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● ニュースと感想 (1月08日)
「派遣の規制」について。
製造業への派遣の規制が論議されている。サービス業だけでなく製造業の工員にまで派遣を認めることの是非だ。
企業の側は、「企業にメリットがあるから規制するべきでない」と主張し、労働者の側は、「労働者にデメリットがあるから規制するべきだ」と主張する。具体的に細かな話は、ネットでニュース検索してみてほしい。
なかなか話が噛み合わないようだが、この問題は簡単に解決できる。基本は、こうだ。
「物事の本質を考えて、原則通りにする」
要するに、細かな話をああだこうだと交わす必要はない。こういうふうに立場の異なる意見がぶつかるときには、双方の原理が対立しているのであるから、細かな点で論争しても無意味である。企業がいくらメリットを述べようが、労働者がいくらデメリットを述べようが、全然、話が噛み合わないのだから、話をするだけ無駄。……つまり、これを「経済論議」と見なして論議すること自体が、根本的に間違っている。
では、どうすればいいか? 原理原則の対立とは、哲学論争なのだから、哲学の原理に戻って考えればいい。日本人は、こういう哲学論争がまったく苦手だ。現実的なことばかりを考えているから、物事の本質を見失う。そのせいで、無駄論議ばかりをする。
では、哲学論争とは、何か? 今回の例で言えば、こうなる。
「自由には責任がともなう」
経済の細目については、「自由」という原理が成立する。やたらと規制すればいいものではない。派遣労働の問題もまた同じ。「派遣で問題が起こるから派遣を規制して廃止せよ」という主張は成立しない。派遣であれ何であれ、経済の原則は「自由」であるべきなのだ。この点では、企業側の主張が正しく、労働者側の主張が間違っている。この問題を「規制」で解決しようとするのは、ただの社会主義経済でしかない。
では、企業側の言うとおりにすればいいのか? 派遣を野放しにすればいいのか? ひどい雇用形態を野放図にしておけばいいのか? もちろん、否。自由という耐性において、単に放置すれば、「弱肉強食」となる。それは文明社会のあり方ではない。「ライオンがウサギを食う」という動物社会だ。そんなことは人間の社会とは違う。
「自由」は大切だが、「自由」には「責任」がともなう。── これが哲学的な真実だ。こういう哲学的な真実を誰もが忘れている。(普段から哲学的に「自由とは何か」ということを考えていないからだ。)
今回の例で言えば、こうなる。
「派遣という労働形態は、規制するべきではない。しかし、派遣という労働形態を利用する企業の側は、そのメリットを享受する分だけ、そのメリットにともなう責任を引き受けなくてはならない」
具体的に言えば、こうだ。
「雇用するときは自由で、解雇するときには無責任、というのをやめる」
つまり、雇用するならば雇用するで、それにともなう責任を引き受けなくてはならない。派遣には「解雇しやすい」というメリットがあるのだから、そのメリットを享受するのであれば、そのメリットにともなう責任を引き受けなくてはならない。
具体的には? 次の二通りだ。 (*)
「解雇するときには、解雇に際して一時金を支払う」(米国のレイオフに似ている。)
「雇用している間は、失業保険の保険料を高額で支払う」
このうち、特に後者が絶対的に必要だ。要するに、企業は派遣労働者を安価に雇用することができるが、そのかわり、失業保険の保険料を高額で支払うべきだ。たとえば、給与の 50%ぐらいに相当する保険料を支払う。
これなら問題あるまい。派遣労働者は、解雇されたあと、失業保険を受け取ればいい。しかも、正社員の場合と違って、受給制限のようなものはない。「1カ月勤務して、5カ月ほど失業保険をもらい、また1カ月勤務して、また5カ月ほど失業保険をもらう。年間の実働時間は2カ月だけ。」というのも許容される。なぜなら、その分、高額の失業保険が支払われているからだ。(企業の費用で。)
現実には、そうなっていない。失業保険は、派遣も正規社員も一律だ。そのせいで、「正規社員の支払った失業保険の金で、派遣労働者が失業保険を受け取る」というふうになっている。その意味は、こうだ。
「派遣労働者を利用している企業は、失業保険の支払いを免れることで、国家(国民全体)から富を盗んでいる」
要するに、国からの泥棒だ。これが「派遣を利用する企業」の実態だ。だから、経営者側の論理は、泥棒の論理にすぎない。
そして、この問題を解決する方法は、簡単だ。基本原則に戻ればいい。「自由には責任がともなう」という基本原則に。……そうすれば、結論は自動的にわかる。すなわち、上記の二点(*)だ。
http://www005.upp.so-net.ne.jp/greentree/koizumi/