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● ニュースと感想 (10月14日)
「生産性の向上」について。
「日本経済を立て直すには、生産性の向上が必要だ」という古典派(サプライサイド)の考え方がある。たとえば、「構造改革」「優勝劣敗」という思想や、「法人税減税」「研究開発減税」という政策だ。また、「構造改革特区が緊急の課題だ」という主張もある。(読売・朝刊・社説 2002-10-06 )
これらはひっくるめて、「生産性向上の信奉者」とも呼べる。そこで、「生産性の向上」について、あらためて述べておく。
「生産性の向上」が有効であるのは、不況でないときに限られる。不況であるときには、「生産性の向上」は無効であるし、それどころか、有害でさえある。
たとえば、100人で生産していたものを、90人で生産できるようになったとしよう。生産性は 10% 向上した。それでどうなるかを、そのとき不況であるか否かで、分けて考えよう。
不況でないときならば、どうなるか? 余った 10人は他の産業で雇用される。だから、その10人が別の生産をするので、マクロ的な生産が 10% 向上する。めでたしめでたし。
不況であるときならば、どうなるか? 余った 10人は他の産業で雇用されない。彼らは失業者となる。また、生産された商品の数は、前と同じだが、生産性の向上にともなって賃金の向上がなければ、「賃金 × 雇用者数」という所得は、前に比べて 10% 低下する。「総所得」=「総生産」だから、マクロ的には、生産額が 10% 低下することになる。
つまり、不況のときは、生産性が向上した分だけ、総生産の額が減るのである。このことに注意しよう。
「そんなバカな!」と思うかもしれない。しかし、これはバカなことではない。仮に、不況(不均衡状態)でなくて、均衡状態が保たれるのならば、これは良いことなのである。なぜならそれは、「同じ生産をなすのに、労働時間が1割減った」ということを意味するからだ。つまり、失業が発生するかわりに、労働時間が減ったわけだ。また、総生産額と総所得が減ったのは、経済が縮小したことを意味するのではなく、物価が低下して名目金額が縮小しただけのことだ。(品物としての生産量は変わらない。)
パソコンであれ、デジカメであれ、携帯電話であれ、生産性の向上にともなって、単価が低下すると、市場規模は縮小する。それはそれで、特に悪いことではない。商品を安く買えるのだから、消費者にとっては好ましいと言える。── だから、生産性の向上は、普通の状況(均衡状態)では、好ましいことだ。
しかし、不況のときは違う。生産性の向上が、起これば起こるほど、失業者がどんどん発生して、しかもその失業者が消えない。総生産と総所得はどんどん減るが、それは物価低下による名目金額の低下だけでなく、生産量の縮小による実質金額の低下をも発生させる。状況はどんどん悪くなるばかりだ。
結語。
「生産性の向上」は、不況でないときには好ましい。しかし、不況のときには、状況をかえって悪化させる。普通のときには「良薬」であったものが、不況のときには「毒」になる。
だから、不況のときには、何よりもまず、「不均衡状態を改めること」つまり「需給ギャップを解消すること」が先決なのだ。そうしないで、「生産性の向上」などをめざせば、やればやるほど、状況はかえって悪くなるばかりだ。
十分な栄養は、スポーツマンにとっては有益だが、糖尿病患者には、害悪だけがある。有益なものが、状況によっては害悪になる。そういう違いを理解しよう。
( ※ 前項でも、上の赤字強調部分に、似た結論がある。)
( → 「需要統御理論」によれば、こうだ。── 生産性の向上と同じ率で、需要が伸びる必要がある。生産性だけが伸びて、需要が伸びなければ、生産性が向上した分だけ、稼働率が低下して、状況はかえって悪化する。)
【 追記 】
経済の成長には、生産性の向上は必要ない。生産性の向上がないまま、「労働時間の増加」があれば、経済は成長する。そして、そのことが本道であり、「生産性の向上」は邪道だ。
理由は、すでに述べたことから、明らかだろう。「修正ケインズモデル」で理解すれば、「消費性向の低下」にともなって、総生産 Y がグラフ上で縮小していく。それだけのことだ。(マクロ的に動的な変化。)
ここでは、「需要が縮小し、生産が縮小し、所得が縮小する」という形で、経済全体が縮小していくわけだ。このとき、「労働時間の減少」が発生していることに注意しよう。「働く時間が減って、生産も減り、所得も減った」というだけのことだ。
これに対して、「生産性の向上」というのは、「労働時間を減らしたままで、生産と所得を増やそう」ということだ。しかし、話があまりにも、うますぎる。それはいわば、「働かないで金儲けをしよう」というようなものだ。企業にとっては、「利益がどんどん泉のように湧いて出てくるようにしよう」ということだ。
こういう説を信じてはならない。なぜなら、そんなことをめざすと、景気回復が達成されないからだ。「労働時間の増加による経済拡大」は容易に可能だが、「生産性の向上による経済拡大」は困難である(というよりほとんど不可能である)。労働時間を1割増やすことはすぐにもできるが、生産性を通常分よりさらに1%向上させることは非常に困難だ。
景気悪化の理由は、本日分の本文ですでに述べたように、「稼働率の低下」(労働時間の減少)である。こういうときには、「稼働率の向上」(労働時間の増加)が本道なのだ。何かが減ったことが不況の原因なら、その何かを増やせば不況は解決する。全然関係のないことをいじってもダメなのだ。つまりは、「生産性の向上」というのは、不況の実態を見失った、トンチンカンな説なのである。それは、あまりにも邪道であり、本質をまったく見失っている。
朝日の夕刊のマンガで、面白い話が出ていた。「日本経済の景気低迷は困った」という話のあとで、「わが家の景気回復には?」という話題になり、妻が夫に「あんたがもっと働け!」と叫んだ。夫は「はい」とうなだれた。
実に賢明な夫婦である。彼らは「金を稼ぐためには働けばいい」と理解している。だから彼らは並みの経済学者よりも、ずっと頭がよい。なぜなら、並みの経済学者は、こう主張するからだ。
「金を稼ぐためには、働かなくてもいい。生産性の向上があればいい」
「景気回復には、一人一人は働きを増やさなくてもいい。生産性の向上があればいい」
と。そして、経済学者が、こういう阿呆な説を唱える理由は、こうだ。
「生産性が向上すれば、すべてうまく行く。働きを増やさなくても、賃金は増えるし、企業の収益も増える。私自身は、働こうが働くまいが、生産性の向上率は変わらないから、私はいつも通りでいい。単に『生産性の向上』と唱えるだけでいい。それですべては、うまく行くのだ。景気もそれで回復するのだ。さあ、お経を唱えよう、『生産性の向上』と。そうすれば、金はどんどん湧いてくる」
並みの経済学者は、かくも愚かである。「生産性の向上で景気回復」というトンチンカンな説を言うばかりだ。「働く時間を増やせ! 稼働率を上げよ!」という説を批判して、ひたすら「生産性の向上」とだけ唱える。
なぜか? なぜ、そう唱えるのか? ── 実は、彼らは、マクロ経済を理解できないのである。あくまでも個別企業のレベルだけで見る。国全体の経済を見ない。ゆえに、不況そのものを理解できない。だから何も理解できない。
そういうことだ。げに恐ろしきは、マクロ経済音痴なり。
● ニュースと感想 (10月14日b)
前項のつづき。
前項では、「生産性の向上にデメリットがあること」のみを示した。ただし、実際には、デメリットだけでなく、メリットもある。それは、次のことだ。
・ コストが低下することで、「下限直線の低下」が起こる。
・ 「下限直線の低下」は、「不均衡」を解決する方向に向かう。
・ コスト低下は、企業所得および労働所得の向上をもたらす。
こういう効果は、たしかにある。そして、それは、「生産性の向上というものはすばらしいことだ」という直感に一致する。
ただし、次のことに注意しよう。
1. こういうメリットは、「人員削減」と同時に発生する。
2. 「人員削減」は、不均衡のときには、状況をさらに悪化させる。
3. だから不況期には、「生産性の向上」は、長所と短所が両方ある。
4. 「生産性の向上」と「不況」とは、関係はあるが、別のことである。
5. 「不況」を解決するには、あくまで、需給ギャップの解決が必要だ。
6. 需給ギャップの解決には、生産面だけでなく、需要面が大切だ。
7. そもそも、「生産性の向上」は、達成しえない。年率2〜3%だけだ。
政府がどんなに音頭を取っても、劇的に向上させることは不可能だ。
特に、最後の点が大切だ。「生産性向上のために、ああせよこうせよ」などと主張して、「構造改革」「投資減税」「法人税減税」「研究開発優遇」などを唱える人が多いが、そんなことは、いくらやっても、スズメの涙程度の効果しかない。当たり前だ。そんなことで、うまく行くはずがないのだ。
一方、「稼働率の低下」がある。これは、生産性を大幅に引き下げる。設備や人間が遊んでいれば、生産性は、パーセント単位ではなくて、1割以上も大幅に低下する。結局、「生産性の向上」だけを主張して、需給ギャップを無視すれば、生産性はかえって低下するのだ。(理由は、「稼働率の低下」)
真実を見抜こう。「生産性が低下したから、不況になった」のではない。「不況になったから、生産性が低下した」のだ。ここを逆に理解している人が、何と多いことか! そしてまた、対策法を逆に主張している人が、何と多いことか!
[ 付記 ]
上のことからわかるが、生産性を大幅に向上する方法がある。不況期に限るが、そのときは生産性が大幅に低下しているわけだから、以前の生産性に戻すだけで、生産性を大幅に向上させることができる。
では、どうやって? それは、「解雇」だ。別名、「リストラ」だ。
不況のときには、生産が縮小している。一方、労働時間は同じだ。(たとえ工場で工員が働かないでブラブラしていても、勤務時間が同じならば、労働時間は同じだ。また、管理職や事務職など、非生産部門でも、労働時間は同じだ。)こういうふうに、「生産が縮小して、労働時間が同じ」という状況では、生産性は大幅に低下している。だから、「生産量を増やす」か「労働時間を減らす(賃金を減らす)」か、どちらかが必要だ。不況のときは、前者は無理だから、後者しかない。ゆえに、「解雇」が、「生産性向上」の唯一の方策となる。
結局、不況のときは、「生産性を向上させよ」というのは、「労働者を解雇せよ」と言っているのと同じなのだ。── そして、それに従って、経営者は「リストラ」をする。かくて、失業者はどんどん増える。
つまり、「生産性の向上」をめざせばめざすほど、失業者が増えるわけだ。
しかも、である。失業者の生産性はゼロだ。だから、個々の企業が「生産性の向上」をめざせばめざすほど、マクロ的には、国全体の生産性はどんどん低下していくわけだ。(「合成の誤謬」である。)
● ニュースと感想 (10月14日c)
「生産性向上で景気が良くなる」という意見がある。これを否定しておく。(再論。)
「生産性向上で景気が良くなる」というのが、成立すると仮定しよう。
さて、昔に比べて今は、ずっと生産性が向上している。だから、その分、好景気になっていいはずだ。しかし現実には、そうでない。矛盾。(背理法。)
結局、「生産性向上で景気が良くなる」というのは、事実によって否定されるわけだ。
では、正しくは? それは、こうだ。
1. 生産性の向上は、同じ経営資源を用いての、「生産可能な量」を拡大する。
2. 景気の良し悪しは、「生産可能な量が、実際に生産されるか否か」を決める。
この ii では、「生産可能な量が、実際に生産されるか否か」と述べた。これは、「稼働率が十分か否か」つまり「供給能力に応じた需要があるか否か」ということだ。もし供給能力に応じた需要がないと、生産可能な量が実際に生産されない。稼働率が低下する。そうすると、採算割れ(赤字)となり、倒産・失業が発生する。かくて、経済システムが崩壊していく。(不均衡状態が拡大する。)……それが「不況」だ。
そして、 i と ii はまったく別のことなのだ。このことに注意しよう。
私は今まで何度も、「需給ギャップ」という言葉を用いてきた。そして、このこととの関連を示せば、次のように言える。
「需給ギャップの発生」とは、「稼働率の低下」のことである。
サプライサイドの経済学者は、「生産性の向上」「生産能力の向上」を唱える。それに対して、私は、「需給ギャップをなくすこと」つまり「稼働率の向上」を唱えているわけだ。
そして、その二つの説の、どちらが正しいかは、現状を見れば判明する。「生産能力の向上」が必要なのだとしたら、今は生産能力が不足しているわけだから、インフレが発生しているはずだ。逆に、「稼働率の向上」が必要なのだとしたら、今は稼働率が低下しているのだから、デフレが発生しているはずだ。
どちらが正しいかは、現状を見れば自明だろう。そして、こういうこともわからない無知な人々が、「サプライサイド」の考え方に従って、「供給能力の向上が長期的に必要だ」などとインフレ対策を唱える。無知な人間が権力を握って、現在のデフレをどんどん悪化させていくのである。
( → 第2章 ,2月10日 ,7月20日b にも、本項と似た内容を記述した。)
( → 11月28日 ,1月25日 にも、「生産性向上」と「景気」の詳しい話がある。)
[ 付記 ]
個々の企業を見ても、証明できる。
「企業が優秀になれば、景気は回復する」という説が成立するのであれば、優秀な企業の株価は、高くなっているはずだ。たとえば、ホンダ・キヤノンといった会社は、業績がどんどん向上しているのだから、株価は非常に高くなっているはずだ。しかるに、そうなっていない。他の企業に比べれば相対的にはマシだが、それでも株価全般の低落の影響を受けて、これら優良企業の株価も低落している。(当たり前だが。)
では、なぜか? 当たり前だ。個々の企業がいくら優秀な製品を生みだしても、買い手としての客の財布に金がなければ、どうしようもないのだ。個々の企業がいくら頑張っても、マクロ的な状況(総需要)が改善しない限り、ダメなのだ。
こんなことは、マクロ経済学の初歩だ。そういう初歩も理解できない無知な人々が、「企業を優秀にすれば景気が良くなる」という妄想をふりまく。
● ニュースと感想 (10月15日)
前項 では、「生産能力の向上」よりも「稼働率の向上」が大事だ、と示した。つまり、サプライサイドに従って、「生産能力(供給力)の向上」を実現しても、「稼働率の低下」があっては、設備が遊休するだけだから、逆効果であるわけだ。最大可能量たる生産能力よりも、実際になされる生産量こそが大事なのだ。
これは、サプライサイドへの批判だが、同時に、マネタリストへの批判ともなっている。このことに注意しよう。というのは、マネタリストはしばしば、こういうふうに主張するからだ。
「消費よりも投資を増やすべきだ。消費はただの無駄遣いだが、投資は生産能力を高める。投資こそが大事だ。実際、歴史的にも、そうだった。ろくに貯蓄もしないで消費ばかりしている国では、成長率が低かったが、一方、戦後の日本のように、貯蓄の高い国では、消費を抑制して投資を増やしたから、成長率が高かった。消費よりも投資が大事なのだ!」
これは、均衡状態では、正しい。均衡状態においては、「貯蓄 = 投資」が成立するから、貯蓄すればするほど、その金が投資に回る。そして生産能力の向上にともなって、成長率は高まる。
しかし、不均衡状態では、そうはならない。第1に、「貯蓄 =投資」が成立しない。ゼロ金利のときには、投資が頭打ちだ。つまり、消費を減らして貯蓄しても、投資は増えない。金は投資に回らずに、単に滞留するだけだ。第2に、稼働率が低下する。つまり、設備が遊休する。いくら生産能力を高めても、その生産能力は無駄となり、遊んでいる生産設備(つまり無駄)が増えるだけだ。しかも、消費が減ることで、売上げが減るので、実際には、生産量も所得も、循環的にスパイラル的にどんどん減っていき、状況はどんどん悪化していく。
結局、サプライサイドも、マネタリズムも、「生産能力」ばかりに目を奪われ、「稼働率の低下」ということを、理解できないのである。生産可能な量ばかりに目を向けて、実際の生産量に目を向けないのである。彼らは、カタログ上の数値ばかりを見て、事実を見ることができないのだ。
http://www009.upp.so-net.ne.jp/izumi/97d_news.htm
いささか古いですが、核心をついているかもしれません。