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不安モードで暴走するのはマスメディア・システムの宿命か
* 2008年4月17日 木曜日
* 武田 徹
食品偽装報道のヒステリックさ、その底にあるのは、BSE事件をきっかけに「法システム」と「マスメディア・システム」の「感度」が変わったことにある。法の適用の水位が変わってグレーゾーンを狭め、報道もまた違反を情報価値あるものと捉えるようになった。
日本社会システムは、不安モードへチェンジした
おそらくこうした変化の根は共通している。
要するに二分コードのプログラムが「安心モード」から「不安モード」で作動するようにシフトチェンジしたのだ。
不安が我々の社会システムを駆動するようになった証拠を見ていこう。
たとえば朝日新聞のデータベース「聞蔵」で「食の安全」をキーワードに検索をかけると1990年から95年までは年間ひとケタ、多くても92年に16件の記事がヒットするに過ぎない。
つまり「食の安全」はまだアジェンダになっていなかった。要するに誰も気にしていなかった。96年からは徐々に増え始めるが、それでも2001年までで二ケタを越えた年はない。誰も食に対して不安意識をもつことなく、安心に暮らしていたのだ。
ところが2002年に記事数は突然360件と激増する。
この歳に関しては狂牛病騒動から牛肉回避の動きが起きた反映だろう。そして以後の数字はずっと三ケタで推移する。
狂牛病の国内発生が、食の世界にはどこにでも危険があり得ることを大衆社会に気付かせてしまった。今までは気付いていなかったので安穏としていたし、マスメディアの取材をかけようともしていなかったわけだが、気付いてしまうとそれは関心を集める対象になる。実際には賞味期限、消費期限に関して何か変化があったわけではない。食中毒が増えたわけでもない。しかし結果として報道量が明らかに増え、この増えた報道量が更に食の不安を喚起するスパイラルが作られる。
食に関わるものだけではない。たとえば内閣府「社会意識に関する世論調査」に示されるように2000年以降治安は悪化しているという意識も増加している。不安だからこそ、何が起きているか知りたがる大衆社会の形成がありえ、「危険であること」が情報価値を持ち、マスメディア・システムの内部に取り込まれて報道され、その報道がさらに不安を増長させる。
不安フィードバック系は法改正から、しかし…
こうした不安を介したフィードバック系が形作られている状況は、しかし、あまり健全ではない。不安に意識を奪われ、多くの重大な見逃しが生じているからだ。
「不幸の非対称性」についての既に述べた。
他にも、たとえば賞味期限、消費期限や内容表示に極めて厳しくなる一方で、日本では年間2000万トンの食料が廃棄しているという(松岡正剛『誰も知らない日本と世界のまちがい』春秋社)。一方で世界には飢餓に苦しみ、死んで行くひとがいるのに食物を無駄に大量廃棄しているのは、公正さにおいても公益性においても大いに問題があるのだが、人々の意識はそちらに向かわず、誰も死んでいない賞味期限・消費期限の偽装の告発にと向かっている。
こうした歪んだ状況から離れるためには、まず法システムの改変が必要だろう。
全員を有罪にしうる法律を施行しておいて、恣意的に取り締まるような方法がスムーズに運用されなくなった以上、グレーゾーンを廃し、法的対象になるか、ならないかの二分法そのものの線引きを、改めてクリアカットに行う必要がある。
そうでないと不安は、法の実際の適用水位を下げ、更にそうした法の施行を支える相互監視状況も作られて、本当に全員が有罪として告発されるまで留まらない「法の暴走状態」になる。
もちろん消費者を危険にさらすような偽装、公的資金を無駄遣いさせるような偽装は厳しく取り締まるべきだ。
しかし消費期限、賞味期限に関しては、そもそもが恣意的に設定されたその規定に問題がある。それが足かせになって偽装を誘発したり、逆に大量廃棄の要因になっているようでは、法の存在価値自体が疑われる。現在の生産、流通行程の「質」を視野に入れて、感情的な不安を喚起することなく、具体的な安全を確保できて、流通に過大な防御的姿勢を必要とさせない妥当な線引き=法改正が必要だ。
しかし、いかにそれが必要だと述べても、その声が世論を形成しなければ法改正には至らない。民主主義国家では法改正は世論の支持が必要だという建前があることは言うまでもない。
だが、そんな世論を作るようにマスメディア・システムは機能していない。
マスメディア・システムは食の不安を議題とし、危険を広く訴えるだけで、歪みを糺すような実質的な法改正(厳し過ぎた部分はむしろ緩くなる可能性がある)に繋がるような世論形成はできていない。そうである以上、世論の支持はありえず、法システムの改変は不可能だということになる。
だって、それがマスメディア・システムだから
マスメディアは危険を訴えるだけではなく、大局的な観点から食を巡る過剰な不安をなくし、健全な食品流通を実現すべきだ! 心からそう思う。しかし、そうはゆかない。
なぜか?
ここに、前々回あえて難解なルーマンのマスメディア論を引いて来た理由が実はあった。
ルーマンは「言論の自由」やジャーナリズムの社会的責任を重視して、マスメディア「こうあるべき」的な議論を行う立場を批判する。
マスメディア・システムとはそうした倫理的な思考とは異質のシステムなのだと彼は考える。
マスメディアは、価値のある(刺激的な)情報を議題化してコミュニケーションを自己生成的に継続させてゆくのであり、識者が「マスメディアかくあるべし」と行儀良い意見を述べてその改革を望んでもそうはゆかない。
「驚き」「新奇さ」「断絶」「非連続」などの特性を備えて情報として報じる価値があるものを次々に取り上げて報じ続けてゆくマスメディアとは、情報価値のある刺激的情報を次々に飲み込んでは生き続ける不死の怪物的生命体なのであり、外から主体的な操縦を受け付けるものではない。
そう考えてルーマンは「マスメディアかくあるべし」というような規範論を退ける。
そんな馬鹿なと思う人が多いだろう。「マスメディアかくあるべし」という説教をたれたがる多くのひとはその改善の夢を見ているはずだ。
しかし、そんな規範論の通りにマスメディアの行儀がよくなったためしはない。それはルーマン理論の正しさを証しているのではないか。ルーマンの場合、マスメディア・システムはインタクティブではないというのがその定義だった。確かに既存マスメディアはインタラクティブではなかった。そこでは視聴率や公売部数がそのまま広告収入に結びつき、マスメディア組織の経済基盤を盤石にしている。
そんな「数の論理」に支配されてきたマスメディアは、刺激に溢れ、多くに求められる情報を選んでゆく構図から逃れられなかった。そうである以上、外部の意見を聞いて軌道修正するようなことはありえない。それは「かくあるべし論」の通用しないものなのだ。
「なるようになる」からの脱出
そう考えるとルーマン理論は正しいのだ。マスメディア組織に加わって働いたことがないにもかかわらず、彼はその作動原理の本質を見事に捉えている。それを単に営利的傾向とみなして済ませるのではなく、オートポイエーシス理論と接続させて、「コミュニケーションの継続」という文脈の中で説明することで、マスメディアが、いかに批判に晒されようとも、そして外部だけでなく、内部にも改革論者が多くいながらも、全体としては頑迷なまでに革新を拒んで結局は「なるようにしかなってこなかった」事情が理解できる。
だから、もしもルーマンが描き出したマスメディアシステムと違うものを求めるのであれば、ルーマン理論の正しさを認めた上で、それを乗り越えてゆく必要がある。
もしも勝機があるとすれば、ルーマン没後にメディアの地図はかなり書き換えられてきたと言う点から発想することだろう。今は、数の論理で動くマスメディア以外のメディアのあり方を幾つか思い浮かべることが出来る。
マスメディアを名乗りつつも、多メディアの時代になって差別化の原則(−−これも情報価値を求めるメディアの論理の上にあるものだけれど−−)、マスメディアの大勢とは違う方向を向くことで存在価値を持つメディアが登場している(衛星波テレビや、少部数のカルトマガジン的なものをイメージできる)。
そして言うまでもなく、マスメディアではないネットメディアの動きがある。
それらは、不安を情報価値として作動中のメジャーなマスメディア・システムに対して、否と訴えることが出来るかも知れない。つまりそこに、メジャーなマスメディアのシステムとは別のシステムを作り出せるかも知れない。
そうしたメディアが「全員有罪」方式の法のあり方を問うたり、相互監視社会の行く末を危惧する議題を設定してゆく。そうした中で法システムの改変にも繋げてゆければよい。
ルーマンのマスメディアシステム論を踏まえた上で、つまりマスメディアの大勢を変えることの困難を承知した上で、このような作業があえて自覚的な取り組みとして必要なのだろう。
なにしろ放っておけば、小さなマスメディアも、パーソナルなブログメディアも、メジャーなマスメディアの出先機関と化して告発の暴走の受け皿になる。そのままでは日本という社会システムは「全員有罪」の臨界点に向かって転がってゆくだろう。その流れを変えるには、マスメディアシステムとは違う原理で動く、自覚的でしたたかな「ずらし」の戦略が必要なのだ。
「マスメディアかくあるべし」の説教をただ垂れ流す無垢なマスメディア規範論では何も変えられない。その無効性にそろそろ気付くべきである。マスメディア・システムの中で踊らされるジャーナリズムではなく、新しいメディア・システムを作る新しいジャーナリストの登場こそ待たれているのではないか。
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