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http://melma.com/contents/moneyfeature/081117.html
崩落する米系商業銀行と試される日本人
2008/11/17
我が研究所は今年4月頃より、公開の媒体(ブログ、メルマガ等)を通じて次のような分析を読者の方々に提示してきた。
「米系“越境する投資主体”の雄である投資銀行はまもなくその姿を消すことであろう。なぜなら、金融システムの世界史的な大転換の中で、直近までのその最先端の担い手であった彼らこそ、金融メルトダウンの元凶であることが明らかとなってくるからである」
当時、こうした“警告”について、我が研究所の熱心なクライアントの皆さんですら、「まさか」と信じられなかったようである。しかし、その後、事態は着実にそちらの方向へと進んでいったことはご存知のとおりだ。そして今や、世界有数の“越境する投資主体”である二つの投資銀行まで、その存続が危ぶまれるに至っていることも、大手メディアによる報道を通じて公知の事実となっているのではないかと思う。
しかし、そうした大手メディアの報道の中で決して語られないものの、マーケットの猛者たちが今、「もはやIF(もしも)の問題ではない」と考えているポイントが一つある。それは、これからのマーケットで生じる金融メルトダウンの中で“主役”となるのは、もはや投資銀行ではないということである。その代わりに舞台の中央へと飛び出してくるものは一体なにか。―――答えは「米系の商業銀行」なのである。
なぜそうなるのか、想定される仕掛けについての説明は各人各様だ。これから崩落していく米国経済の中でも根幹を為すセクターに引きずられるという説明もあれば、それを待たずしてそもそも抱えている巨大な損失が露呈するという見方もある。ただ、一つだけいえるのは、これらマーケットの猛者たちによる見解には共通点があるということである。それは、「これからは米系商業銀行こそが崩落していく」という読みなのである。
ここで思い出されるのが、1929年から始まる金融恐慌、そして昭和恐慌の中で、日本でも「銀行セクター」が槍玉に挙げられたという点である。しかも、国内における取り付け騒ぎで問題になったというだけではない。そもそも当時からして、日本の銀行制度は時代遅れであるという指摘が英米勢よりしきりになされており、それが実際、日本経済崩落の要因となったのである。
この点について、今、私の手元にある本(高橋亀吉他「昭和金融恐慌史」講談社学術文庫)を紐解くと、英国の有名紙「マンチェスター・ガーディアン」が日本の銀行システムを評して、次のように述べていたとの指摘にぶつかる。
「結局日本の銀行整理をますます緊要とするようになるに違いない。日本は驚くべき経済発展をなしとげたにもかかわらず、その銀行制度は半世紀も遅れて、現代の発達した産業界には不適当なものとなっている。」
明治維新の当初、日本には西洋流の「銀行制度」は無かった。明治政府は立法を行うことで銀行設立を在野に呼びかけるが、なかなかうまくいかない。それがようやく実ったのは、かつてのサムライたちに対して手切れ金として秩禄公債を渡したところから始まった。なぜなら、そうした秩禄公債を彼らは資本金として積み立てることで、日本各地で雨後の竹の子のように銀行を作り始めたからである。その数は数千にも及び、かえって政府が「これ以上の銀行設立は認めない」と命ずるほどだったのだという。
しかし、こうしたきっかけで設立された銀行たち、特に財閥系ではなく、地方における銀行は、そもそも成り立ちからして「在地豪族の、在地豪族による、在地豪族のための銀行」とでもいえるものであった。そのため、危機に際してこれに対処するための仕組みすら持っていない場合が多く、その脆弱性が英国勢をして先ほどのような批判へと駆り立てる有様だったのである。
これに対し、時代は一気に下って、現代日本。国富1400兆円ともいわれた日本の銀行セクターが、ファンドや投資銀行といった直接金融上の“越境する投資主体”とは一線を画する形での経営手法を結局は堅持した結果、世界でもっとも注目される存在の一つになっていることは、読者の皆様もご存知のとおりである。一方、米英勢はといえば、一時は自国における金融セクターの“先進性”を喧伝していたものの、今や虫の息である。―――「歴史の皮肉(Ironie der Geschichte)」とは正にこのことであろう。
こうした論点も含め、今後、激動が想定される“マーケットとそれを取り巻く国内外情勢”と、その背景にありながら私たち=日本の個人投資家が知ることのなかった歴史上の“真実”について、私は、11月29・30日に横浜、さいたま、東京で、そして12月6・7日に大阪、名古屋でそれぞれ開催するIISIAスタート・セミナー(完全無料)で詳しくお話できればと考えている。ご関心のある向きは是非ともお集まりいただければ幸いである。
やれ「時代遅れだ」「コーポレート・ガヴァナンスが足りない」などと米欧勢から尻を叩かれ続けたものの、結局は時代の寵児となりつつあるのが日本、しかもその金融セクターなのである。だが、「ようやく日本の時代がやってきた」などと胡坐をかいていてはならないのだろう。これから訪れる世界史の新しい一ページは、正に“航海図無き海路”なのである。誰もお手本はいない。見回すと自分しか、マーケットの中で生き残っていない。すなわち、自分自身で考えるしかないという状況に、日本の金融セクターは言うに及ばず、私たち=日本の個人投資家・ビジネスマン、いやもっといえば、日本社会全体が飲み込まれるのである。
「日本にはもっと何かが出来るはずだ」
「日本にヴィジョンを示して欲しい」
私たち=日本の個人投資家・ビジネスマンが知らないところで、実は密かにそうした熱望が世界中で高まっている。
そこで一体何を語り、何を訴え、そして何を動かしていくのか。―――私たち=日本人一人ひとりの能力がかつてないほどのレヴェルで問われる日が、もうすぐそこにまでやってきている。ちなみにこの問いに関する我が研究所なりの「答え」は、来年1月に開催する「新刊記念講演会」にてお話する予定だ。2009年以降の日本と日本人のあるべき姿に関心を持たれた方々は、ぜひ会場に足をお運び願いたい。
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