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−−「アウシュヴィッツ『ガス室』の真実/本当の悲劇は何だったのか」−−
終章 戦時報道は終わらない
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イスラエルのガザ空爆・侵攻から2か月が経とうとして居ます。
報道は減りましたが、医療状況の悪化をはじめとする現地ガザの民生の状況には、深い憂慮を抱かずに居られません。
−−報道の減少は、逆に、国際社会の関心の低下を招くのではないかと憂慮して居ます。
イスラエルのガザ侵攻と、それによって生じたおびただしい民間人の被害に対する私の抗議として、特に、何の罪も
無い子供たちの被害に対する私の講義として、私の著作である 『アウシュウィッツ『ガス室』の真実/本当の悲劇は何だったのか』
(日新報道・1997年)の一部(第一章)の全文をお送りします。
コピペによる転送、転載を歓迎します。以下の文章の一部分でも全体でも、自由に御利用下さい。ただし、文章の変更は
お断り致します。文献参照、写真、グラフ、図、などは、労力の問題と技術的理由から、割愛させて頂きましたので、
御覧になりたい方は、本の実物で御覧下さい。
イスラエルのプロパガンダである「ナチのガス室」をまだ信じて居る御友人、御知人などにメールとして転送される事や、
各種掲示板に貼り付けて下さる様、お願い申し上げます。−−イスラエルがガザで行なった民間人殺戮への抗議活動として、
そして、民生状況の劣悪化への抗議として、御協力をお願ひ申し上げます。
これは、私のインティファーダです。
http://spn05738.co.hontsuna.com/article/1059522.html
(この本についてのサイトです)
2009年2月23日(月)
西岡昌紀
(以下本文/転送・転載歓迎)
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(題6章 ホロコーストの政治学 の続きです)
終章 戦時報道は終わらない
−−この本の最後に、私は、皆さんに或る記事をお見せしたいと思います。それは、第二次大戦中の1943年8月8日に、ニューヨーク・タイムスに載った記事ですが、そこにどんなことが書かれてあるか、皆さんは想像がおできになるでしょうか?
これは、ニューヨーク・タイムスが、ロンドン発の情報として伝えたドイツ占領下のポーランドについての「報道」ですが、戦争中に書かれたこの記事は、前述したトレブリンカ収容所に言及して、こんなことを書いているのです。
「当地(ロンドン)で発行されている『ポーランド労働闘争(Polish Labor Fights)』は、今日、ポーランドのトレブリンカでドイツ人によって運営されているユダヤ人絶滅(extermination)のための施設の目撃談を報道した。この場所だけで、ドイツ人たちは、200万人の人々を殺したと言われている。」
そして、この記事は、そのロンドンで発行されている「ポーランド労働闘争」が伝えた以下のような「目撃談」を引用するのです。
「それらの部屋は、(人々で)一杯になると、閉じられ、密封される。装置を通じて水蒸気(steam)が送り込まれ、犠牲者たちは、窒息し始める。初めの内は、叫び声が聞こえるが、次第に聞こえなくなり、15分後には全く聞こえなくなる。この罠が開かれ、死体が落とされると、熱と水蒸気で一緒に固まった死体が、一固まりになって転げ落ちて来る。その死体にホースで冷たい水がかけられ、それから、墓掘り人たちが、それらの死体を屠殺された動物の死体のように、プラットホームの上に積み上げて行く」
これが、ニューヨーク・タイムスが戦争中の43年に伝えていた、トレブリンカ収容所の様子だったのです。お気付きの通り、この記事には、「ガス室」の話は全く出て来ません。その代わりに、トレブリンカには、「水蒸気室(steam chamber)」なるものがあり、その水蒸気で多くのユダヤ人が殺されていた、と言っていたのです。そのような「目撃談」を、お読みの通り、ポーランド筋からの引用としてではありますが、天下のニューヨーク・タイムスがこうして報道していたのです。
言うまでもなく、今日、トレブリンカで水蒸気室による大量殺人が行われていた、などと主張する歴史家は見当たりません。本文で述べた通り、今日、「定説」側は、トレブリンカには「ディーゼル・エンジンで一酸化炭素を発生させるガス室」があった、と主張しているのです。ところが、戦争中のアメリカの新聞を見ると、このように、そのトレブリンカに「ガス室」があったとは書かれていないのです。水蒸気室による大量殺人という、訳の分からない話が語られていたのですが、これは、話が変わっているということではないのでしょうか?−−
(西岡昌紀『アウシュウィッツ『ガス室』の真実/本当の悲劇は何だったのか』
(日新報道・1997年)284〜286ページより)
−−この話を「戦争中の誤報」で片付けることはできません。何故なら、この「水蒸気室」の話は、その後、ポーランド政府によって、何とニュールンベルク裁判にまで提出されていたからです。つまり、戦後、ポーランド政府がニュールンベルク裁判に提出した公式の文書にも、この「トレブリンカの水蒸気室」は事細かに描写されているのです。ですから、これは、単なる戦争中の誤報ですまされるような話ではなかったのです。しかし、その「トレブリンカの水蒸気室」は、その後、いつの間にか語られなくなり、「水蒸気室」は「ガス室」に変わっているのです。「ディーゼル・エンジンによって一酸化炭素を発生させる」という、奇妙な「ガス室」ではありますが(213ページ)。
今日、「定説」側の歴史家は、この「トレブリンカのガス室」について語ろうとはしません。もし、これが事実でなかったのなら、それが否定された理由があると思うのですが、それも不明なのです。考えてみれば、今日、トレブリンカに在ったとされる「ディーゼル・エンジンにより一酸化炭素を発生させるガス室」とこの「水蒸気室」がどれだけ違うか疑問ですが、一体、この「ナチ水蒸気室」の「目撃談」というのは、何だったのでしょうか?そして、この「水蒸気室」は何故、いつの間にか語られなくなったのでしょうか?−−
(西岡昌紀『アウシュウィッツ『ガス室』の真実/本当の悲劇は何だったのか』
(日新報道・1997年)286〜287ページより)
−−これだけではありません。これは私自身の目だは確認していませんが、ウド・ヴァレンディー(Udo Walendy)という研究者は、旧ソ連の新聞プラウダを調査し、ソ連軍がアウシュヴィッツを「解放」(?)した際の45年2月2日、プラウダがアウシュヴィッツについて驚くべきことを「報道」していた、と指摘しています。それは、アウシュヴィッツでドイツが、人間をベルトコンベヤーと電気で殺していた、という「報道」だというのです。そして、その記事には、今日、アウシュヴィッツの代名詞にされている「ガス室」のことは一言も書かれていない、とヴァレンディー氏は指摘しているのです。
これは一体、どういうことなのでしょうか?しかも、同様の「電気による大量殺人」は、ベルゼック(Belzec)収容所についても語られていたことが分かっています。しかし、今日、このベルゼックでそんなことが行なわれていたと言う歴史家を、私は知りません。ベルゼックについても、今日、「定説」側は、「ディーゼル・エンジンで一酸化炭素を発生させるガス室」があった、と言っているのです。−−
(西岡昌紀『アウシュウィッツ『ガス室』の真実/本当の悲劇は何だったのか』
(日新報道・1997年)287〜288ページより)
−−こうしてみると、連合国は戦争中、ドイツがヨーロッパ各地に作った収容所に関して、そこでは「電気による大量殺人」が行なわれているとか、「水蒸気による大量殺人」が行なわれているとか、色々な宣伝をしていたことが分かります。そして、それらの一部は、戦後の「戦犯裁判」にまで引き継がれていたのです。
ところが、それらの話はいつの間にか語られなくなり、いつしか、「ガス室」の話がそれにとって代わっているのです。つまり、事の真偽はともかくとして、大戦中、連合国が行なっていた戦時宣伝の延長線上に「ガス室」の話があった、と言って間違いではないのです。−−
(西岡昌紀『アウシュウィッツ『ガス室』の真実/本当の悲劇は何だったのか』
(日新報道・1997年)288ページより)
−−こうしてみると、「ホロコースト」の検証は、最終的には、第二次大戦中の戦時宣伝の問題にたどり着くように思われます。即ち、皆さんは、戦争中、日本やドイツが、新聞やラジオを検閲し、敵に対するプロパガンダを大々的に行なっていたことは、よくご存知のことと思います。しかし、皆さんは、その一方で、第二次大戦中、アメリカやイギリスといった連合国側もメディアを検閲し、様々なプロパガンダを行なっていたことは、余りご存知ないのではないかと思います。
今お話しした「トレブリンカの水蒸気室」はその一例に過ぎません。こうした滅茶苦茶な宣伝を連合国側もまた行なっていたのです。そして、ここが重要ですが、第二次大戦の終結により、日本やドイツの戦時宣伝は消滅し、否定されたわけですが、連合国側の戦時宣伝は戦後も、全く同じ形ではないにせよ、その多くが、そのまま継続された面が強いことに注意して頂きたいのです。即ち、「民主主義国家」を自称するアメリカやイギリスも、戦争中は、検閲を行ない、戦時宣伝をしていたということ、そして、そうしたアメリカやイギリスの戦時宣伝は、その多くが、戦後殆ど検証されないまま、「歴史」として語られるようになっていったことに注目して頂きたいのです。
こうした連合国側の戦時宣伝について語るには、最早、紙面がありません。しかし、こうした連合国側の戦時宣伝が戦後世界の文化や価値観にも大きな影響を与えていることは、ここで指摘しておきたいと思います。そして、それを自由に検証できなければ、私たちが生きてきた戦後の世界は自由な世界ではなかった、ということになるのではないでしょうか?−−
(西岡昌紀『アウシュウィッツ『ガス室』の真実/本当の悲劇は何だったのか』
(日新報道・1997年)289〜290ページより)
−−ナチスを憎んだドイツ人は少なくありません。日本人もドイツ人も、あの大戦中、多くの罪のない人々を苦しめたことを忘れる権利はありませんが、あの時代、ナチスのイデオロギーを受け入れようとしなかったドイツ人が大勢いたことは、忘れるべきではありません。そんなドイツ人の一人に、私は、上智大学の故ロッゲンドルフ教授という方を挙げたいと思います。
このロッゲンドルフ教授は戦前、ドイツから日本に渡り、その後、戦争中から戦後へと人生の大半を教育者として過ごした方ですが、「一刻も、一秒たりともナチスを支持したことはない」と明言していた方です。そのロッゲンドルフ教授は晩年、自分が見た戦前、戦中の日本のことなどを回想する本を出しておられますが、その中に非常に興味深い箇所があるので、以下に引用したいと思います。
(以下、ロッゲンドルフ教授のことを「ロ師」と書きます)
「ロ師 憎悪というものはね、そう簡単に命令して植えつける訳にいかんですよ。ちょっとでも教養のある人や良識のある庶民なら、わかっていたと思う。その点、民主主義の国の方が、世論操作は圧倒的に上手いですよ。敵に対して戦う意味を見出すには、憎悪を抱かせなければならない。社説、ニュース、いかにももっともらしい話、その他あらゆる事を動員して、頭のいい、筆の立つ記者たちの協力で、憎悪を少しずつ盛り上げて行くんです。民主主義の国では、納得の行く話でなければ憎悪を作る出す事はできません。しかし、こわいのは、そうやってつくられた憎悪なり偏見なりは、なかなか消えないんですね」(ヨゼフ・ロッゲンドルフ:加藤恭子『和魂・洋魂/ドイツ人神父の日本考察』講談社70〜71ページ)
これは、ロ師が、戦争中の日本の戦時宣伝を回想して述べた一節ですが、同師のこの言葉は、私が先に論じた、民主主義社会における戦時報道の意味を見事に言い当てているとは言えないでしょうか?ロ師はこの本の中で、質問に答えて、こんなことも言っておられます。
「ロ師 第一次世界大戦の時の事だが、ドイツ兵がベルギーのある教会に乱入して、死体を鐘の舌代わりに使ったというような反独プロパガンダがあった。アメリカも日本について悪意的な報道をくり返した。
−−日本も米英に対して連日やっていましたが。
「ロ師 問題は、報道のひどさではない。民衆がそれを信じるか、信じないか、だ。民主主義も国では信じるが、全体主義の国では絶対信じない。毎日の新聞を開くたびに、戦争についてどうせ嘘ばかり書いてあるのだろう、ととばしてしまう。だから、社会面で少なくとも何か信じられる様な報道はないかと探すんだね」(同71〜72ページ)
言うまでもないことですが、ロ師は、だから全体主義の方がいい、などと言っておりのではありません。そうではなくて、民主主義社会の持つ弱点を指摘しているのです。そして、私がこの本で皆さんに言いたいことも、結局これと同じです。即ち、私たちは第二次大戦後、確かにファシズムからは解放されました。それは素晴らしいことです。しかし、その一方で私たちは、この戦後社会において、マスメディアというものを余りにも信用し、それを検証することを忘れてきたのではないでしょうか?「新聞やテレビが嘘をつくはずがない」とでもいうように・・・・。
ロ師が暗示しているように、これは、人々が「民主主義」に住み慣れればこそ発生した問題だ、ということができます。その結果、例えばこの「ガス室」神話を検証なしに盲信し、少なくとも結果的には、パレスチナ問題などについて、歴史学者やジャーナリストたちをも含めた私たちみんなが、情報操作されてしまったのではないか?私は、この問いを皆さん全員に考えて頂きたいのです。−−
(西岡昌紀『アウシュウィッツ『ガス室』の真実/本当の悲劇は何だったのか』
(日新報道・1997年)290〜292ページより)
−−あの湾岸戦争の時、私は、あの油まみれの水鳥の映像が、「イラクに対して戦術核兵器を使うべきだ」という声と重なるのを見て、恐ろしい気持ちを持ちました。そしてその時、このロ師の言葉を思い出していました。即ち、逆説的ですが、民主主義社会において、人々はより騙されやすくなってしまうということ、メディアを容易に信じてしまうということ、そして、権力者たちがそのメディアによる情報操作を多用するということ。そうしたことが湾岸戦争のあの水鳥の事件には如実に示されていたと、私は思うのです。これは戦時報道の恐ろしさですが、考えてみれば、こうしたメディアによる情報操作、世論操作というものは、民主主義社会が常に直面し続ける問題です。そして、戦時報道というものは、その問題をたまたま露呈しているに過ぎません。裏を返せば、戦時報道というものは、こうした問題を私たちに考えさせる反面教師だとも言えます。−−
(西岡昌紀『アウシュウィッツ『ガス室』の真実/本当の悲劇は何だったのか』
(日新報道・1997年)292〜293ページより)
−−「ガス室」についても、先に論じたように、第二次世界大戦中から直後の報道が、その誕生に大きな役割を演じていたと私は思います。しかし、問題は、むしろ戦後の半世紀です。即ち、マスメディアは、この「ガス室」神話を戦後五十年間、結局、検証しようとはしませんでした。だからこそ、私たちは、この話を盲信してきたわけですが、こうした日本や欧米のマスメディアは、結局、今も戦時報道を続けているのと同じではないかと、私は思うのです。つまり、戦争が終わっても、戦時報道は終わらないということです。
そのようなことがこの「民主主義社会」において続いていることの意味を、どうかお考え頂きたいと思います。それは、何故なのか?その答えのヒントが、先に引用したロ師の言葉の中にあるように思われます。
「問題は、報道のひどさではない。民衆がそれを信じるか、信じないか、だ。」
−− (終章 終はり)
(西岡昌紀『アウシュウィッツ『ガス室』の真実/本当の悲劇は何だったのか』
(日新報道・1997年)292〜293ページより)
(続きはここで読めます)
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