた通り、この本の目的は、「ガス室」を否定することではありません。この本の目的は、「民族絶滅計画」とともに、この「ガス室」の話に疑問を投じることに過ぎません。しかし、その疑問の根拠がこれだけあり、かつ、他にもまだまだあるということの意味を、どうかお考え頂きたいと思います。−−
(西岡昌紀「アウシュウィッツ『ガス室』の真実/本当の悲劇は何だったのか?」(日新報道・1997年)148ページより)
−−ただし、私がそう言うと、皆さんの中には、「たとえ物証がないとしても、ガス室大量殺人を見たという証言はたくさんあるのではないか」とおっしゃる方がおられるに違いありません。「目撃証言」があったのだから、「ガス室大量殺人」もあったのだろう、という論理です。これは、当然の疑問と言えますが、逆にお尋ねしようと思います。皆さんは、ナチスの収容所に入れられていた人々が、皆「ガス室」の存在を肯定しているかのような錯覚を抱いてはおられないでしょうか?違うのです。そして、それが、皆さんの思い込みの最大の理由に違いありません。そこで、そうした「証言」の問題について、検討を加えたいと思います。−− (第三章終はり)
(西岡昌紀「アウシュウィッツ『ガス室』の真実/本当の悲劇は何だったのか?」(日新報道・1997年)149ページより)
(続きはここで読めます)
↓
http://www.asyura2.com/08/holocaust5/msg/191.html
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