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日本銀行の井上総裁 ・・・ 「外國に行つて、日本の整理の状態と比較して見ますと、日本は非常に劣ります。」 【三和 良一】
http://www.asyura2.com/08/hasan56/msg/471.html
投稿者 hou 日時 2008 年 5 月 11 日 00:39:40: HWYlsG4gs5FRk
 

(回答先: 昭和恐慌の教訓       【龍尾経済論集 第7号 1999年3月 100頁〜107頁】 投稿者 hou 日時 2008 年 5 月 10 日 23:50:54)

上の論文は、概要説明ということで


一部抜粋
本文へリンク
http://www.miwa-lab.org/ronbun/inoue.htm

1 はじめに

2 井上財政の課題はなんであったか

 A 大状況「場」に規定された初期条件・課題
 B 中状況「場」に規定された初期条件・課題
 C 小状況「場」に規定された初期条件・課題

3 井上準之助はどのように政策を決定したか

 A 井上準之助の履歴
 B Arenaの状況
 C Off-Arenaの状況
  i) 井上準之助の内面
  ii) 政党・枢密院・元老¥
  iii) 軍部・財界・海外勢力

 D 政策の選択
  i) 初期の政策選択
   a. 緊縮財政・旧平価解禁
   b. 産業合理化・階級宥和
  ii) C時空変化後の政策選択
   a. 世界恐慌
   b. 満州事変とイギリス金本位制離脱

4 井上財政をどのように評価すべきか

 A 初期政策の合理性
  i) 大状況「場」に規定された初期条件・課題との関連
  ii) 中状況「場」に規定された初期条件・課題との関連
  iii) 小状況「場」に規定された初期条件・課題との関連
   @ ミクロの危機への対応
   A マクロの危機への対応

B C時空変化後の政策対応の合理性
  i) 世界恐慌とイギリスの金本位制離脱への対応
  ii) 満州事変への対応

5 むすび

http://www.miwa-lab.org/ronbun/inoue.htm

 i) 井上準之助の内面

 井上準之助関係の基本資料としては、『井上準之助論叢』4卷、『清渓おち穂』、『井上準之助傳』の6冊が井上準之助論叢編纂会から刊行されている[11]。このほか、井上準之助を知る人の回顧談として、池田成彬、津島寿一、深井英五、青木一雄らの記録が残されている[12]。また、これらの資料を用いて井上財政を論じた著作には、中村隆英『経済政策の運命』[13]があり、関係論文も多い[14]。

井上準之助が、自己の行為を規制する基準としてどのような価値規範を持っていたかについては、注記した文献からさまざまな見方がうかがわれる。井上が人生の目標としていわゆる立身出世を選択し、出世を国家への献身と結びつけて考えていたことは、ほぼ一致した見方である。立身の場としては、金融界を選んだが、これは、独立独行の職業として弁護士を志望したところ、留学費用を実家が出してくれなかった結果であったという[15]。立身を政府官僚経由の道に求めるのが普通であった時代に、官吏になる考えは持たなかったところに井上の価値意識の特質が見られる。日本銀行・横浜正金銀行で、旧来の慣行や権威に縛られることを嫌い、新しい業務の執行方法や新しい制度を採用した話は、数多く残されている。新しいやり方を採用する場合の評価基準は、合理性・効率性にあったようで、ロンドン留学から帰った後の1900年稿の小論文「銀行員の心得一斑」では、日英の銀行員の比較を行いながら、日本の銀行員の非効率性を鋭く批判しており[16]、日本銀行時代の行員や業務の管理にこの批判が生かされている。

井上は合理的と評価できる原則や判断に対しては、それを固持する頑固さを持っていた。日本銀行営業局長としてこの頑固さを押し通したことが、松尾臣善総裁との軋轢を招いて、ニューヨーク代理店監督役への左遷の一因となったといわれる。とはいえ、『井上準之助傳』に序を寄せた結城豊太郎が、「全體として纏まって居れば、局部々々の不出来な事は多く問はなかった」[17]と述べているように、原理・原則を細部にわたるまで貫徹させることを求めたのではなかったようである。したがって、結城が「物事の處理−仕末を着くることのうまかったこと」と言うように、対立する見解・利害を調整する能力も高かった。第2次山本権兵衛内閣の大蔵大臣を辞任した後、「財界世話役」「渋沢第二世」と呼ばれた所以である。

では、池田成彬の人物評、「銀行をやって居る時分にはむしろ小心翼々として、どつちかというと我々から言えば消極的で弱かったですね。」、「民政党に入り政治をやり始めてからは、どうも性格がすっかり變つたと私は思うのです。」「非常に明敏な男だが、弱い人で、急に何だかばかに強い人のようになって来た」[18]という評価は、どのように理解できるのであろう。後段の「強い人」という評価は、緊縮政策への固執やドル買いへの対応を指しているから判りやすい。前段の「消極的で」「弱い人」とは、城山三郎が、ニューヨーク時代の井上を千代子夫人宛の私信によって描き出したように、私人としては理解できるが、帰国後10数年間の横浜正金銀行頭取・日本銀行総裁・大蔵大臣など公人としての井上についての評価としては分かりにくい。池田は、寺内内閣時代に、横浜正金銀行頭取だった井上が、勝田主計蔵相と衝突した時に、「首を切られるかも知れないから辭めたい」と相談に来たことを弱い事例として挙げている。しかし、これは、勝田蔵相がいわゆる西原借款の協調融資団への参加を横浜正金銀行に依頼したのを、井上が断固拒絶した事件であり、むしろ井上の「強さ」を示す事例である。親交の深い2歳年長の池田に、やや弱気を見せたということであろう。

池田が「弱い人」と評した銀行家井上準之助の活動を2度の日本銀行総裁時代について見てみると、目立つのは1920年恐慌と金融恐慌への対応である。第一次大戦後の最初の日本銀行総裁時代(1919年3月〜1923年9月)には、公定歩合を2回(1919年10月・11月)にわたって引き上げ、バブル景気に警告を発する発言をおこなった[19]。この警告が的中して反動恐慌が起こると、井上総裁は、救済融資を主導した。この時、日本銀行は、それまでの方針を変えて、銀行への支払準備資金特別融通ばかりでなく産業ごとに救済資金を特別融通するという積極的な救済措置を採用した。これは、のちに深井英五が日銀の救済機関化の始まりと見たような[20]、日本銀行の変質であり、井上総裁が選択した道であった。井上は、1925年に東京商科大学でおこなった連続講演の中で、この救済措置を、「これまでの救済の方法で行けば、機械が急に運轉が止まったから、何處に故障があるか分らぬが、油を持つて行つてぱつと打掛けるというやうなことをしたのでありますが、今度はさういふ必要は無い、此の機械が動かぬならば、何れの場所に油の切れた處があるか、斯ういうことを見て其の切れた場所に油を注ぐが本當であらう。」[21]と考えたと説明している。反動恐慌が深刻でかなりの期間続くと見た井上は、旧来の慣行を破って、新しい救済方法を実行したのであった。このような措置をとる井上を、池田が「弱い」と評価したとすると、それは、@通貨価値の維持という中央銀行の本来の役割から逸脱した、A救済措置を取るに際して公正な選択が歪められた、というふたつの観点のいずれかからの評価と考えられる。民間銀行家であり反動恐慌対策に苦労した池田が、@のような観点からの評価を下したとは思えないから、Aの観点からの評価で、井上が人間関係から特定の人物への配慮をはかったという批判であろう。当時、茂木惣兵衛との関係が取りざたされ、『井上準之助傳』では井上が茂木家の顧問であったことは否定されているが、茂木家と機関銀行の七十四銀行の整理に井上が尽力したことは事実とされている[22]。高橋是清蔵相が一度は拒否した整理案を、原敬首相を動かして実現させたのであるから、井上の肩入れはかなりのものであった。ここらが、池田に、人間関係に「弱い人」と感じさせたのかも知れない。

二度目の日銀総裁(1927年5月〜1928年6月)としての井上準之助は、高橋是清蔵相の要請をうけて就任し、金融恐慌の後始末に当たった。井上総裁は、すでに制定されていた日本銀行特別融通及損失補償法に基づいて、特別融通を実行し、期限(1928年5月)までに総額約7.6億円を114行に貸し出した。特別融通の決定は、勅令の規定する特別融通審査会(会長日銀総裁、委員大蔵省銀行局長・理財局長、日銀副総裁・理事)が行うのであるから、この時の井上には、「強い人」「弱い人」との評価は当てはまらないであろう。しかし、井上は、度重なる特別融通について否定的な反省の発言をしている。1928年1月の東京銀行倶楽部新年宴会挨拶では、損失補償法について「日本銀行としては本來の性質からいふと遺憾此の上もありませぬが、日本の金融界の大騒ぎを鎮める爲めに、騒ぎを根本的に整理する爲めに、遺憾ながらさういふことになつて居る」[23]と述べている。また、1928年5月の日本銀行本支店事務協議会では、「大正九年来日本銀行の採り来つた所は其本来の立場から云ふと遺憾な事が多い、殊に大正十二年即ち震災後に変則な取扱の最も顕著なものがある、銀行資金の夥しい固定は此度の補償法を機会に大体整理を為し得たが此間に於ける日本銀行の態度は中央銀行として忍びざる所であつたので茲に態度方針の一変を要する」「今後日本銀行は成規の取引以外はやらない積りで夫れが為め仮令銀行が潰れる様なことがあつても已むを得ない、又無理に貸付を行へば自分の立場を失ふに至るのでもう整理救済はやらぬ方針である」と発言している[24]。これらの発言は、中央銀行の節度を守れなかった自分の「弱さ」への痛切な反省とも言えよう。

井上の反省発言の中にある震災後の変則的取扱についても、井上は大蔵大臣として、支払延期令、震災手形割引損失補償令の発令をおこなった当事者である。つまり、1920年恐慌、関東大震災、そして金融恐慌に際して、日本銀行が実施した救済融資は、すべて、井上準之助の関わるところだったのであり、それがもたらした結果に対して、井上は、深刻な反省を強いられたことになる。では、反省すべきは、どのような結果であったろうか。井上は、まずは、中央銀行としての本来のあり方から見て「遺憾」であったといっている。これは、特に、金融恐慌後、日本銀行の特別融通が固定化し、通貨現在高が高水準(1926年末20.3億円、1928年末22.0億円[25])に留まり、市中銀行の日本銀行預金額(1926年5月6189万円、1928年5月5億1568万円[26])も大きく、日本銀行は通貨の調整能力をほとんど喪失した状態に陥ったことへの反省であった。

しかし、井上は、自らの反省とは別に、1920年代の日本経済を厳しく批判している。前に引用した1925年の東京商科大学講演のなかで、井上は、「外國に行つて、日本の整理の状態と比較して見ますと、日本は非常に劣ります。戰争中に斯くの如き經濟界の変動に處して損をしたといふことは、これは世界を通じての事實であります。儲けた人もあれば損をした人もある。併しながら整理に就ては、もう日本は實に外國と比べますと比較にならぬのです。言語道斷、實に愧入る状態であります。」[27]と語っている。また、金融恐慌が一段落した1927年9月の東京銀行集会所における日銀総裁としての講演でも、「此處で禍根を殘してはいかぬので、根本的に此の時機に整理して、日本の此の經濟界を立直すといふことを覺悟して行かなければならぬと、私は思ふのであります。」[28]と話している。1920年恐慌後も、さらに金融恐慌後も、日本経済の整理が進んでいないことを問題としているわけである。整理が進んでいない状態は、後に、金解禁方針を述べた論文では、「大戰後約十年にして尚此の餘風去らざるは、金輸出禁止を繼續し、之れによりて虚僞の財政、虚僞の事業経営、虚僞の私生活に対し一種の保護を與へて居つたことが、其の主因の一であると云はねばならぬ。」[29]と、財政・経営・消費の面で、「虚僞」つまり本来あるべき姿とは異なった状態として述べられている。1920年代の日本経済の状態については、別に検討したことがあり、井上が、「虚僞」と呼んだものが、金本位制停止下の積極政策がもたらした結果であったことはほぼ明らかである[30]。

ところで、井上は、1920年代を「虚僞」の経済と批判するが、それと、まえに見たような日銀の救済融資を「遺憾」とする反省とは、無関係であろうか。井上が「虚僞」と言う積極財政・放漫経営・過大消費は、政友会が主導した政策の帰結であると同時に、井上が関わった通貨政策の産物でもある。日本銀行が、前例をみない大規模な救済融資を繰り返さなかったならば、すくなくとも「虚僞」の放漫経営は破綻して、財界整理は進み、一層深刻化したであろう不況は、「虚僞」の消費を強制的に抑制したにちがいない。井上は、公開の場では、「虚僞」の経済が出現した原因として、政府の政策の不適切さ、企業経営者の怠慢、国民の虚栄などを指摘しているが、おそらく内面では、通貨政策の及ぼした影響を「遺憾」に思っていたのではなかろうか。

吉野俊彦は、井上総裁を論じて、「恐慌救済のための資金放出にのみ終始したとするならば、井上の名前は日本の金融史の上で、それほど残らなかったかもしれない。ところがこれを是とするものも非とするものも、彼が金本位制の復活と、その擁護とのため死をもって戦ったという事実あるがゆえにこそ、彼の政策に一つの筋がとおったことを認めざるをえないのではなかろうか。」[31]と書いている。吉野は、筋がとおったというのは「金本位制度を復活することによって、財界に合理化を要請しまた国民生活に貯蓄の重要性を認識させ、日本経済全体としての国際競争力を高め、第一次大戦終了後、万年赤字をつづけて来た国際収支の改善をはかり、それを基礎にして日本経済の再建をはかることは、たんなる跡仕末的対策の連続とは異なるからである。」と説明している。しかし、この説明は、少しおかしい。救済融資を行うことと、金解禁を行うことは、ただちにひとつの「筋がとおった」政策選択と見ることはできない。救済融資は「虚僞」をもたらした一因であり、金解禁は「虚僞」を正常に引き戻す政策であるから、ベクトルが異なる。「筋がとおった」と見ることができるとすれば、それは、井上が、「虚僞」をもたらしたことを「遺憾」であると反省したうえで、その「虚僞」を否定するべく行動したと理解する場合である。

「虚僞」に加担した「弱い人」が、その深い反省の上に、「虚僞」を放逐するために断固として緊縮・金解禁を遂行する「強い人」となったとすれば、「一つの筋がとおった」話であるし、「性格がすっかり變つた」(池田)ことも理解可能になる。Off-Arenaとしての井上準之助の内面については、この程度のことが推測できそうである。

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