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08/04/17
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http://www.shimotsuke.co.jp/media/130/php/kikaku.php?f=p&k=42
「言論弾圧と新聞人」 経営とのはざまで格闘/初の発行停止処分下る
栃木新聞(第二次)の編集長になった田中正造(たなかしょうぞう)が執筆した「国会ヲ開設スルハ目下ノ急務」は歴史的な意義を持つ。一八七九(明治十二)年に掲載されたこの論説こそ、本県人が初めて県下に国会開設を呼び掛けたものだった。
一行二十四字、百十四行という長文の原稿は前段でアジア情勢などに触れ、後段で「人民に国政に参加する機会を与え、身分の上下を問わず心を一つにすれば外敵もすきをうかがうことはできない」と結ぶ。
堂々と論理を述べているが、注意深く読むと気になる点もある。民権家がよく使う「自由」「権利」「平等」などの語句が見当たらないのだ。かえって「上下一致」「帝国」「官民」など政府慣用語が多用されている。これは何を物語るのか。背後に新聞紙条例や讒謗律(ざんぼうりつ)の言論統制があるのは明らかだった。
この時代、言論への弾圧は厳しさを増した。全国の集計によると、新聞の発行禁止・停止処分は、七九年に二十三件、八〇年に三十八件、八一年には九十八件に上った。こうした急増は自由民権の高まりと軌を一にしていた。
運動をリードすべき言論として、政府を糾弾する姿勢は崩せない。一方、処分を受けて経営基盤までなくしたくはない。当時の新聞人は、この相反する二つの課題と格闘しなければならなかった。先の正造の論説には編集上の“配慮”が施されていたのだろう。
だが栃木新聞はその後、配慮どころか批判を強めていく。八〇(同十三)年春に施行された集会条例は言論・集会の自由を奪い、これに反発する論調は一層過激に。同年秋、条例を批判した編集人田代為信(たしろためのぶ)は禁獄二カ月・罰金六十円、幹事小室重弘(こむろしげひろ)は禁獄五十日・罰金五十円を命じられた。
八一(同十四)年になると新聞はさらに窮地に立たされる。十一月九日付の論説は藩閥政治を批判して「(薩長土肥の)一、二地方人の政府と法律は守らなくてもよい」とまで言い切り、またも発行停止となる。仮編集人だった佐伯正門(さえきまさかど)は禁獄三百五十八日を言い渡された。
だが十二月一日付の論説はこう記す。「何ソ厳罸(ばつ)ヲ顧ミルニ遑(こう)アラン」(どうして厳罰を気にかける暇があるだろうか)。書いたのはたぶん正造だろう。不屈の記者魂というべきか。
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