★阿修羅♪ > マスコミ・電通批評8 > 438.html ★阿修羅♪ |
Tweet |
http://mainichi.jp/select/world/globaleye/news/20080913ddm007070003000c.html
日本のNGO「ペシャワール会」の伊藤和也さん(31)の殺害はまだ記憶に新しい。事件を通して感じたのは、日本の世論とメディアのいい意味での抑制された論調だった。伊藤さんへの悼みを過度に煽(あお)ることなく、アフガニスタンの人々に感謝された農業支援活動をさまざまに伝えていたのが印象的だった。
紛争地や治安が不安定な国で、日本人が犠牲になった時、これにどう向き合うかは日本にとって大きなテーマであり続けている。世論とメディアは情緒的になりがちで、特にその地域に日本政府がコミットしていると、日本の対外政策そのものを短絡的に否定する論議になることが少なくなかった。
カンボジア和平プロセスのさなかの93年、国連ボランティアの中田厚仁氏と日本人文民警察官が武装集団に襲われて亡くなった時、「平和国家の日本は、対立する勢力がいるカンボジアにかかわるべきでない。事件はそのことを示した」と、著名なニュースキャスターが言うのを聞いて驚いたことがある。
イラクで04年4月に日本人のNGOらが誘拐された時も、その家族が日本政府を批判し、イラクからの自衛隊の撤退を求め、世論は批判派と擁護派に分裂した。結果としてメディアはこれを煽ることになった。
ただ私の見るところ、その後、人的犠牲を情緒的、感情的にとらえるやり方は徐々に薄れていっている。04年5月、イラクで日本人のフリージャーナリスト2人が銃撃され、昨年はミャンマーで取材中のフリージャーナリストが撃たれて亡くなったが、世論とメディアの情緒的な高ぶりは以前ほどではなくなった。
今回の伊藤さんの事件の受け止め方もこの延長線上にある。NGOであれ、開発支援であれ、ジャーナリズムであれ、リスクある国で活動していて事件に巻き込まれた時、それをどう受け止めるか、日本人の中にもコンセンサスができつつあるように思う。
不安定な地域という所与の条件を踏まえた活動である以上、備えはする。しかし万一の時はリスクを引き受ける、との認識だ。今度の事件で、世論とメディアの振れ幅が大きくなかったのも、日本の社会がこの認識を受容しつつある証左ではないだろうか。
伊藤さんのご両親が「息子はアフガンで死んでも本望だと言ってました」「地元の人々があれほど思ってくれた息子が誇りです」と語っていた。伊藤さんは強靱(きょうじん)な援助精神の持ち主だったが、その意思をきちんと伝える家族がいたことも素晴らしい。(専門編集委員)
毎日新聞 2008年9月13日 東京朝刊
▲このページのTOPへ HOME > マスコミ・電通批評8掲示板
フォローアップ: