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七十七ビジネス情報第31号 シリーズ 先人に学ぶ
総理大臣になった元仙台藩士
高橋 是清 伝
仙台藩足軽の子として育てられた高橋是清は、渡米して奴隷生活を強いられ、帰国後一時箱屋の亭主になり、数奇な運命に操られながらも、日本最初の特許局長になり、その後日本銀行総裁、大蔵大臣、総理大臣を歴任して「高橋財政」の名を残した。最後は二・二六事件で殺害されたが、その波乱に満ちた人生は私どもに多くのことを教えてくれる。
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宮城 建人
渡米と奴隷生活
高橋是清は1854年(安政1)、幕府の絵師川村庄右衛門が行儀見習いにきていた奉公人に生ませた子で、幼名和喜次といった。生まれてすぐに仙台藩の足軽、高橋是忠のところに預けられた。2年後に他家に養子にとの話があったが、是忠の養母、喜代子が「武士ならともかく町人にやるのは可哀そう。足軽でもここのほうがよい」として、是忠の実子として届けた。喜代子は男勝りの後家で、是清を大変可愛がり、是清が私生児にありがちな劣等感や暗さを持たなかったのは喜代子によるところが大きかったといわれる。
是清は芝愛宕下の仙台屋敷で喜代子の下で成長した。ここには仙台藩留守居役と足軽小者が住んでいたが、あるとき留守居役として大童信太夫が赴任してきた。大童は時勢に目覚めた人で、洋式教練を足軽に授けたり、福沢諭吉と親しく往来して外国新聞を翻訳してもらい、それを通じて外国の事情を学んだりしていたが、そのうちに藩士を横浜に派遣して英仏の学問を学ばせようと思い立った。そして選ばれたのが高橋是清と鈴木六之助(後に日銀出納局長)であった。
当時高橋は12歳で、横浜では、ドクトル・ヘボンの夫人について英語を学び、ヘボン夫妻が帰国した後は、その紹介でバラーという宣教師の夫人の下で勉強した。その後、横浜在住の英系銀行の支配人の下にボーイとして住み込んだが、ここで酒を覚え、その上悪さなどをしたことから、仙台藩が海外留学の人選をする際、鈴木のみを選んで高橋を外してしまった。それを聞いた高橋は何とか海外に行きたいとして、イギリスの捕鯨船のボーイとして海外に行くことを決意したが、たまたま横浜に来ていた仙台藩士の星恂太郎がこのことを聞いて、大童との間をとりなし、勝小鹿が富田鉄之助らとともに米国留学に行く際、同じ船の3等船客として鈴木とともに行くことを認めてくれた。
サンフランシスコに着き、かねて予定していた家に鈴木とともに下宿したが、その家主が悪い人で高橋を奴隷としてオークランドにあるブラウン家に売り渡した。内容が分からないままにサインした高橋にも責任がないとは言えないが、このとき13歳であり、相手は言葉巧みにだましてサインをさせたのであった。富田がニューヨークからサンフランシスコに来た時このことを知り、日本の領事代理に訴え、売買代金相当額を支払って高橋をもらい受けた。
高橋は鈴木とともに日本に戻り、一緒に帰った通弁の世話で森有礼(後の文部大臣)の屋敷に書生として住み込んだ。二人は森の指示で新設の大学南校に入学し、英語ができたため教官の助手になった。ここで米国の宣教師フルベッキの教えを受けるようになった。フルベッキはヘボンと並んで日本の近代化に貢献した人であり、高橋はフルベッキの屋敷内に住み、学問のほか聖書の講義を受けた。
森が渡米中に、高橋は越前藩の重職の子弟にだまされて多額の借財を負うことになり、その上芸者遊びを覚え、ついにはフルベッキの屋敷を出て四つ年上の芸妓の家に同居するようになった。
さすがに箱屋の亭主のような暮らしに飽いて、友人の勧めで肥前唐津藩の英語学校の教師になったものの、その学校が頓挫したため、再び東京に戻り、翻訳で生計を立てるようになった。
官界入りとペルー銀山問題
19歳になったとき、森が米国から戻り、その紹介で文部省に入り、モーレー博士の通訳をするようになった。官界への第一歩である。2年後に大阪英語学校長に任ぜられたが、これを辞退し、一時求道生活に入った。そのあと22歳のとき東京英語学校に就職し、あわせて祖母の勧める西郷柳と結婚、翌年長男是賢が誕生した。
高橋是清像(東京都・赤坂の高橋是清翁記念公園)
東京英語学校も長続きせず、翻訳をしたり、英語教員になったりしたが、1881年(明治14)、新設の農商務省に勤務することになった。その所管事務に発明専売・商標登録保護があり、農商務省が適任者を探していたところ、たまたま友人が同省にいて「この仕事は高橋是清に向いている」として推薦してくれたのであった。当時、外国製品の贋造や同業者間の模倣品が多く出回り、発明者は苦労が報われず、その保護が急務になっていたが、高橋は商標登録条例の作成委員長となって2年半に亘り作成に努力し、参事院に上程して実施に漕ぎ付けた。ところが専売特許条例については反対意見が多く、難航していたところ、森有礼が駐英公使を辞任して帰国したため、その支援を得て参事院・元老院を通過させ、発布とともに高橋が専売特許所長になった。そのあと先進諸国の特許制度を視察し、それを踏まえて特許局を設置し、自ら初代局長になり、築地に新庁舎を建設した。
好事魔多しの譬え、このときペルー銀山問題が高橋の身に降りかかってきたのであった。この話を持ってきたのは前田正名である。前田は「殖産興業の父」といわれた人で、農商務省大書記官をしていたが、一途な仕事ぶりから敬遠されて、農商務省を追われ、そのあと単独で商工農民の組織づくりに奔走した。
前田は山梨県知事の藤村紫朗からペルー銀山開発計画を聞き、これを有望と判断して会社をつくり、高橋に対して株主になって欲しいと要請した。高橋は万一の失敗を考えて1万円以上は出資できないと念押しして参加したが、前田は是清に対し株主を代表して現地に行って欲しいと頼んだ。
高橋は特許局の新築工事にかかったばかりでもあり、これを断ったが、前田は井上馨農商務相に働きかけて高橋の説得にあたった。やむなく高橋は日本側の全権代表としてペルーに向うことになった。問題のカラワクラ鉱山はアンデス山脈の一部で、3千メートルの高地にあり、人家はなく寂蓼たるところであった。ここで用水路の測量を行い、機械の備え付けを行ったが、その作業の最中に、目指す鉱山が数百年も掘りつくされた廃坑であることが判明した。当初、調査に当たった技師が実地調査をせずにペルーの鉱山学校にあった雑誌を翻訳して送っていたのであった。
高橋は途方に暮れたが、この上は事業を放棄して損害をできるだけ少なくしようと考えた。それにはペルー側との当初の契約書を破棄する必要があったが、この事業から手を引くと思わせては先方の了解が得られまいと考え、「カラワクラ鉱山が良鉱でないので、日本に帰って新たに株主を募集したい」として新契約書を提示し、これが成立すれば旧契約書は失効すると付記して、事実上契約を破棄した。
実のところペルー側から当初提案されたのは、農場経営に日本の勤勉な農夫を使いたいという話であり、これを聞いた藤村が使者の持参した鉱石を見て鉱山開発を思い立ったもので、高橋は改めてペルーの農場経営を思い立ったが、世人の見る目は厳しく、国内での事業も失敗して多額の債務を負い、ついに邸宅を売って長屋に住むことになった。
日本銀行総裁に就任
こうした苦境にあった高橋に救いの手を差し伸べたのは日銀の川田小一郎総裁であった。川田は高橋を呼んで、ペルー鉱山失敗の経緯を聞き、きれいに後始末をしてきたことをねぎらい、日銀に入らないかと誘った。ただし、世間の誤解が解けていないので、正社員でなく建築事務所の事務主任としてどうかというのであった。当時、日銀は本店新築工事を進めており、その技術部監督の辰野金吾がかつて高橋の教え子であったことがあり、それを考えてのことであった。
高橋はここで在庫管理の合理化や仕入れ価格の適正化、請負制の見直しなど数々の実績をあげ、数ヶ月にして正社員になり、1893年(明治26)新設の西部支店長(下関)に任命された。齢四十歳。ここでも高橋は力を発揮した。それまで日銀の支店は大阪のみであったため、九州方面の銀行は東京・大阪より高い金利でしか借りることができなかったが、西部支店設立を機に東京・大阪並の金利で調達できるようにとり計らった。また地元の百十銀行が事業に失敗して同業者の信用を失っていたことから、これに融資を認める一方、その資産状態を公表して、同行の信用回復に努めてやった。
日清戦争が終結した1895年、高橋は総裁に呼ばれて横浜正金銀行(現在の東京三菱銀行)に行くよう命じられた。同行は横浜商人の請願によって設立された貿易振興のための特殊銀行で日銀も出資していた。しかし、日銀の方針に合わないところがあって、高橋を派遣して何とかしようと考えたのであった。初めは本店支配人として、後に副総裁になった。
そのころ清国から得た賠償金3億5千万円(国家予算の3倍強)の保管・移送が日銀に命じられ、その代理として横浜正金がその実務に当たっていた。高橋は同行に行ったあと、「為替相場の建て方」「得意先の開拓とサービスの向上」「行内人事派閥の解消」などに努力し、さらに松方総理大臣兼蔵相が賠償金をもとに金本位制を採用した際には、これを積極的に支援した。このときの金本位制採用によって日露戦争の外債発行が可能になったといえる。 横浜正金銀行本店(現在:神奈川県立歴史博物館)
1898年(明治31)、日銀では岩崎弥之助総裁が辞任し、後任に山本達雄が就任した。このとき別の理事を推す動きもあり、そのうえ山本総裁が公定歩合の決定や人事面において独断専行的な行動が多かったため、3人の理事、5人の局長、3人の支店長が辞表を出すという、前代見聞の事件が発生した。このとき松方は山本を辞めさせる意向であったが、伊藤博文が反対して結局、山本が残り、多くの人材が日銀を去ることになった。このため急遽、高橋が日銀に戻され、副総裁に任命された。副総裁ポストは富田鉄之助以来10年間空席になっており、そこに高橋を就けて事件の収拾を図ったのである。
山本総裁の独断専行の行動はその後も改まらず、山本と高橋の間はしっくりといかなかった。このため高橋は大分苦労したが、1903年(明治36)に山本が任期満了とともに退任して、後任に理財局長の松尾臣善が就任したため、この問題は解消した。理財局長を総裁にしたのは、日露戦争間近となり戦時財政を意識しての人事であった。
日露戦争開始当時、日銀が保有していた正貨はわずか1億1千万円に過ぎず、英国に注文した軍艦の代金もろくに払えない状態であった。このため戦争遂行のためには臨時軍事費の半分は外債でまかなう必要があり、外債募集が喫緊の課題となった。その役が高橋に回ってきたのであった。
高橋は深井英五(後の日銀総裁)を伴い渡米したが、当時の米国は日本が負けるとの見方が支配的で公債の発行は難しく、見切りをつけて英国に向かった。英国の雰囲気も決して良くはなかったが、高橋が精力的に努力した結果、英国の銀行に予定の半額にあたる5百万ポンドを6分利付、関税収入抵当という植民地的な条件で仮契約することができた。そのお礼の晩餐会で、たまたま隣り合わせた人がドイツ系ユダヤ人ヤコブ・シフで、ニューヨークのクーン・ロェブ商会の首席代表者であり、この人が残りの5百万ポンドを引き受けてくれることになった。当時、ロシアにおけるユダヤ人迫害は極めて酷く、それが幸いしたのであった。
こうして第1回目の外債募集は成功したが、このあと外債発行は通算6回、発行総額1億3千万ポンドに達し、そのすべてを高橋が担当した。その功績により高橋は貴族院の勅撰議員に列せられ、男爵を授けられた。高橋に随行した深井英五はその著「回顧70年」の中で高橋について「着眼鋭利にして往々人の意表に出て、また困難を冒して所信に邁進する勇気があった」と述べている。
こうしたなか高橋は松尾総裁のあとを受けて総裁に就任した。1911年(明治44)のことであるが、そのころ日本経済は国際収支が慢性的に赤字を続け、外資によってかろうじてバランスをとっていた。そのため日本銀行は高金利政策を採り、政府に対しても歳出の増加抑制や減債制度の維持を申し入れた。
政界入り
明治から大正に移行し、長年に亘って政権を維持してきた桂太郎が失脚して、後継内閣首班に薩摩出身の海軍大将山本権兵衛が選ばれた。高橋が日本銀行において役員会を開催しているとき、突然山本から呼び出しがあり、大蔵大臣になって欲しいという。山本に高橋を勧めたのは松方正義で、二人とも薩閥に属しており、松方の推薦であれば高橋は断れない。当時、政友会の方針として閣僚は軍部大臣と外務大臣以外は政友会員から選ぶことになっており、高橋は政友会にも入党することになった。このとき高橋は60歳、肥えて容貌は豪快、福々しさをたたえていた。
山本内閣の成立は日本の政治史上、閥族政治から政党政治に移行する重要な役割を果たしたが、いわゆるシーメンス事件により約1年で山本は退陣することになり、高橋の蔵相としての実績もさしたるものではなかった。ただこの間、英国・フランスでの外債発行を手がける一方、岩手県出身の原敬とともに東北地方を視察し、各地で地元の盛大な歓迎を受けたと伝えられる。高橋と原は共に井上馨のもとに出入りしていた関係もあり親しい間柄であった。
原が政友会総裁になり、高橋も原を助けて選挙委員長になり、さらに1918年(大正7)に原が平民宰相になったとき、高橋は再び蔵相に迎えられた。その直後に第一次世界大戦が終わり、それまでの好景気が一転して不況になったが、原と高橋は財政面において積極政策をとる一方、低金利を維持して景気拡大を図ったため、景気は過熱し、戦時中を上回るブームとなった。しかしこの景気も大正9年に入ってから瓦解し、一転して慢性的な不況になり、その対策のために多額の国債が発行され、その負担が長く納税者に課せられることになった。
大戦終了後、本来ならば引き締め政策を採るべきところ、高橋が積極政策を採ったためかえって不況を慢性化したとして、高橋は「積極放漫」として後世批判されることになった。
1921年(大正10)、原は政友会嫌いの男に暗殺されたが、丁度ワシントン軍縮会議が始まる直前であったため、原内閣の延長という形で高橋が総理大臣を引き受けることになった。全閣僚が留任し、高橋は大蔵大臣を兼任することになった。そのうえ高橋は政友会総裁にも就任した。しかし、高橋は本来政治家向きではなく、本人も十分自覚していたが、党の方針として「総理と総裁は不可分」となっており、断り切れなかったのである。結果的に党の運営に失敗し、わずか7ヶ月で内閣総辞職となった。
それ以来、高橋の声望は衰えたが、そうした中で1924年(大正13)議会解散があり、高橋は立候補することになった。選挙区として東京、仙台、高知などが侯補にあげられたが、最終的には原の故郷の盛岡となり、激戦の末、与党候補を破って当選した。このときは加藤高明(憲政会総裁)が総理大臣になり、高橋は農商務大臣に就任したが、加藤内閣は短期間で崩壊して、高橋は久々に隠居生活を楽しむことになった。
昭和金融恐慌
1927年(昭和2)、震災手形法案審議をめぐる混乱から金融恐慌が発生し、多くの銀行が取り付けに遭い、そうした中で若槻内閣が総辞職し、代わって田中義一内閣が成立した。田中は大命を拝すると、直ちに高橋を訪ね、大蔵大臣として入閣してくれるよう懇請した。このとき高橋は74歳の老齢であり、病後でもあったが、国家の危機を座視できないとして、三、四十日間という約束でこれに応じた。
高橋は関係者の意見を聞いたうえで、緊急勅令により支払猶予令(モラトリアム)を出すことにした。戦争や天災に関係のない平時にモラトリアムを施行した例はなく画期的な措置であった。あわせて日銀特別融通損失補償法案を作成し、日銀の救済融資をやり易くした。その結果、さしもの金融恐慌も収まり、高橋は在職42日で蔵相をやめ、もとの隠居生活に戻った。
当選直後の高橋是清翁(私邸にて家族と共に)
[盛岡市先人記念館:出所]
ところが1929年(昭和4)、ニューヨーク株式の大暴落を契機に世界恐慌が発生し、そうした中で井上準之助蔵相が金の輸出を解禁したため、景気は再び悪化し、深刻な恐慌に発展した。その結果、1931年(昭和6)第二次若槻内閣は総辞職し、代わって犬養毅(政友会総裁)が首相に就任し、犬養は直ちに高橋のもとを訪ねて大蔵大臣就任を要請した。高橋にとっては5度目の蔵相であった。高橋は直ちに金輸出再禁止の大蔵省令を発令し、続いて緊急勅令によって金兌換停止を踏み切った。
五・一五事件と二・二六事件
その翌年の5月15日、犬養首相は青年将校の凶弾によって死亡、このため高橋は臨時総理大臣に任ぜられ、総辞職の手続きをとった。後継首相には斉藤実(元海相)が選ばれて挙国一致内閣となり、高橋は蔵相に留任した。ちなみに政党政治の道はこのときをもって絶たれることになった。
この昭和7年は農村の窮乏、失業者の増大、人心の動揺が続く中、満州において戦線が拡大し、それに伴って軍部の発言権が増すという、困難な事態に直面していた。高橋は景気の回復が喫緊の課題であるとして、高金利政策から低金利政策に転換すると共に、国債の入札発行を中止して日銀引き受けを実施することにした。これによって国債の発行が容易になり、満州事変の費用や時局匡救事業も容易にまかなうことができた。
高橋としてはあくまでも一時的な便法として考えたものであり、景気が回復すれば増税が可能になり、かりに増税をしなくとも税収は増加し、財政は均衡してインフレも抑えられると判断したのであったが、結果的には多額の国債累増を招き、これを抑制するために高橋は軍部と対立することにもなった。
1934年(昭和9)、斉藤内閣が帝人事件を契機に瓦解し、その後継として岡田啓介元海相による内閣が生まれ、その大蔵大臣には高橋の推薦で次官の藤井真信が昇任した。藤井は苦しい財政の切り盛りを余儀なく、そうした中で病に倒れ、高橋はやむなくそのあとを受けざるを得なくなった。7回目の蔵相就任である。
この頃になると、軍部は満州事変を拡大の方向に進めており、際限のない軍備拡張の要求にさすがの高橋財政もついていけなくなった。これが表面化したのが昭和11年度予算編成時であった。国債累増の結果、その消化が困難になり、高橋は自然増収分を目安に国債発行を減らす計画を立てたが、軍の強い要求によってそれは困難となり、さらに軍は多額の予算を要求してきたため、高橋は断固これを拒否するに至った。軍はいたく硬化し、交渉は深夜に及んだが、81歳の高橋は良くこれに耐えた。これが高橋のつくった最後の予算となったが、結果的に軍部の強い反発を招き、二・二六事件に発展していった。
高橋是清墓(東京都多摩霊園)
1936年(昭和11)2月26日未明、降りしきる雪のなか近衛歩兵三連隊の中橋中尉は部下を引き連れて赤坂表町の高橋邸を襲い、拳銃と軍刀で高橋蔵相を殺害した。この日、岡田首相、斉藤内府、鈴木侍従長なども襲われ、岡田、斉藤は即死となった。いわゆる二・二六事件である。
当時、軍部に対しては元老、重臣ですら恐れていた中を、高橋だけは毅然として軍部を批判し、憚るところなかったが、それを支えていたのは「国家のため」という責任感であった。高橋は2年前に蔵相を受けたとき、すでに死を覚悟していたが、それにしてもあまりに無残な最期であった。81歳と7ヶ月、波乱万丈の人生に幕を閉じることになった。
後世、高橋財政に対して放漫財政という批判の声が少なくないが、深刻な不況への対策としてはあれ以外に方策がなかったとも言え、むしろ命を賭して軍部の要求を拒絶したその志の高さに高橋の真骨頂を見る思いである。
(著者の宮城建人は勝股康行のペンネーム)