★阿修羅♪ > ホロコースト5 > 162.html ★阿修羅♪ |
Tweet |
イスラエルのガザ侵攻と、それによって生じて居るおびただしい
民間人の被害に対する私の抗議として、以下に、管理人の著作である
『アウシュウィッツ『ガス室』の真実/本当の悲劇は何だったのか』
(日新報道・1997年)を貼り付けます。
コピペによる転送、転載を歓迎します。イスラエルのプロパガンダ
である「ナチのガス室」をまだ信じて居る御友人、知人などにメール
として転送される事や、各種掲示板に貼り付けて下さる様、お願ひ
申し上げます。−−イスラエルがガザで行なって居る民間人
殺戮への抗議活動として、御協力をお願ひ申し上げます。
2009年1月17日(土)
湾岸戦争ぼっ発から18年目の日に
阪神大震災から14年目の日に
西岡昌紀
http://spn05738.co.hontsuna.com/article/1059522.html
(この本についてのサイトです)
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
(以下転載・転送自由)
第二章 「ユダヤ人絶滅計画」は実在したか
−−第二次世界大戦前夜から大戦中、ナチスドイツは、ユダヤ人を差別、迫害しました。そして、その結果、多くのユダヤ人たちが、筆舌に尽くしがたい苦難を経験しま
した。このことには、一点の疑いもありません。また、ユダヤ人のみならず、その他
多くの人々がナチスドイツによって苦しめられたことも明白な史実です。こうしたことについては、細部の検証は必要と思いますが、基本的に異論を唱えるつもりはないので、この本ではあえて論じません。しかし、そのドイツは、多くの歴史家が断言する
ように、ユダヤ人を「絶滅」しようとまでしたのでしょうか?−−「絶滅」まで。そして、その目的で、ドイツは、「ガス室」によって、何百万人ものユダヤ人を処刑したの
でしょうか?この本では、この問題に関するこうした従来の主張を便宜的に「定説」と
呼ぶことにしますが、「定説」とは、旧連合国が戦後ニュールンベルク裁判などを通じて発表し、それに従う歴史学者やマスコミが語り続ける説明のこととご理解下さい。
その「定説」によれば、ナチスドイツは、
(1)ユダヤ人をただ迫害しただけではなく、「絶滅」しようと計画し、
(2)そのために、他のユダヤ人収容所とは別に、「絶滅収容所」と呼ばれる特別の
収容所を幾つか作り、
(3)それらの「絶滅収容所」に処刑用ガス室を作って、ユダヤ人を大量に処刑し、
死体を焼却した
ということになっています。
こうした「定説」の説明の内、一番注目して頂きたいのは、(1)の「ドイツはユダヤ
人を絶滅しようとした」という主張です。即ち、既に述べましたが、「定説」側歴史家
によれば、ドイツは、ただユダヤ人を殺したのではないのです。彼ら(「定説」側歴史
家)は、ドイツはユダヤ人を「絶滅」しようとした、と言っているのです。つまり、議
論の出発点なのでもう一度繰り返しますが、ドイツは第二次大戦中、ユダヤ人のみなら
ず、ポーランド人やロシア人の非戦闘員をも多数、殺害しています。これは、事実で
す。しかし、それについて「定説」側は、ポーランド人やロシア人は基本的には、戦争もしくはその延長上の事由で殺されたのであって、「絶滅」の対象にされたのではない。それに対して、ユダヤ人の場合は、ただユダヤ人であるというだけの理由で、
「絶滅」させられようちしたのだ、と言うのです。「定説」にとって一番重要な主張
は、実は「ガス室」よりも、むしろこの「絶滅」という政策があったとする点にあると
言えます。そして、こうした政策を計画、実行した国家は、前にも後にも例がないと、
「定説」は強調します。そして、その「ユダヤ人絶滅」の手段として「ガス室」が利用
されたと「定説」側は言うのですが、ドイツは本当に、ユダヤ人をただユダヤ人だとい
うだけの理由で「絶滅」するといった「歴史上類を見ない」政策を計画、実行したので
しょうか?−−
(西岡昌紀「アウシュウィッツ『ガス室』の真実/本当の悲劇は何だったのか?」(日新報道・1997年)44〜46ページより)
−−「ユダヤ人絶滅」という政策があったかどうかはこの後論じるとして、
皆さんの大部分は、「ナチのガス室」の存在は疑いようのない事実だと思って
おられるに違いありません。しかし、その根拠を自分自身で吟味した方は、殆ど
おられないことと思います。そこで、逆にお尋ねしたいと思います。皆さんは、
歴史家たちが、一体何を根拠に、この「ガス室大量殺人」を事実として語り続け
てきたのか、お考えになったことがあるでしょうか?或いは、テレビや新聞が、
何を根拠に「ガス室」の存在を繰り返し語り続けてきたのか、その証拠を確かめてみたことがおありでしょうか?結論から言いましょう。驚くべきことに、何も物的証拠がないのです。本当です。これだけ多くの本が書かれ、テレビドラマや映画で描かれてきた「ナチの『ガス室』」が実在し、使われた証拠は、実は何もないのです。あるのは「証言」だけで、何も物証はないのです。その上、そうした「証言」には、後で述べるように、一貫性がなく、さらに、科学的に不合理な点が余りに多いのです。ですから、このことを知った今、私は、この「ナチの『ガス室』」の存在を最早信じることはできません。しかし、「証言」の問題は後で詳しく論じるとして先ず、この何も証拠がないという私の結論に耳を傾けて頂きたいと思います。もう一度言いますが、「証言」はあります。しかし、物的証拠は何もないのです。「そんな馬鹿な!」とおっしゃる方が
大部分のことだと思います。これだけ、新聞やテレビが繰り返し映像まで示して語り続けてきた「ガス室大量殺人」に、「証言」の他に何も証拠がないなんて、そんな馬鹿な話があるか、とお思いになるのは、至極当然のことです。しかし、それでは、次の事実は、どう考えたらよいのでしょうか?第二次大戦中、ドイツは、何百万人ものユダヤ人ほかの人々を、「ガス室」で、「毒ガス」によって殺したということになっています。では、その死体は、一体、何体くらい確認されているのでしょうか?驚かないで頂きたいと思います。実は、一体も確認されていないのです。戦後、これだけ「ドイツはガス室で大量殺人を行なった」と言われながら、その「ガス室」で殺された死体は、実は一体も確認されていないのです。「ガス室」の話を知らない方は殆どおられないと思いますが、その「ガス室」で殺された死体が実は一体も確認されていなかったという事実を、皆さんは、今日までご存知だったでしょうか?−−
(西岡昌紀「アウシュウィッツ『ガス室』の真実/本当の悲劇は何だったのか?」(日新報道・1997年)46〜48ページより)
−−詳しくお話ししましょう。先ず、確認しておきます。ドイツは第二次大戦中、自国及び占領したヨーロッパの支配地域に多数の収容所を作り、ユダヤ人を収容しました。これは間違いがありません。そして、戦争末期、ソ連軍を含めた連合軍は、ヨーロッパの東西からドイツ支配地域に攻め入り、そうしたナチの収容所の状況を目のあたりにしています。問題は、連合軍がそこで何を発見したかです。事の真偽は別として、連合国は、そのずっと以前から、「ドイツは、収容所でユダヤ人を大量に殺害している」といった宣伝を行なっていました。つまり、実際にナチスの収容所に足を踏み入れる前からそうした宣伝をいたわけですが、戦争末期になると、連合軍は、実際にドイツの支配領域にあったそれらの収容所に足を踏み入れることになります。その際、彼ら連合軍が発見したものが、写真のような光景です。これは、ドイツ北部の収容所ベルゲン・ベルゼン(Bergen−Belsen)収容所でイギリス軍が撮影した写真の一枚ですが、このように連合軍は、戦争末期にヨーロッパ各地でナチスの収容所の足を踏み入れた時、そこで、このような数多くの死体を発見しています。その数は大変なもので、そこに足を踏み入れた連合軍の兵士たちは、こうした死体の山に直面して、大変な衝撃を受けています。ところが、ここに重要なことがあるのです。それは、これらのおびただしい死体を調査した連合軍は、その際、チフスなどによる病死者の死体は多数確認したものの、肝心の「ガス室」で、つまり何らかの「毒ガス」で殺された死体は実は一体も確認できなかった、という医学的事実なのです。もう一度、言いましょう。連合軍は、「ガス室」で殺された死体は一体も確認できなかったのです。−−
(西岡昌紀「アウシュウィッツ『ガス室』の真実/本当の悲劇は何だったのか?」(日新報道・1997年)48〜49ページより)
−−「そんな馬鹿な!」と言われるかも知れません。しかし、これは、驚くべきことに、他でもない「定説」側の歴史家が言っていることなのです。ラウル・ヒルバーグ(Raul Hilberg)教授という、何と、「定説」側の超大物歴史家が、自分でそう言っていることなのです。つまり、「ガス室」があったと主張する側の歴史家自身が、そのガス室大量殺人の物証である「ガス室」で殺された死体は当時、確認されていなかったと、はっきり認めているのですが、皆さんは、これをどうお考えになるでしょうか。しかも、このことを法廷で−−ですから、もちろん宣誓しているはずです。−−問われて答えているのですから、「定説」側の重鎮である大物歴史家が自ら「保証」したようなものです。そして、このことは、後で述べるように、当時ヨーロッパにいた唯一の法医学者だったと自認するアメリカの医師チャールズ・ラーソン(Charles Larson)の証言ともほぼ符合しているのですが、これでは、死体なき殺人事
件のようなものではないでしょうか。−−
(西岡昌紀「アウシュウィッツ『ガス室』の真実/本当の悲劇は何だったのか?」(日新報道・1997年)49〜50ページより)
−−そう言うと、皆さんの多くは当惑して、次のように言われると思います。−−テレビの「資料映像」などでも現にこうしたナチス収容所で発見された死体の山を見ることがあるが、あれは一体何なのだ?と。当然の質問です。しかし、ちょっと待って下さい。先にお見せした写真を含めて、こうした死体の映像は、今お話ししたように、戦争末期から直後にかけてナチス収容所を開放した際、連合軍が撮影したものです。それらは、もちろん悲惨な光景です。しかし、ちょっと考えて欲しいのです。こうした死体の映像は、「ガス室」の存在を証明する物的証拠なのでしょうか?悲惨極まりない映像ではありますが、一体どうして、写真(映像)だけで、チフスなどによる病死者の死体と「毒ガス」による犠牲者の死体を区別することができるのでしょうか?死体が幾らたくさん写されていても、それだけでは、死因が何であったのかは分かりません。つまり、写真などによる死体の映像だけでは、「ガス室」による大量殺人が行われたという証拠にはなりようがないのです。普通、死体の死因を特定するには、病理学者とか法医学者などと呼ばれる医学の、それも非常に専門的な分野の専門家による解剖が絶対に必要です。それも全身の解剖が、です。(髪の毛の分析などでは駄目)。ですから、ああした数多くの死体が「ガス室」で「毒ガス」によって殺された犠牲者だったかどうかは、そうした専門家による解剖の後、初めて分かる事なのです。ところが、前出のヒルバーグ教授は、「定説」側の重鎮ですが、1985年に、法廷で問われて、戦争末期から直後の時期に、そうした解剖によって「ガス室」で殺された死体が確認されたことは全くなかったことを、はっきり認めているのです。−−
(西岡昌紀「アウシュウィッツ『ガス室』の真実/本当の悲劇は何だったのか?」(日新報道・1997年)50〜51ページより)
−−また、先ほども触れましたが、戦争中、アメリカ軍に従軍して、ドイツの収容所で発見された死体を多数解剖した医学者にチャールズ・ラーソン博士という医師がいます。このラーソン博士は、法医学者でありまた病理学者でもあった高名な医学研究者ですが、後年、自分のそうした特異な体験を回想して、注目すべきことを洩らしているのです。ラーソン博士によれば、当時ヨーロッパでそのような医学的調査をしていた専門家は博士ただ一人だったろうとのことです。ところが、そのラーソン博士が、西部戦線の収容所でアメリカ軍が発見した数多くの死体について、こう述べているのです。−−「中毒(poisoning)による例は一つも発見できなかった」
この「中毒(poisoning)」という言葉には、当然、「毒ガス」による事例も含まれるはずです。もっとも、ラーソン博士のこの言葉は西部戦線に関するものですから、アウシュウィッツをはじめとするポーランド領内の収容所は彼の体験外ということにはなります。(後述)しかし、その点を含めて「定説」側を代表する歴史家(ヒルバーグ)が何と言っているかと言えば、前述のように、当時、解剖によって「ガス室」で殺された死体が確認されたことは全くなかったと、はっきり認めているわけなのです。−−
(西岡昌紀「アウシュウィッツ『ガス室』の真実/本当の悲劇は何だったのか?」(日新報道・1997年)51〜52ページより)
−−このことについて、さらにお話ししたいと思います。皆さんは、テレビなどで、ナチスの収容所で発見された死体の山を見たことがおありと思います。そして、そうした映像を見て、「ドイツガス室でユダヤ人を殺した」と信じ込んでいる方が多いのではないかと思います。しかし、そうした死体の山は、「ガス室大量殺人」の「証拠映像」などでは全くないのです。例えば、先ほどお見せした写真は、ベルゲン・ベルゼン収容所という収容所で撮影された写真の一枚でした。(48ページ)もう一度、ご覧になって下さい。このように、穴の中に被収容者たちの死体が山積みされた恐しい写真を写したもので、テレビの「ドキュメンタリー」などで「ホロコースト」が扱われる際には必ずと言っていいほど、このベルゲン・ベルゼンの死体の映像が出て来ます。ドイツ北部にあったこの収容所は、あのアンネ・フランクがその短い生命を終えた場所として有名ですが、戦争末期にイギリス軍によって解放され、こうした映像が記録されていたのです。それで、その時イギリス軍が撮影したこれらの映像が今もマスメディアで頻繁に利用されているのですが、この映像は「ガス室」が存在したことの「証拠」なのでしょうか?こうした映像が悲惨な映像であることは間違いありません。しかし、この映像が「ガス室大量殺人」の「証拠」かと言えば、それは別の話です。それどころか、決定的なことに、このベルゲン・ベルゼン収容所については、そこに「ガス室」がなかったことを、「定説」側の人々自身が認めているのです。即ち、「定説」側の人々は、もちろん、ドイツが「ガス室」で「大量殺人」を行なったことは主張します。しかし、アウシュウィッツなどに「ガス室」があったという主張は頑(かたく)なに守りながら、例えばこのベルゲン・ベルゼン収容所に「ガス室」がなかったことは、はっきり認めているのです。例えば、このように
−−「アンネとマルゴットは、十月二十八日にベルゲン=ベルゼンへ輸送された。(中略)リューネブルグ原野の不毛地帯にあったこの収容所[西岡注:ベルゲン・ベルゼン収容所を指す]には、実はガス室はなかったが、生活諸条件はそこでは、とりわけ最後の数カ月には非常に悪く、数万人の人々が死んだのである。」(ウィリー・リントウェル著 酒井府+酒井明子訳『アンネ・フランク最後の七ケ月』徳間書店)−−
(西岡昌紀「アウシュウィッツ『ガス室』の真実/本当の悲劇は何だったのか?」(日新報道・1997年)52〜54ページより)
−−ベルゲン・ベルゼンの生活諸条件が劣悪で、そのために多くの病死者が出たことは、全くその通りだと思います。そして、それが悲惨極まりない悲劇であったことは、見直し論者も完全に同意していることです。しかし、注目して頂きたいのは、ベルゲン・ベルゼン収容所について、「定説」側論者(ウィリー・リントウェル氏)が書いたこの本にこう書かれてあることです。
「この収容所には、実はガス室はなかったが」
即ち、このベルゲン・ベルゼン収容所に「ガス室」はなかったのです。他の収容所はともかくとして、とにかく、このベルゲン・ベルゼンに「ガス室」がなかったことは、「定説」側も認めているのです。つまり、後で述べますが、「定説」側の人々は、ナチスの収容所の何処(どこ)にでも「ガス室」があったと言っているのではないのです。「定説」側論者は、ナチスドイツはヨーロッパ各地に数多くの収容所を作ったが、「ガス室」を作ったのはその内の幾つかに限られていた、という意味の説明をしています。そうしたことについてはこの後で論じますが、今ここで重要なことは、このことです。先の写真が撮影されたベルゲン・ベルゼン収容所は、このように、「定説」側の主張においても「ガス室」はなかったとされている収容所なのです。それならば、この収容所で発見された死体の中に「ガス室」で殺された死体があったわけがないではありませんか。(違うでしょうか?)病死者がたくさんいたことは事実です。そして、それは悲惨極まりないことです。しかし、事実の問題として、そこには「ガス室」がなかったのだから、この中に「ガス室」で殺された死体
があったわけがないのです。ところが、テレビなどのマスメディアは、何故か、ベルゲン・ベルゼンで撮影されたこの映像を今も「ガス室大量殺人」の「証拠写真」でもあるかのように使用し続けているのです。例えば、「アエラ」やNHKすらが、そういうことをしています。虚を突かれる気がすると思いますが、これが、「ホロコースト」についてのマスメディアお手法の一つなのです。これは、「映像トリック」と言われても仕方のない手法ではないでしょうか?−−
(西岡昌紀「アウシュウィッツ『ガス室』の真実/本当の悲劇は何だったのか?」(日新報道・1997年)54〜55ページより)
−−ここで私は、皆さんに或る映像を思い出して頂きたいと思います。それは、1991年の湾岸戦争の際、「イラクがペルシャ湾に原油を放出した」という触れ込みで世界中に流された、あの衝撃的なテレビ映像です。即ち、クウェートを占領したイラク軍が、その
クウェートで大量の原油をペルシャ湾に放出した。そのため、ペルシャ湾は原油で広範に汚染され、このように罪のない海鳥までが油まみれになって苦しめられている、という「解説」で放映された、あの戦慄すべき映像です。黒い原油に汚染された海岸で、この水鳥が油にまみれて立ち尽くす姿は本当に心痛むものでしたが、皆さんは、この映像が実は「イラクの原油放出」などとは何の関係もないものであったことをご存知でしょうか?詳しいことは、ジャーナリストの木村愛二さんが書いた『湾岸報道に偽りあり』(汐文社)に述べられているのでお読み頂きたいと思いますが、世界中で放映され、イラクに対する全世界の怒りを引き起こしたこの映像は、実は、「イラクの原油放出」などとは全く関係のない映像だったことが、今日明らかになっているのです。即ち、この水鳥が海岸で油まみれになっていた理由は、実は「イラクの原油放出」ではなく、アメリカ軍の空爆で流出した原油が海に流れ出したためだったらしいことが、今日では判明しているのです。(少なくとも、当初言われた「解説」が虚偽であったことは、イラクがクウェートで放出した原油なら、海流の速さなどから考えて明白と言えます)しかしながら、それでも、この映像が「イラクの原油放出」による光景だとう「解説」は一旦は世界の人々に信じられてしまったわけで、これは、映像の持つ心理的効果がいかに強力なものかを示す一例と言えます。つまり、映像というものは、それに加えられる「解説」によって、受け止める側に全く違った心理的効果を与える
ものなのです。−−
(西岡昌紀「アウシュウィッツ『ガス室』の真実/本当の悲劇は何だったのか?」(日新報道・1997年)55〜57ページより)
−−この水鳥の映像の場合も、それが「イラクの原油放出によってもたらされた」という話とともに見せられるのと、「アメリカの空爆の結果」という説明とともに見せられるのとでは、見る側に対する意味影響が全く違うことは、言うまでもありません。それは、湾岸戦争初期にこの映像が前者の「解説」とともに放映された際、欧米を中心にイラクへの激しい怒りの声が上がり、イラクに対して戦術核兵器を使うべきだという声までが上がった事実に現われていると言えます。このように、映像というものは、それに与えられる物語や文脈によって、本来の意味とは全く違う意味のものとして人々の脳裏に刻み込まれてしまうという、恐ろしさをはらんでいるのです。先ほどの死体の映像も同じです。アウシュウィッツなどについては後で論じますが、このベルゲン・ベルゼン収容所に「ガス室」などなかったことは、前述したように、「定説」側も認めているのですから、少なくともこのベルゲン・ベルゼンで「ガス室」によって殺された人が
一人もいなかったことは、最早、議論の余地のないことなのです。当然、そこで発見された死体の中に「ガス室」で殺された死体が含まれているわけもありません。後述するように、これらの死体の大部分は、戦争末期に大発生したチフスなどによる病死者たちの死体だったのです。それは勿論、悲惨な映像ですが、「ガス室大量殺人」の「証拠」などでは全くないのです。ところが、私たちは、マスメディアによって、この映像がまるで「ガス室」で殺された人々であったかのように錯覚させられています。テレビの「ドキュメンタリー」などでは、多くの場合、はっきりした解説を付けずにこの映像を見せるという手法を取っていますが、「ユダヤ人虐殺」を語る時に、見る側が、どう見ても病死者などとは思わず、「ユダヤ人虐殺」の犠牲者だと錯覚するようなやり方で、この病死者の映像が使われているのです。これが、湾岸戦争の「油まみれの水鳥」と余りにも似ていると思うのは、私だけでしょうか?−−
(西岡昌紀「アウシュウィッツ『ガス室』の真実/本当の悲劇は何だったのか?」(日新報道・1997年)57〜58ページより)
−−もう一度言いますが、解放直後のナチス収容所で、連合軍側の法医学者または病理学者によって「毒ガス」で死亡したと確認された死体は、一体もなかったのです。これは、「定説」側の歴史家が認めた事実です。発疹チフスなどの病気で死亡した死体は、そうした解剖の結果、多数、確認されています。しかし、青酸ガスとか一酸化炭素などの中毒で死亡した死体は、実は、一体も確認されていなかったのです。(「定説」によれば、ドイツが「ガス室」で使ったとされる「毒ガス」は、青酸ガスと一酸化炭素の二種類)。それなのに、戦後、多くの「歴史家」やジャーナリストたちは、こんな基本的なことも言わぬまま、ただ、そうした病死者たちの死体を写真で見せながら、「ガス室で何百万人もの人々が殺された」等と書きまくってきたわけです。また、眼鏡や靴がいくら山のように積まれていても、「ガス室大量殺人」があったことの証明にならないことは言うまでもありません。それらの物の持ち主たちが、「ガス室」で殺された証明は何処にもないのですから。しかし、こうした物品を「証拠」だと思いこんでいる人 も少なくありません。これも、そうした物品に与えられる「説明」の効果ですが、こうしたことは、ちょっと冷静になればすぐに分かるのです。しかし、その冷静になることができないために、このような物品を「証拠」と錯覚している人は少なくないようです。−−
(西岡昌紀「アウシュウィッツ『ガス室』の真実/本当の悲劇は何だったのか?」(日新報道・1997年)58〜59ページより)
−−それから、もう一つ驚くべき事実があります。戦後、これだけ「ドイツはユダヤ人絶滅を計画した」と言われてきながら、そんなことを命じた命令文書は、実は一枚も発見されていないのです。即ち、連合軍は、戦後ドイツで膨大な量のドイツ政府公文書を押収しています。ところが、その膨大なドイツ政府公文書の中に、ヒトラーもしくは他のドイツ政府指導者が「ユダヤ人絶滅」を決定、命令した文書があったかというと、実は、一枚も発見されていないのです。これは、「定説」側の歴史家たちもはっきり認めていることですが、「ユダヤ人絶滅」を決定命令した文書が存在しないことについて、私は「マルコポーロ」の記事の中で次のように書いています。
「連合軍は、戦後ドイツで大量のドイツ政府公文書を押収した。それによって、戦争中ドイツ政府が何を検討し、何を命令していたかが明らかになるからだが、その押収されたドイツ公文書の量は、アメリカ軍が押収したものだけでも千百トンに及んでいる。ところが、戦後、連合軍が押収したそれらのドイツ政府公文書の中に、ヒトラーもしくは他のドイツ指導者が「ユダヤ人絶滅」を決定、命令した文書は一枚もなかったのである。実際、連合国は、ニュールンベルク裁判において、ドイツの指導者が「ユダヤ人絶滅」を決定、命令した証拠となる文書を提出していない。これに対しては、「ナチが証拠を隠滅したから文書が残らなかったのだ」とか、「ユダヤ人絶滅計画は極秘事項だったので、命令は全 て口頭でなされたのだ」とかいう反論が予想されるが、そうした主張は、あくまでも「仮説」でしかない。事実としてそのような文書は、今日まで一枚も発見されていない。もし証拠となる命令文書はあったが隠滅されたとか、命令が口頭
でなされたとか主張するなら、その証拠を提示するべきである。」(『マルコポーロ』1995年2月号「ナチ『ガス室』はなかった」)
私のこうした指摘に対して、「定説」側の歴史家が、「マルコポーロ」廃刊事件後、論評を加えて居るので、ちょっと御紹介したいと思います。先ず、ドイツ史が専門の栗原優(まさる)教授は、こう書いておられます。
「ユダヤ人絶滅に関するヒトラーの命令書が存在しないのは事実である」(学研『歴史群像シリーズ』42/アドルフ・ヒトラー[権力編]“わが闘争”の深き傷痕「ヒトラーと民族社会主義/ナチズムのイデオロギーとその現実」) −−
(西岡昌紀『アウシュウィッツ『ガス室』の真実/本当の悲劇は何だったのか』
(日新報道・1997年)59〜61ページより)
−−つまり、「ユダヤ人絶滅」に関する(ヒトラーの)命令文書が存在しないという点については、「定説」側の栗原教授も同意しておられるわけです。それでは、何を根拠に「ユダヤ人絶滅」が命じられたと主張しておられるのか、それは後で触れますが、栗原教授と同様、「定説」側の歴史家である村瀬興雄(おきお)教授は、こう述べておられます。
「この大号令[西岡注:「ユダヤ人絶滅」を指す]が文書によって発令されたことはない」(同「ヒトラー体制とドイツ(4)最新ナチ
ス編/次第に明らかにされて来た第三帝国」)
お分かりでしょうか?このように、そんな文書が存在しないことは、「定説」側の歴史家自身がはっきり認めているのです。では、彼らはこの事実をどう説明しているのでしょうか?それは、私が先の「マルコポーロ」の記事で書いた通り、「ユダヤ人絶滅は口頭で命令されたのだ」等と説明するのです。しかし、今述べた通り、それは単なる想像に過ぎません。そんなことが口頭で命令された証拠は何処にもないのです。また、「文書はあったが隠滅された」等という「説明」も全くの想像に過ぎません。それどころか、後で述べますが、「絶滅」とは両立しない命令が出されたことを示す文書が多数、発見されているのです。(後述)
つまり、もう一度言いますが、これだけ「ドイツはユダヤ人絶滅を計画した」と言われながら、そのような決定や命令を裏付ける文書は、実は一枚も発見されていないのです。あるのは、ただ、そんな命令が出されたに違いないという「定説」側歴史家の想像だけなのです。−−
(西岡昌紀『アウシュウィッツ『ガス室』の真実/本当の悲劇は何だったのか』
(日新報道・1997年)61〜62ページより)
−−そういう命令文書がないので、何か代わりの文書を提示しなければ、ということなのでしょう。「定説」側論者の中には、「ヴァンゼー会議議事録」と呼ばれる文書とか、ゲーリングが1941年7月31日に書いた手紙、またはヒムラーが43年10月4日に行なった演説の「筆記録」とされる文書などを引用して、それらの中で「ユダヤ人絶滅」が間接的な形で言及されている、と主張する論者もいます。しかしながら、原文を読めば分かることですが、これらの文書の内容は、「ユダヤ人絶滅」を語ったものなどでは全くないのです。
例えば、今挙げた「ヴァンゼー会議議事録」という文書は、戦後、連合国が「発見した」として発表した文書で、ベルリン郊外のヴァンゼーという場所で開かれた秘密の会議を記録した文書ということになっています。この文書が、「ユダヤ人絶滅」について協議した会議の記録であるかのような説明が永年に渡って横行していますが、先ず、この文書の中には、「ユダヤ人絶滅」を決定したなどという記述は全くあろません。ですから、仮にこの文書が正真正銘ドイツ政府の文書だったとしても、この文書は、「ユダヤ人絶滅」を決定したことの記録などではあり得ません。その上、この文書は、前述のように連合国が「発見」したとされるものですが、その書式がドイツ政府公文書のものとは違いすぎるという資料批判的な指摘もあり、本物のドイツ政府文書かどうかにも議論の余地が残されているものなのです。こうしたことのためか、最近では、「定説」側の論者でも、イェッケル(Jaeckel)とかプレサック(Pressac)といった論者たちは、この文書を「ユダヤ人絶滅」が決定されたことの証拠として持ち出すことには否定的な立場を取るようになっています。また、前述のゲーリングの手紙やヒムラーの演説の「筆記録」も、文章の一部を全体の文脈から切り離して読むと「ユダヤ人絶滅」に関係があるかのように見える箇所があるのですが、全文を読むと、そんな内容ではないことが明瞭に理解できるものです。これらの文書をここに引用することはしませんが、皆さん一人一人がそれらの原文を読んで下されば、必ず納得して頂けるはずです。
ここで、前出の栗原優教授の説明をもう一度聞いてみましょう。
「ユダヤ人絶滅に関するヒトラーの命令文書が存在しないことは事実である。しかし、ヒトラーがこの時点でユダヤ人絶滅を決定したことを立証する資料は存在する。おそらくそれは口頭で命令されたのであろう。」(学研『歴史群像シリーズ』42)
「おそらくそれは口頭で命令されたのであろう」とは、想像に過ぎないではありませんか(!)しかも、その「ヒトラーがこの時点でユダヤ人絶滅を決定したことを示す資料」とは一体何を指すのでしょうか?(もしや「ヴァンゼー会議議事録」のことでしょうか?)栗原教授は、何故か、この一番大事な点を言っておられないのです。−−
(西岡昌紀『アウシュウィッツ『ガス室』の真実/本当の悲劇は何だったのか』
(日新報道・1997年)62〜64ページより)
−−それから、ヒトラーの若い頃の著作である『わが闘争』や彼の演説の中に「ユダヤ人絶滅」の予告があるという論者もいます。しかし、これは全然おかしいのです。先ず、本や演説は、行政命令ではありません。ですから、そんなものを命令文書と同列に見なすことがそもそも間違っています。また、それらの引用される言葉を前後の文脈とともに読むと、引用されている「ユダヤ人絶滅の予言」なるものが実はそんなものではないことも良く分かります。例えば、ヒトラーの著作『わが闘争』の中に「毒ガス」の話とユダヤ人の話が並んで出てくる箇所があり、それを「ユダヤ人絶滅の予告」と見なす論者がいますが、これなどは、『わが闘争』の該当箇所を前後の文脈とともに読めば、その意味が分かります。即ち、その箇所は、「ガス室によるユダヤ人絶滅」などに言及しているのではなく、第一次世界大戦でドイツ兵が敵の毒ガスに苦しめられていた時、ユダヤ人たちは何をしていたのか、といった意味の文章の一部に過ぎないのです。それがおぞましいオジテーションであることは確かですが、「ガス室によるユダヤ人絶滅」などとは全く関係のない話であることは余りにも明白です。これは、故意かどうかは知りませんが、文章の文脈からその箇所だけを切り抜いて見せる「引用のトリック」と同じものと言わざるを得ません。−−
(西岡昌紀『アウシュウィッツ『ガス室』の真実/本当の悲劇は何だったのか』
(日新報道・1997年)64〜65ページより)
−−また、ヒトラーが1939年に、もし今度、世界大戦が起きたら、それはユダヤ民族の滅亡に終わるぞ、という意味の演説をしたことを引いて、「ユダヤ人絶滅計画」が存在したことの証拠であるかのように言う論者もいます。しかし、これもあかしい。確かに、そういうひどい演説はありましたが、これですら、仮定形で述べられているのであって、そんなことを決定したとか、命令したとかいう発表ではないからです。以前、北朝鮮の代表が、或る席で韓国の代表に対して、そんなことならソウルは火の海になるぞ、という意味の発言をして問題になったことがありましたが、この演説を引いて、「北朝鮮は韓国侵攻を決定した」と断じる人はいないはずです。また、そうした演説の中で、ヒトラーが文字通りの物理的絶滅を意味してそういう言葉を使用したかどうかも、全くの疑問です。特に、「絶滅する」と訳されることの多い「vernichten」という動詞には、「打倒する」とか「否定する」とかいう意味もあります。ですから、仮にこの言葉がヒトラーなどの演説で使われたとしても、それが言われているような「民族皆殺し」の意味だったとは限りません。こういう点で、「ホロコースト」を論じた日本語や英語の本に出てくる「絶滅」とか「exterminate」とかいった訳語には最大の注意が必要です。−−
(西岡昌紀『アウシュウィッツ『ガス室』の真実/本当の悲劇は何だったのか』
(日新報道・1997年)65〜66ページより)
−−そもそも、演説とは、誇張やハッタリが日常茶飯事に使われるもので、その中の表現を行政命令などと同様に解釈することは、全くもって間違っています。減税などする気がないのに「減税する」と演説する政治家など枚挙にいとまがないことは、皆さんもよくご存知の通りです。また、戦争をする気がないのに「戦争をするぞ」と言うこともあれば、戦争をしようとしながら、「戦争はしない」と演説することもあります。その上、その場の雰囲気などによって、著しく誇張された表現が使われることも枚挙にいとまがありません。一例を挙げましょう。第二次大戦末期にアメリカ軍が沖縄に上陸した際、アメリカのハルゼー(Halsey)大将は、アメリカ兵たちに向かってこんな演説をしています。「日本人を殺せ、日本人を殺せ、もっと日本人を殺せ(Kill
Japs!Kill Japs!Kill more Japs!)」(学研「物語日本史」10『日清日露・太平洋戦争』高村児「太平洋戦争」)おぞましい演説です。
また、沖縄では、現に多くの民間人が殺されています。しかし、ハルゼー大将がこう演説したからといって、アメリカが「日本民族絶滅」を計画していたと言えるでしょうか?言うまでもなく、そのような計画があったことは立証できません。演説とは、このように、その場の雰囲気によって、誇張された表現や言葉が使われるものだからです。
こうしたことから、「定説」側でも、ヒトラー他のドイツ政府指導者が演説で述べた言葉をそのまま引用して「ユダヤ人絶滅」の言明とすることは批判されるようになっています。例えば、「定説」側の歴史家の一人である前出の村瀬興雄 教授は、次のように書いておられます。
「さらに公式な演説のなかで、ヒトラーたちがユダヤ人絶滅を絶叫した場合、それは宣伝的で脅迫的な意義しか持っておらず、全面的絶滅命令としての性格を具えていなかった事も指摘されている。ナチス戦犯が裁判の中で『ヒトラーが命令した』と主張したとしても、それについては確実な傍証が求められねばならないといわれている。」(学研『歴史群像シリーズ』42)
「定説」側の歴史家ですら、こう言っているわけです。そもそも決定的におかしいのは、もし演説で「ユダヤ人絶滅」が語られたと
したら、何故、「ユダヤ人絶滅」を決定、命令した文書が存在しないのか、ということです。だって、そうではありませんか。もう一度言いますが、そんな命令書は一枚も存在しないのです。この事実を「定説」側論者は、「ユダヤ人絶滅は口頭で命令されたのだ」と説明するわけですが、その理由は、「ユダヤ人絶滅は極秘だったから」くらいしか考えようがありません。現に、「定説」側論者たちは、「ユダヤ人絶滅」は極秘の計画だった、という主張をしています。それでは、そんな極秘の計画が、本や演説の中で(!)公然と語られていたというのは、どういうことなのでしょうか?これは、根本的に矛盾した説明ではありませんか。−−
(西岡昌紀『アウシュウィッツ『ガス室』の真実/本当の悲劇は何だったのか』
(日新報道・1997年)66〜68ページより)
−−さらに重要なことは、先ほども触れたように、戦後、連合軍が押収したドイツ政府の公文書の中に、どう読んでも「ユダヤ人絶滅」とは両立しない命令や決定を明記した文書が、多数、発見されていることです。即ち、ただ「ユダヤ人絶滅」の命令文書がないだけではないのです。「絶滅」とは両立しない決定や命令が為されていた証拠が、押収されたドイツ政府公文書の中に、多数存在しているのです。
例えば、1942年8月21日のドイツ政府公文書には、総統(ヒトラー)は、ユダヤ人を戦後、ソ連領内に強制移住させることを決めている、という意味の記述があります。「絶滅」ではありません。強制移住なのです。それは、もちろん、不当な差別政策ですが、その上、この文書には、アウシュウィッツをはじめとするポーランド領内の収容所は、そうした戦後のユダヤ人強制移住計画のための準備施設だという意味の記述まであるのです。これが、どうして、「ユダヤ人絶滅」などという計画と両立するのでしょうか?
他にも、マダガスカルとかロシアなどにユダヤ人を強制移住させることを当時のドイツ政府が計画していたことを示す文書は幾つも発見されており、「定説」側も、ナチスドイツが、少なくともその初期においては、ユダヤ人を「絶滅」させるのではなく、マダガスカルなどに強制移住させる計画であったことは認めているのです。「定説」側は、それが或る時期から「絶滅」に変更されたと主張するのですが、そのような変更が為された証拠は、提示されていません。それどころか、例えば、ドイツ外務省の高官フランツ・ラーデマッヒャー(Franz Rademacher)などは、42年の2月10日に、次のような文書を発表しているのです。「ソ連との戦争は、一方において、最終的解決(Endloesung)のための別の土地を得る可能性を生み出している。その結果、(ヒトラー)総統は、ユダヤ人はマダガスカルにではなく、東方に移住させられるべきであると決定した。マダガスカルは、最早、最終的解決との関係に於いて考慮される必要は
ない」
(訳:西岡 原文は以下の通り)
Der Krieg gegen die Sowjetischeunion hat inzwischen die Moeglichkeit
gegeben, andere Territorien fuer die Entloesung zur Verfuegung zu
stellen. Demgemaess hat der Fuerer entscieden dass Jueden nicht nach
Madagaskar, sondern nach dem Osten abgeschoben werden sollen.
Madagaskar braucht mithin nicht mehr fuer die Entloesung vorgesehen
zu werden.
(Nurenberg Document NG-3933)
繰り返して言いますが、このような強制移住計画が、差別に基ずいた不当な政策であったことは明白です。しかし、そうした道徳的判断とは別に、事実の問題として、これは、どう読んでも、ドイツのユダヤ人政策の目標が、言われてきたような「絶滅」ではなく、(ロシアへの)強制移住だったことを示す文書ではないでしょうか?しかも、この文書が書かれた日付け(1942年2月10日)が、前述の「ヴァンゼー会議」があったとされる日付け(同1月20日)の後であることも重要です。もし、その「ヴァンゼー会議」が本当に開かれ、そこで「ユダヤ人絶滅」が討議されていたとしたら、どうして、その会議よりも後に書かれたこの文書に、ユダヤ人の「東方」への強制移住計画が、「最終的解決」を意味するものとして述べられているのでしょうか?
こうした文書は他にも幾つもあるのですが、「定説」側論者たちは、何故かこういう文書の存在には、殆ど言及しようとしません。
そして、ただ自分たちの想像だけで、ドイツが当初抱いたマダガスカルへのユダヤ人強制移住計画は或る時期から「絶滅」に変更された、などと一方的に述べるのです。しかし、例えばこの文書がそうですが、連合軍が戦後、押収したドイツの内部文書には、「マダガスカル」を「東方」(ソ連領内と取れる)に変更したという、ユダヤ人強制移住計画の内容が、具体的に書かれてあるのです。一体どこに、「民族絶滅」が命令された証拠があるというのでしょうか?−−
(西岡昌紀『アウシュウィッツ『ガス室』の真実/本当の悲劇は何だったのか』
(日新報道・1997年)68〜70ページより)
−−また、この年(1942年)の12月28日には、アウシュヴィッツ収容所でのチフス等による死亡者が多いことから、同収容所の
死亡率を減らすよう命じた命令が、強制収容所の統括司令部から、アウシュヴィッツの責任者に宛てて出されています。この命令書に
は、ヒムラーの言葉を引用して、何とこう書かれてあるのです。「死亡率は絶対に低下させなければならない」
一体これが、「ユダヤ人絶滅」と両立する命令かどうか、考えて頂きたいと思います。こうした命令は、ドイツがユダヤ人を労働力と
して利用しようとしたから出されたものだと思いますが、こうした命令に符号するように、アウシュヴィッツ=ビルケナウには、「絶
滅」されるはずのユダヤ人他の被収容者のための病院もあったのです。一体、ユダヤ人を「絶滅」するための収容所に、何故そのユダヤ
人他の被収容者用の病院があったのか、私は、「定説」側の歴史家が納得のいく説明をしているのを読んだことがありません。−−
(西岡昌紀『アウシュウィッツ『ガス室』の真実/本当の悲劇は何だったのか』
(日新報道・1997年)71ページより)
−−さらには、次の事実に注目して頂きたいと思います。戦争中、収容所でユダヤ人に対する虐待が少なからずあったことは事実です。しかし、それと同時に、そうした虐待を理由に、多くのドイツ人が、ドイツ当局によって処罰されているのです。−−ユダヤ人を虐待した、という理由によってです。しかも、その中には、何と、「ユダヤ人虐待」を理由に死刑に処せられたドイツ人すらいたことが、報告されているのです。例えば、ブーヒェンヴァルト収容所の司令官だったコッホというドイツ人は、そうしたユダヤ人への虐待を理由に、当時のドイツ当局によって死刑に処せられています。ドイツのユダヤ人政策の目標が「ユダヤ人絶滅」であったとしたら、一体なぜ、「ユダヤ人虐待」を理由に、ドイツ人が、それも収容所の司令官が、死刑に処せられなければならなかったというのでしょ
うか?これは、不条理としかいいようのないことです。−−
(西岡昌紀『アウシュウィッツ『ガス室』の真実/本当の悲劇は何だったのか』
(日新報道・1997年)71〜72ページより)
−−また、アウシュヴィッツについては、働けないユダヤ人が殺されずに収容されていたことを示す文書も残っています。これは、「働けなくなった者はガス室に送られた」という話とは全然違う現実があったことを意味しますが、先ほどお話しした病院の存在とあいまって、アウシュヴィッツにユダヤ人が収容された目的が、「絶滅」ではなかったことの傍証になっているとは言えないでしょうか?
それから、これはあまり知られていないことですが、アウシュヴィッツに収容された人々の中には、一旦、収容所に入れられた後、ドイツ当局によってそこから出ることを許された者が多数いたことが、ドイツ側の記録から判明しています。考えてもみて下さい。もし、アウシュヴィッツ(ビルケナウを含む)などが、「極秘の絶滅収容所」だったとしたら、一体ドイツ当局は、そこに収容した人間を再び解放したりしたでしょうか?そんなことをしたら、解放された被収容者が、そこで起きていることをしゃべってしまうのは火を見るより明らかなことです。それなのに、アウシュヴィッツを管理していたドイツ当局は、現にそんなことをしていたのです。こうした様々の事例は、ドイツが戦争の中でユダヤ人を殺したことは勿論多々あったにせよ、ユダヤ人をただユダヤ人だというだけで「絶滅」しようとしたという「定説」側の教義と両立しないものだと思うのですが、いかがでしょうか?−−
(西岡昌紀『アウシュウィッツ『ガス室』の真実/本当の悲劇は何だったのか』
(日新報道・1997年)72〜73ページより)
−−まだ、あります。これまでお話ししたように、「ガス室」で殺された死体も、「ユダヤ人絶滅」を命じた文書も全く発見されていないのですが、それに加えて、当時のドイツ政府は、何と「ユダヤ人絶滅計画」の予算を計上していないのです。つまり、仮に
そんな大計画があったとしたら、当然、大変な額の予算が計上されるはずなのに、それが全く計上されていないのです。そして、これも「定説」側の歴史家自身が認めている事実なのです。一体、これでも、「ユダヤ人絶滅計画」は実在したのでしょうか?−−
(西岡昌紀『アウシュウィッツ『ガス室』の真実/本当の悲劇は何だったのか』
(日新報道・1997年)73ページより)
−−しつこいようですが、ドイツが罪のないユダヤ人たちを差別、迫害したことは明らかです。しかし、もしドイツがユダヤ人を
「絶滅」しようとまでしたなら、予算を計上せず、そんなことをするなどということが考えられるでしょうか?
「定説」側は、この事実を「ユダヤ人の財産を当てたので、予算は計上されなかった」等と説明していますが、そんな方法でそんな
計画が計画、実行できるかどうか、皆さん自身で考えて頂きたいと思います。−−
(西岡昌紀『アウシュウィッツ『ガス室』の真実/本当の悲劇は何だったのか』
(日新報道・1997年)73〜74ページより)
−−それから、ポーランドが運営するアウシュヴィッツ博物館は、アウシュヴィッツ収容所の敷地にある博物館で、戦争中ドイツ人が残して行ったアウシュヴィッツ関連の文書や図面を多数、保存していることで知られています。また、ロシアにも、ソ連軍がアウシュヴィッツで押収したドイツ側文書が多数残っていますが、それらの中に、「ガス室」の設計図とか見積もり書といったものは、結論から言うと、一枚も発見されていないのです。
例えば、アウシュヴィッツ=ビルケナウで今日「ガス室」として公開されている地下室の設計図を見ると、たくさんある図面のどれを見ても、それらの地下室には、「死体安置室(Leichenkeller)という書き込みがあるばかりで、それらの地下室が処刑用ガス室として設計されたことを示す文書はないのです。そのため、「定説」側論者の一人は、「これらの部屋は、当初はただの死体安置室として設計され、後からガス室に転用されたのだ」等と説明しているのですが、そんな証拠は何もありません(後述)。それに、仮にその仮説が正しいとすると、その収容所が建設された当初は、その「ガス室」を作る予定がなかったということになります。つまり、「ガス室」を作る計画がない段階で収容所そのものは建設されていたことになるわけですが、これはおかしくないか。何故なら、二つに分かれたアウシュヴィッツ収容所の内、後から建設された第二アウシュヴィッツ(別名ビルケナウ収容所)の方は、最初から「ユダヤ人絶滅」の目的で作られた、とするのが、「定説」側のこれまでの説明だったからです。それなのに、もし第二アウシュヴィッツ収容所に、建設当初は処刑用ガス室を作る計画自体がなかったというなのなら、この収容所(第二アウシュヴィッツ)が建設された目的が、「ユダヤ人絶滅」ではなかった、ということにもなりかねないわけで、これは、「定説」側がこれまで主張してきたアウシュヴィッツ(ビルケナウ)に関する説明を根本から書き変えるものです。それどころか、問題の「ユダヤ人絶滅計画」の実在にすら疑問が投げかけられかねない話なのです。
この設計図の問題については、プレサック(Pressac)という反見直し論者の研究に触れる形で後でもう一度触れたいと思います。なお、「定説」側の本の中には、こうした第二アウシュヴィッツの地下室(死体安置室)の設計図や、マイダネックの殺虫用ガス室の図面を処刑用ガス室の図面ででもあるかのように載せている本があります。悪質なトリックですが、日本の歴史家たちは、こういうことに気が付かないのでしょうか?−−
(西岡昌紀『アウシュウィッツ『ガス室』の真実/本当の悲劇は何だったのか』
(日新報道・1997年)74〜75ページより)
−−こうした幾つもの事実から導かれる「ユダヤ人絶滅計画」についての私の判断を、ここで言わせて頂きたいと思います。
「はじめに」の中で私は、この本の中で「ホロコースト」の「定説」に対してあえて疑問以上のものは提出しないと申し
上げてげています。しかし、こう考えられるのではないか、ということは言っていいのではないかと思うからです。
ドイツのユダヤ人政策は、もちろん、不当なものでした。しかし、そのドイツといえど、ユダヤ人を「絶滅」することまでは計画していなかったのではないか。私には、そうとしか考えようがないのです。ただし、これは「否定」ではないので、もし「いや、『絶滅』が計画されたのだ」とおっしゃる方があり、その証拠を提示して下さるなら−−証拠が示されれば、です。−−私は、いつでもそれを受け入れます。しかし、私が「定説」側歴史家の主張を詳細に検討したところでは、そんな証拠は提示されていないし、それどころか、反証が多々存在しているのです。
先ほど(69ページ)引用したドイツ政府文書が示すように、ドイツ政府は、戦争に勝利した後、ユダヤ人を「東方」即ちソ連領内に強制移住させることを計画していました。当時のドイツ政府は、そうした戦後の強制移住計画を「最終的解決(Endloesung)」と呼んでいたのであり、それを「定説」側歴史家たちは、「絶滅」だったと強弁しているのです。もう一度言いますが、それは不当な差別政策です。しかし、「絶滅」ではなかったのです。
勿論、戦場でユダヤ人の非戦闘員が無差別に処刑されるというようなことはありました。それは「虐殺」と呼ぶべきことですし、特にソ連戦線では、多くのユダヤ系市民がパルチザンなど混同されて銃殺されるということが、「アインザッツグルッペン(Einsatzgruppen)」と呼ばれる特別の部隊によって、現に起きています。また、収容所でユダヤ人に対する虐待があったことも事実です。しかし、全てのユダヤ人をただユダヤ人だというだけでドイツが「絶滅」しようとしたという話には、根拠もなければ裏付けもありません。それどころか、右(上)に述べたような反証がたくさんあるのです。そして、収容所では、後述するように、衛生状態の悪化からチフスなどが発生し、あのアンネ・フランクを含めた、何の罪もないユダヤ人たちが多数、悲惨な死を遂げることになったのです。これは勿論、悲劇であり、このことにドイツ人が責任を負っていることも明らかです。
私たち日本人があの大戦中、日本軍によって苦しめられたアジアの人々のことを忘れてはならないのと同様、ドイツ人には、このことを忘れることは許されません。しかし、事実は神聖なものであり、誰にもイデオロギーや感情を理由に事実を歪める権利はないと、私は思うのです。
それでは、「ユダヤ人絶滅計画」の有無とは別に、「ガス室」は存在したのでしょうか?そのことについて、次の章で考えてみたいと思います。−−
(第二章終はり)
(西岡昌紀『アウシュウィッツ『ガス室』の真実/本当の悲劇は何だったのか』
(日新報道・1997年)76〜77ページより)