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れんだいこのカンテラ時評373 れんだいこ 2008/03/07 12:28
【「週刊現代の岩瀬訴訟関連記事」考】
週刊現代(講談社)と云えば週間ポスト(小学館)と並び、週刊新潮、週刊文春と並ぶ四大週刊誌であり、れんだいこはそれらが置いてある喫茶店を気まぐれの行きつけにしている。そういう訳で週に一度詣でるのだが、最近流行の著作権論によれば、あの喫茶店はひょっとして著作権違反しているのかも知れない。ならば、音楽著作権管理団体ジャスラックと同じようにメディア業界は、あらゆる雑誌置き店舗に対して著作権違反だとして対価請求すればよいのに。それもジャスラックに倣えば店舗面積に応じて。そうしないのはなぜだろう。これはからかって云っているのでありマジではない念のため。
週刊現代2008.3.15日号167Pは、「岩瀬氏の社保庁訴訟」に関する「社会保険庁著作権侵害敗訴はネットの無断掲載への警告」と題して、「本誌記事をLANに転載し、損害賠償命じる判決が」を副題として1ページ記事を組み次のように主張している。
「(社保庁のラン掲載は)明らかに著作権法に違反する」、「役人の世界でさえ著作権に対する意識はこの程度なのだから、インターネットの世界は事実上、著作権の無法地帯と化している」、「一般の人が、新聞や雑誌の記事全文をネット上に流すのも、当然のことながら著作権法に抵触します」云々。
多くの者はソウダソウダと相槌を打つらしい。自称インテリを認ずればずるほどしたり顔をするのが相場となっている。それでいて、著作権法読んだことがあるのかと問えば無いと云う。それはそうだろう、著作権法は無思想のまま必要という声に迫られ税法並みの接木接木の迷路法になっている。大抵の者は辟易するしかなかろう。
もとへ。週間現代編集部が強権著作権論派であること、その編集部は昨年の松岡農相変死事件に対して何とも異例のダンマリを決め込んだこと。この二つを合わせて考え込む。このことに相関関係が有るや無しやと。れんだいこは有るとみなしているが、ここではこれに言及しないことにする。
ここで、れんだいこが問題にするのは、週刊現代編集部の著作権見識である。彼らは、記事掲載に於ける事前通知、要承諾制を当然視し、これを理解しない役人の見識の低さを嘲笑し、ネットの無法地帯振りを批判している。果たして正論だろうか。
「1997.11月付け日本新聞協会編集委員会のネットワーク上の著作権に関する協会見解」
http: //www.pressnet.or.jp/info/kenk19971100.htm
なるものがある。これを読むと、週刊現代編集部の著作権見識が特異なものではなく現代マスコミ界の総意常識となっていることが分かる。しかし、この常識が正論なるかどうか疑う事が必要なのに鵜呑みにする手合いばかりのように見受ける。ここに思想の貧困がある。
依拠すべきはコンプライアンス(法令遵守)であるとしたら、著作権法こそが基本なるべきであろう。その著作権法に、「日本新聞協会の著作権見解」的解釈を認めるような条文が本当に有るのだろうか。れんだいこは、オーバーラン解釈であり、それこそコンプライアンス違反だとみなしている。新聞協会見解が、丁度ナベツネがマスコミ界に君臨し始めた頃に歩調を合わせて打ち出されたことを訝っている。週刊現代編集部は、この流れに悪乗りして先鋒ぶりを示しているに過ぎない。
れんだいこは問う。新聞、テレビ、雑誌のマスコミ界がそのように記事著作権を振り回すのなら、まずもって情報収集時の公平さを担保させねばならない。何しろ今では見出しにさえ著作権を主張する時代になっている。ならば1面の良く見えるところにその旨記せばよいのに。しかしこうなると、我々は、著作権を振り回さないメディアを創出し、これを記者会見時に送り込み、我々が自由に使える記事を発信させねばならない。でなければ、記者会見時の一切の情報が強権著作権論者の管理下に置かれて要通知要承諾制のくびきに置かれてしまう。そういう意味で、記者クラブの閉鎖的情報囲い込み体質を改めさせ中小零細通信社にも開放させねばならない。
マスコミ諸君は建設界の談合を指弾する。しかし、考えてみれば、記者会見時に於ける閉鎖的会員制も同種同根ではないのか。ゆえに、我々が入り込めるよう入札制にせよ。そうしないのは不公正ではないのか。君達は、よその事には批判を逞しゅうするが、手前達の情報独占実態も似たりよったりではないのか。天下りシステムもそうだが手前達はなぜ免責なんだ。足下を恥じよ。
君達の手前勝手な著作権論は、情報独占と一元管理による閉塞を生むだけのことではないのか。その君達が常習的にお上に対して阿諛追従していることを思えば、君達の説く強権著作権論は情報統制に資しているだけのことではないのか。蛇足すれば、ここで云うお上とは日本政府の事ではない。もう一つ先の現代世界を牛耳る国際金融資本帝国主義を指している。君達は、この巨大資本網に対しては何一つ批判記事を書けない仕掛けの中に置かれているのではないのか。
こたびの「岩瀬氏の社保庁訴訟」は、社保庁が自身に対する批判記事を社内LAN掲載した事から始まる。その記事を社内の者達だけが読めるのか社外の人たちも読めるのかはどうでも良い。お上が不都合記事を自ら掲載した事に意義がある。よほど偏屈な者で無い限り、社保庁の行為は是認されるべきというか称賛されるべきであろう。それをケシカランと云って著作権棒振りかざしながら訴訟に持ち込み、LAN掲示板を廃止させ、その言い分が判決で認められると全面勝利だと浮かれている者たちはよほどオツムが小難しく小賢しくできているに違いない。
れんだいこは云う。お役人の不見識をなじる手前達こそ度し難い不見識では無いのか。最近こういう手合いが大過ぎて困る。れんだいこは、この風潮に闘う。彼らがコンプライアンスを云う以上、こちらもコンプライアンスで闘う。著作権法をどう読めば、無断転載禁止、事前要通知要承諾制を記していると云うのか。条文で示して貰いたい。それができない以上コンプライアンスを云うのはナンセンスではないのか。
れんだいこにはこういう燻りがある。これは音楽著作権法にも同じ事が言える。我々が溜まり場で歌を歌って、何が著作権侵犯なのだ。そういう法理こそうそ臭いと思うべきだ。著作権者にとって歌手にとって我々が歌うのは喜ばしい事であり誉れではないのか。売れない時、自分の歌を街角で聞いた時の喜びについては数多くの証言が有る。これが真っ当なのではないのか。
それを逆に受け取り、俺に黙って歌のはケシカラン、歌うなら銭を出せなどと云うのはヤクザのショバ代請求よりも質の悪い強欲低劣発想では無いのか。ネクタイ締めた紳士が最近こういうことを云い始めているが正気の沙汰ではない。思想的には、互いに首絞め合って恍惚せんとする狭量マゾヒストに過ぎない。
週刊現代編集部にとって、自誌の記事が社保庁のLANに掲載されたことは箔がついたのであり良しとすべきではないのか。提灯記事であろうが批判記事であろうが、お上に届く記事を次々とひっとさせれば良い。それをあろうことか、社保庁を相手どって著作権違反訴訟に持ち込み全面勝利に法悦するとは狂っているとしか云いようが無い。最近こういう狂人がやたら多い。
インターネットで、手前達の記事が広まる事は誉れではあっても、認知が広がり将来の販促機会を広げることではあっても逆ではない。それを逆に了解する現代経営学とは、これを学べば学ぶほど失敗必至であろう。そう云えば、その昔、カネボウがペンタゴン経営などと云って真似たらオカシナ結果になったことを思い出した。好んで閉塞に向かう手合いにはつける薬が無いとはこのことだ。
「岩瀬達哉の社保庁との著作権訴訟」
http://www.marino.ne.jp/~rendaico/gengogakuin/webtyosakukenco/iwasesosyoco.htm
「岩瀬氏の著作権訴訟」考の「事件の概要」の項目記述の一部を訂正した。
2008.3.7日 れんだいこ拝
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▽参考リンク
れんだいこのカンテラ時評372 【「岩瀬氏の著作権訴訟」考】
http://www.asyura2.com/07/hihyo7/msg/599.html
投稿者 こげぱん 日時 2008 年 3 月 01 日 00:09:10: okIfuH5uFf.Lk
れんだいこ 人生学院
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