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(回答先: 江戸幕府から明治政府になった時、何故か国が利子を払わないと通貨が発行できなくなった弊害に気づいている人たち 投稿者 ブッダの弟子 日時 2008 年 8 月 25 日 03:56:31)
http://fxthegate.com/2008/01/12_3.html
徳川幕府が確立した貨幣制度の基本は、金貨・銀貨・銭貨の3種類の貨幣を定める三貨制度である。貿易によってもたらされた様々な中国銭の国内流通に加え、江戸時代より前は貨幣が私鋳されていたので、質の悪い貨幣など様々な種類の貨幣が出回り、それらが流通することで取引に問題が生じていた。
また金山・銀山で採掘された金銀も産地ごとに質的な差があり、これも取引に支障をきたす要因であった。こういった状況から家康は天下統一の具現策のひとつとして、全国どこでも通用する均一の質の貨幣に統一する必要があったのだ。見方を変えれば幕府による「貨幣の発行権」の独占である。
幕府は金座、銀座、銭座と呼ばれる貨幣鋳造機関を設立し、それぞれの貨幣を鋳造させた。これらは明治に誕生した国営の造幣局とは概念が異なる。金座、銀座、銭座は、幕府から特権を与えられた町人(特権商人)によって構成される請け負い事業だったからだ。現在でいうところのアウトソーシングである。
これらを幕府の役人である勘定奉行が厳しく監督し、鋳造された貨幣は原則として幕府勘定所へ上納された。マネジメントは幕府の役人が担い、実際の作業は民間が請け負うという仕事のしくみは、幕府直轄領の金山・銀山の運営システムとよく似ている。これぞ「民間にできることは民間に」を実践する小さな政府の政策である。
家康は1601年、全国流通を目的とした慶長金銀を制定した。金貨鋳造の中心となった人物が彫金工芸師・後藤庄三郎光次である。後藤は「大坂冬の陣」で徳川軍の尖兵として活躍した人物だ。金貨鋳造と鑑定・検印を行った金座は、家康が1595年、江戸に後藤を呼び、小判を鋳造させた時に始まる。幕府設立後は勘定奉行の支配下に置かれ、江戸本石町に役宅(現在でいう公邸)が設置された。
当初は駿河、京都、佐渡にも金座は置かれたが、幕末まで続いたのは京都と江戸のみである。家康に抜擢された後藤庄三郎は御金改役(ごきんあらためやく)として金貨の鑑定と検印を行い、実際の鋳造は小判師と呼ばれる職人が担当した。幕府から金貨製造の許可を得た小判師たちは後藤家が居住する金座役宅の周辺に自宅を構え、品質や納期などすべて後藤家がマネジメントし、自宅で作業した。小判師たちが鋳造したのは原判金だ。これが後藤の役宅で検定され、後藤家の極印(五三桐の打刻)がなされたものだけが貨幣として認められたのである。
後藤庄三郎光次は単なる金商ではなく、幕府の経済政策担当者のような存在であった。そもそも小判の鋳造を提案したのは後藤であった。以前より太閤秀吉が使う大判は金額が大きすぎ、商売で使うには不便であり、大判の1/10の価値にした小判を使えば流通が栄えると提案したのである。幕府は庄三郎のプランをすぐに理解し、後藤家による新貨幣の製造がスタートした。朱印状の発行も後藤が家康に取り次いだとされていることから、貿易にも明るい才人であったのだろう。
興味深いのは、原判金の鋳造に必要な材料は小判師たちが自身で調達したことである。フリーランスの小判師たちは自己責任で金・銀商人から金を買い入れるか、幕府直轄の金山から入札して入手したという。やがて管理の徹底と小判師の分散化を防ぐために、1698年には後藤家の敷地内に鋳造施設が設置され、以降江戸での金貨製造はこの金座のみで実施されるようになった。
貨幣鋳造機関の中で金座は特に厳しい管理、統制を受けていた。複数の作業員による相互監視体制、職人採用時の誓約書の提出、家柄の限定などである。
一方、銀貨の鋳造が行われた銀座は、家康が1601年に京都・伏見に設立したのが起源である。銀貨は堺の両替商・湯浅作兵衛が世襲で鋳造した。湯浅は徳川家から大黒常是という姓名を与えられ、銀貨には大黒家の極印が記された。
もとはといえば「物価が混乱しているのは銀貨が不安定だから。良質の銀貨を発行して欲しい」と銀貨発行を提案したのは、摂津国平野の豪商で大津代官の末吉勘兵衛である。伏見の銀座は大黒家が仕切り、前出した後藤庄三郎光と末吉勘兵衛一族がリーダーとなって管理した。銀座も勘定奉行の支配下にあったが、金座同様、商人による請け負い事業であった。
By Master K/益田 慶